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Ⅰ-10 祈炎

 ツェリスカは静かに跪いていた。

 淡い紅蓮の火が灯る銀製の香炉から、炎の香油がくゆりと立ちのぼる。

 それはまるで意志を持ったように揺れ、流れていく。

 ここは、ツェリスカの私室の奥に設けられた祭壇である。

 他の誰にも見せたことのない、祈りの間。

 そこには剣でも杖でもなく、ただ一柱の神――『アルドワヒシュタ』を象った小像と、父から授かった小さな火の結晶が置かれていた。


 炎の神アルドワヒシュタ。


 最善なる天則と訳されるその神は、古よりファイファー家の守護神とされてきた。

 情に厚く、勇猛な戦士であったという。

 炎はその神の象徴であり、穢れを焼き払い、罪を裁き、世界を照らす聖火ともなるが――

 また一方で、全てを焼き尽くす業火ともなる。

 ツェリスカの祈りは母のように静かで、娘のように切実だった。


「……神よ。我が息子を……どうか、どうか……」


 彼女の言葉は掠れていた。

 泣いているわけではない。ただ、声が出ないのだ。

 恐怖と不安が、喉を掴んで離さなかった。

 王宮の廊下には耳目が多すぎ、ふとした風すら陰謀の囁きに聞こえた。

 誰が敵で、誰が味方かも、もはや判然としない。

 唯一、確かなことは――

 息子が狙われているということだった。


(……ヘンリー。貴方にはまだ、あまりに早い)


 ツェリスカは炎を見つめた。

 ゆらゆらと燃える小さな灯が、まるで幼いヘンリーの瞳のように思えた。

 この王国の、古き支配構造をツェリスカは知っている。

 バーテルバーグ家の傍流である彼女の実家・ファイファー家が、どれほど尽くそうと――

 最古三家であるシグ、フローコード。

 そして勲三家のユマーラ、ガイルース、ルーインバンク。

 この五家が本気を出せば、ファイファー家などあっという間に吹き飛ぶ。

 その五家に睨まれぬよう、ひたすら頭を垂れ、隙を見せず、王妃の座に就いたのだ。

 しかし、今や王都の空気が変わっていた。

 ガーランド王の突然の南部戦線視察。

 アブトマット派とカルカノ派の諜報員の動きが活発化しているという噂。

 暗殺。クーデター。簒奪。――どの言葉も、日常になりかけている。

 ヘンリーが王位につくためには、ツェリスカが「ただの王妃」ではいられない。

 だが、その座にしがみつくにも、今の彼女には権力も兵力もない。


「……ピダーセン叔父上」


 思わず名を呟いてしまい、唇を噛んだ。

 王の叔父。現在はアーモリー城の城主であり、バーテルバーグ家内で最も実権を握る男。

 もしガーランドが死ねば、成人していないヘンリーに代わって国政を預かる立場にある。

 そしてあの男は――ツェリスカを蛇蝎のごとく嫌っている。

 十年以上、顔すら合わせていないのだ。

 形式的には頭を下げるが、視線には蔑みが宿る。

 それは、ツェリスカが“ファイファーの娘”だから。

 バーテルバーグを名乗ろうとも、彼の目には卑しき臣下の血を引く女でしかない。

 そのような男が摂政の座についたら。

 ツェリスカは王宮に軟禁され、ヘンリーとの面会すら叶わなくなるだろう。


「殿下……」


 扉の外から侍女の声がした。

 しばらくの逡巡の後、ツェリスカは静かに立ち上がる。

 祭壇の火を息で消し、ゆっくりと振り返った。


「そろそろお休みになって下さいませ……」


 侍女の顔には憂いが浮かんでいた。

 この侍女は、ツェリスカが嫁ぐ際、実家から連れて来た唯一の伴侶である。

 幼い頃から付き添ってきた、王宮で唯一信じられる存在。


「……そうね」


「噂など、気にされませんよう」


「……いいの。ガーランドの生死なんて、どうでもいいもの」


 静かな口調だったが、その言葉は尋常ではない。

 王妃が王の生死に興味がないなど、聞かれればただでは済まないだろう。

 だが、侍女は動じなかった。


「お気持ちは分かりますが、どうか口には……」


「貴女と私だけよ、ここには。心配なのはガーランドじゃない。ヘンリーなの」


「……殿下」


「叔父上が玉座に就いたら、私は王宮の籠の鳥。……あの人は、きっとそうする」


 ツェリスカの声は震えていた。

 悔しさと恐れがないまぜになった、耐える女の声音だった。

 侍女はその手をそっと握った。

 昔からそうだった。ツェリスカが父に叱られた夜も、王妃の婚礼前夜も、彼女はその手を握っていた。


「……泣いている暇なんてないわ。私には、やらねばならぬことがある」


「はい……。もしよろしければ、猊下に……」


 侍女の言う“猊下”とは、カルカノ大僧正のことだ。

 だが――ツェリスカは知っていた。あの男の裏の顔を。

 

 ならば――


「……いっそ、首謀者に会ってみようかしら」


「殿下……っ!?」


 侍女の顔が青ざめる。


「暗殺の狙いはガーランド。ただそれだけよ。ヘンリーや私に刃が向いているという噂は、ない」


「……まさか……」


「ならば、首謀者に取り入る余地はある。彼らにとって私は“無価値”だが、裏を返せば“邪魔ではない”ということ。利用価値を示せば、庇護を得られるかもしれない」


 それは、王妃としての誇りを捨てる行為だった。

 だが、命あっての誇りだ。

 ――生きねば、未来はない。


「暗殺の首謀者を探りなさい。他の間者に知られぬよう、慎重に」


「……承知、致しました」


 侍女は、深く頭を下げると、すぐに部屋を去った。

 彼女もまた独自の情報網を持っている。

 王宮貴族も通う高級娼館――その全てと繋がる、特異な力を。

 ツェリスカの父であるクレイン・ファイファーの目に止まり娼館から引き抜かれ、今や王宮屈指の“裏の顔”を持つ女。

 こうして、夜の王宮にはまたひとつ――静かに動き出す影があった。

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