Ⅰ-11 宵燈
王都の深夜は、音もなく沈んでいた。
霧のない夜だったが、空は月を欠き、星々も淡く鈍かった。
広場を横切る衛兵の靴音が、石畳に乾いた響きを残して消える。
それは、まるで夜という巨大な器に吸い込まれていくようだった。
だが、そんな静けさの中でひときわ明るく輝く窓がひとつある。
王城中央棟――政務部の灯りだ。
中では、十数名の政務官たちが黙々と働いていた。
羽根ペンが羊皮紙を滑る音、頁をめくる指先の乾いた感触、誰かの小さなため息。
言葉はほとんど交わされない。
だが、それは緊張ではなく集中だった。
この部屋には、共通の目的がある。ただそれだけで、彼らは言葉を超えて繋がっていた。
その一番奥で、ひとりの男が書類の山を捌いている。
王国丞相、ウィンチェスターだ。
年若くして宰相の座に就き、王政改革の屋台骨を担う俊英である。
だが、その顔はやつれていた。
目の下には深い隈が沈み、口元には緊張が張り付いていた。
背筋こそ伸ばしているが、指先は細かく震えていた。
「ウィンチェスター様、例の件の修正案です」
書記官がそっと書類を差し出す。
「ありがとう、これに関しては陛下の承認だけだな。東部街道の再整備に関する予算案を急いでくれ」
それだけ言って、彼は視線を動かさない。
指先が書類をめくる音だけが鳴る。
誰もが感じていた。
丞相の体力が限界に近づいていることを。
南部戦線の視察が決定してからというもの、ウィンチェスターは一睡もしていない。
仮眠すら取らず、机にかじりつき、文字通り政務に食われる日々。
そして、その姿勢に誰よりも苦しんでいるのが――
「全てにご自分で目を通すつもりなんでしょうか……?」
最年少の女官がぽつりとつぶやいた。
それを聞いた中堅の書記官が苦笑する。
「自分が責任者だからってやつさ。真面目なやつほど陥る」
「倒れたら終わりなのに……」
「それでも、だよ」
まったく、と誰かが呟いたそのとき――
――ドンッ!
政務部の扉が、突然乱暴に開かれた。
重い木戸が跳ね返るように揺れ、室内の空気が一瞬にして張り詰める。
「ウィンチェスター!何をしておるか、貴様は!」
その声は、廊下の先まで響いた。
現れたのは、どっしりした体格の壮年の男。
豪奢な金糸の外套を引っ掛け、靴音は堂々としていた。
大蔵大臣、ラハティ。
王国で最も財布を握る男にして、最も豪放な性格を持つ男。
商人上がりとは思えぬ存在感を放つその登場に、政務官たちは条件反射で立ち上がった。
「ラ、ラハティ殿……!」
ウィンチェスターが机から立ちかける。
「立つな。立つ暇があるなら寝ろ、馬鹿者!」
ラハティはずかずかと机の前まで来ると、書類を一瞥して唸った。
「タワケが!分担という言葉を知らんのか、ええ?」
「しかし……、陛下の南部視察まで、もう時間がなく……」
「お前が倒れたら、元も子もなかろうが!」
ラハティの声が炸裂する。
ウィンチェスターは思わず口を閉じた。
ラハティはそれを見て、ふっと息をついた。
そして、ウィンチェスターの襟首をぐいと掴む。
「いいから立て。今すぐ寝ろ」
「ちょっ、や、やめ……!」
「問答無用!」
ラハティはウィンチェスターを椅子からずるずると引きはがす。
「仕事が――!」
「まだ言うか!周りを見ろ!」
その言葉に、ウィンチェスターがぴたりと動きを止めた。
視線を、部屋の仲間たちに向ける。
全員が、黙ってうなずいていた。
誰も言葉にはしない。
だがその顔には、明確な意思があった。
「な?」
ラハティが小声で言う。
「お前が選んだ奴らだろ?お前が一番に信じてやらんでどうする?」
「……」
ウィンチェスターは目を閉じ、そして小さく頷いた。
「……分かりました。……預けます」
「よし!」
ラハティは満足そうに笑い、ウィンチェスターの背をぽんと叩く。
「ワインとスープを温めておる。朝までぐっすり寝ろ。ちゃんと寝台でだ。文句は受け付けん」
「……了解しました」
「いい返事だ!」
大蔵大臣が宰相を引きずりながら出ていくという前代未聞の光景に、政務部員たちはしばらく唖然としていたが――
その背中が見えなくなると、自然と口角が緩んだ。
「……ふふ」
「なんか、あの二人らしいですよね」
「うん。……いい上司たちだよ」
「さ、俺らもやるか」
誰かが椅子に座り、手元の書類を広げた。
「“いない間に終わってました”って言ってやろうぜ」
「だとしても、ご自分で再確認するって仰るでしょうね」
「再確認の方が短時間で済むんだ、それだけでもウィンチェスター様の仕事量を減らせるさ」
灯火が揺れた。
紙の音が再び、規則正しく鳴り始める。
政務部の夜は、まだ続く。