Ⅲ-31 破砕
二日目の朝。
カイツール坂を支配していた夜の静寂は、数千の足音が泥を叩く重低音によって無残に引き裂かれた。
霧は依然として深く、視界を白く遮っている。だが、その白の向こう側から迫りくる「鉄の重圧」を、第一関門を守るショーンベルガー・パイファーは肌で感じていた。門の向こう側で、鎧が擦れ、数多の人間が荒い呼吸を吐き出す音が、反響しながら迫ってくる。
「――踏み潰せ! 泥ごと埋めてしまえ! ベルテルブルグに光を!」
先鋒を務めるバイカル家の猛将、マカロフ・バイカルの咆哮が、湿った大気を震わせた。
それを合図に、ベルテルブルグ連合軍の主力歩兵が、巨大な鉄の波となって坂を駆け上がった。かつては王国を守るためにあったはずの精強な兵たちが、今は功名心と、クーガーが掲げる「真の王家」への盲信を燃料にして、隘路へと注ぎ込まれていく。
「――一列目、槍間! 密度を上げろ! 引く動作を止めるな!」
ショーンベルガーの号令が飛ぶ。
ドワーフが穿った槍の隙間から、鋼の穂先が機械的な正確さで繰り出された。一突きごとに、泥に足を取られた敵兵の絶叫が上がるが、後続の圧力はそれを容易に飲み込んでいく。バイカル、コルト、そしてウェッソン。とりわけウェッソン家の諸隊は、かつてジウ家との縁談で辱めを受けた嫡男ベアードの憎悪を映したかのように、苛烈な勢いで門へと殺到した。死体を踏み越え、盾を重ね、彼らは質量で門をのそうとしていた。
頭上の矢倉からは、ゾロターン・パイファーによる「密度射」が開始された。
「射角固定! 門前五歩、そこに肉の壁を作れ!」
弦の弾ける音が重なり、雨を切り裂く矢の雨が縦列の頭を削り取る。だが、それでも敵の質量は減らない。破城槌が地響きを立てて接近し、関門の閂が、物理的な限界を告げるような悲鳴を上げ始めた。
本陣からその光景を眺めていたクーガーは、冷徹な愉悦に唇を歪めていた。
「見よ、グラッチ。あのような不細工な門、我が軍の重圧にいつまで耐えられると思う?」
「……お見事です、閣下。既にマカロフの先鋒が門をのしております。決壊まで、もはや時間はかかりますまい」
クーガーにとって、目の前の惨劇は自らの正しさを証明するための儀式に過ぎなかった。『光あれ』と唱えた自らの意思が、今まさに泥の中の番犬どもを磨り潰そうとしている。
だが、その瞬間。
クーガーの肌を、異質な戦慄が撫でた。
あまりにも、計算通りに「詰まりすぎている」。
第一関門の前、逃げ場のない狭い通路に、自軍の精鋭たちが身動きも取れぬほどの密度で殺到し、巨大な「一つの標的」と化していた。
その直後だった。
霧の彼方、北側の側壁上段から、人間のものとは思えぬ「山の呻き」が響き渡った。
「――今だ。放せ」
指揮所の奥、総大将ボーチャード・ルドウィッグが静かに右手を振り下ろした。
ドガンジ族の工兵たちが、赤い封鉛を叩き割る。
北壁の棚から、意思を持った巨神の拳が振り下ろされたかのように、巨大な岩塊が垂直に落下した。
轟音。
それは耳で聞く音ではなく、内臓を直接揺さぶる衝撃波だった。
ボーチャードが温存していた、第一前縁の落石。
凄まじい飛沫と泥を撥ね上げ、落下した巨大な岩石は、勝利を確信して関門に張り付いていたマカロフの部隊を、文字通り泥の中に叩き潰した。
「…………なっ!?」
クーガーは目を見開いた。
落石は単に兵を殺したのではない。崩落した大量の瓦礫は、切通しの路面を完全に塞ぎ、最前列を分断したのだ。マカロフの精鋭は岩の向こう側に孤立し、後続の諸隊は、突如出現した「岩の壁」に阻まれて進退窮まった。
「報告! 先鋒マカロフ将軍、落石に巻き込まれ行方不明! 先鋒諸隊、壊滅的打撃を受けております!」
伝令の声が震えている。本陣にまで、砕かれた岩の粉塵と、泥に混じった内臓の匂いが漂ってきた。
「……やってくれるな、ボーチャード」
クーガーの瞳から、傲慢な輝きが一瞬にして消え、代わりに底知れぬ漆黒の憎悪が宿った。昨日、「蛮族も使いようか」と嘲笑っていた彼は、今、その蛮族の工兵が仕掛けた不細工で原始的な「拒絶」によって、自慢の軍勢を泥の中に埋められたのだ。
一方、その惨劇の背後――南側の小平場にある救護所。
「担架、急いで! 止血を優先!」
医療班長ウェリン・ジウの声が、雨音を貫く。
瓦礫の礫で全身を打たれた若い兵が運び込まれる。ウェリンは迷いなく針を火にくぐらせ、泥と血を拭い取った。かつて彼女を辱めようとしたウェッソン家の軍勢が、今、門の向こうで岩に潰されている。だが彼女の目にあったのは、復讐の悦びではなく、目の前の命を繋ぎ止める執念だけだった。
「案ずるな、若造! 貴様の命は、まだフシャスラの雷が守っておる!」
父・カラビナーが、負傷兵の肩を叩いて吼える。
没落したとはいえ、彼らの胸に流れるのは、かつて荒ぶる海を越えてきた勇猛なる北の海賊の血だ。雷神を奉ずる彼らにとって、この地獄のような雨夜も、敵の猛攻も、神が与えた試練に過ぎない。
「針を止めるな、ウェリン! 泣き言を言う暇があるなら、雷神の如く縫い上げろ!」
「言われなくても分かっています、お父様!」
親子二人の咆哮が、死の気配に沈みかけた救護所に活力を与える。
その傍らで、補給担当のカールグスタフが、無表情に新しい医療用の麻布を差し出した。
「カール、前線はどうなってるの?」
「ボーチャード殿が、上の岩を一つ落とした。……ベルテルブルグの『光』とやらは、今頃泥の中で窒息しているだろうよ」
カールグスタフは不吉ながら冷徹な目で、霧の向こうを見据えた。
彼は知っていた。この落石がもたらしたのは勝利ではない。
クーガー・デュ・ベルテルブルグという男の、狂気じみた自尊心に火をつけただけだということを。
雨は降り続く。
カイツール坂は、今や両軍の血と、崩れ落ちた岩盤によって、地獄のような形相を呈していた。
王国の運命を懸けた攻防は、ここから、より残酷で、より執念深い「泥沼」へと引きずり込まれていく。
【 次回更新予定 】 3月18日(水) 20:50
毎週 水・金 の週2回更新
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