Ⅰ-12 掌中
大将軍アブトマットは、ろうそくの火が静かに揺れる作戦室の中で、厚手の地図に視線を落としていた。
机の上には軍道図、城郭一覧、兵站資料、予算表、そして国王の南部視察日程案。
すでに三時間以上、彼は一言も発さず、それらに順番もなく目を通し続けていた。
国王ガーランドの視察は、軍部にとって“機会”であると同時に“災い”でもある。
現地の戦況を確認するという名目はあれど、王が動けば、予算も動く。
それを機に功績を上げようと目論む者もいれば、失点を突こうと狙う者もいる。
とりわけ――ラハティのような大蔵の人間にとっては。
(費用を抑え、なおかつ国王を無事に届ける。……王命にして、綱渡りだな)
アブトマットは無言のまま、行軍経路の赤線を鉛筆でなぞる。
軍勢は全て騎兵とする。
王には馬車を使わせ、休憩中も移動可能な仕様に改造。
兵站は最小限に抑え、補給は通過する各城から徴収。
野営を避け、必ず城に宿泊させることで、費用を“歓迎行為”として現地に肩代わりさせる。
過去に行われた視察や外遊も参照した。
最も最近に行われた南部視察は10年前、前王レミントンの崩御から1ヶ月後。
新王となったガーランドのお披露目として計画された南部視察は、大幅な日程オーバーから予算が膨れ上がったのが記憶に新しい。
過去には外遊中に現地の反政府ゲリラによるテロ未遂などの事例もある。
王族を安全に、しかも効率的に運ぶことは、戦場で敵将の首を取るより難しい。
(予定通りなら十日で踏破可能。……だが、天候次第で一日は削られるか)
彼は地図の上で指を止めた。
宿営先候補を五箇所に増やし、各城の城主の名を小声で反復する。
南部の地域を治めるのは軍属の貴族で、多くがシグ家直属の家臣やそれに連なる諸侯である。
視察の提唱者がアブトマットの時点で、その辺りには既に根回しが完了している。
その時、扉が控えめにノックされた。
「閣下、葡萄酒をお持ちしました」
秘書官の一人が静かに入室する。
金の縁取りのある給仕盆に、深紅の酒が揺れていた。
「ふむ、もうそんな時間か……」
「閣下、そろそろお休みを……」
「……そうだな」
アブトマットはようやく椅子から背を離し、書類の束を丁寧に整え始めた。
その様子を見て、執務室のあちこちで机に向かっていた補佐官たちも、ほっとしたように動き出す。
その中の一人、まだ若い副官がぽつりと言った。
「政務部は連日徹夜のようですね。ウィンチェスター殿は、仮眠も取らずに働いておられると……」
アブトマットはグラスを受け取り、一口だけ飲んで鼻で笑った。
「若いな。一人で出来る仕事量など、たかが知れている」
「はい……それでも頭が下がります。誠実な方です」
「誠実だけでは仕事は進まんよ」
副官が何か言いかけたとき、アブトマットは微笑を浮かべて言った。
「私は幸せ者だ。お前たちのような優秀な部下を持ててな」
その言葉に、一同は照れくさそうに笑った。
だが、それは彼らの勘違いだった。
アブトマットは信じて用いることはしても、頼ることは決してなかった。
情報は役職と資質に応じて限定し、重要な判断は常に自分で下す。
部下が不要な連想や先回りをしないよう、渡す材料は最小限。必要とあらば部下達に一切情報を与えない。
それが、軍を統べるということだ。
(兵に理解も納得も不要。ただ命令に従う、それだけが正しいのだ)
アブトマットは部下を道具としてしか見ていない。
余計な思考をして、アブトマットの予想の範疇から出る事を防いでいるのだ。
だからこそ、今の軍部は上手く回っていると言える。
それ故に、アブトマットに対する部下達の信頼は厚くなる。
アブトマットの言う通りにすれば、万事成功する。
それは部下達に刷り込まれ、裏切りなどの不安要素を限りなくゼロにする。
「……畏まるな。そうだ、これで酒でも飲んでこい」
アブトマットは懐から金貨を数枚抜き、無造作に近くの者へと差し出した。
「そ、そんな……!」
「上官が部下に酒を奢るのもいかんのか?」
「い、いえ! そういう意味では……!」
近くにいた部下が思わず声を上げる。
「では、閣下もぜひご一緒に……!」
「私が行ったら、お前たちが本音を言えなくなるだろう」
アブトマットは呵々と笑った。
「上司の悪口も酒の肴だ。今夜くらい、私を一杯笑ってくればいい」
「ですが、そんなこと……!」
「命令だ。行ってこい」
そう言って、アブトマットは最後にもう一口だけグラスを傾け、静かに部屋を後にした。
その背中が見えなくなった後――
「……閣下は、何という御方だ……」
「寛大さも、器の大きさも、まさに将軍の鑑ですよ」
「ポケットマネーだろ、あの金貨。俺、農村出身だけど、人生で初めて“貴族ってすげえ”って思ったよ」
話は止まらなかった。
やがて彼らは、笑いながら夜の通りを歩き始めた。
そして、王都のあちこちの酒場で“アブトマット”の名は繰り返された。
冷酷で、強靭で、豪胆で、そして誰よりも優しい――
部下たちはそう信じて疑わなかった。