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Ⅰ-9 影燈

 ツェリスカが去った後、部屋には静寂が満ちていた。夜は更け、暖炉の薪も残り少なく、ぱちぱちと音を立てながら燻るばかりだ。揺らぐ橙の火が、重厚な天蓋と古い書架の影を壁に落とす。

 ガーランドはひとり、革張りの椅子に深く身を沈め、琥珀色の液体がわずかに残ったグラスを傾けた。蒸留酒の香りが鼻腔をくすぐるたび、ひどく古びた記憶がかすかに呼び起こされ、また霧の中に戻っていく。


 ――誰も、信じられぬ。


 静かに、心の底でそう呟く。

 ツェリスカの進言は正論だった。王を失えば、王位はその血を継ぐ者へと移る。成人していないヘンリーの代わりに摂政を立て、玉座の裏から実権を握る。その筋書きは、あまりに明白で、現実味があった。

 そして、そう望みうる人間は――数えるほどしかいない。

 アブトマット。国王軍を束ねる大将軍。寡黙で忠実な、王の右腕。誰よりも現場を知り、冷徹なまでの判断力と実行力を持つ男。少なくとも、世間の目にはそう映っている。あらゆる貴族が彼の前では敬意を払い、兵士たちは彼の命に従うことに躊躇がない。


 だが――


 ガーランドは、自らの胸の奥に、ある違和を感じていた。

 確信ではない。ただ、ほんのわずかな引っかかり。十代の頃からずっと共に育ち、同じ剣を振るい、同じ戦場に立ってきた男。その背に、いつからか、何かが影のように見えるようになった。

 それが何なのか、いまだ掴めてはいない。けれども、何かを隠していると――そんな直感だけが、心に鈍く残っている。

 ウィンチェスター。若き丞相。聡明で、機転が利く。だが、若すぎた。あの年齢で宰相の座に就くということは、それだけ早くから階段を駆け上がったということだ。野心を抱くには十分すぎる理由が、彼の中にあってもおかしくはない。

 カルカノ。捌神正教を束ねる老僧。慈悲深く穏やかだが、その実、王国で最も恐るべき情報網と組織力を掌握する人物。彼が動けば、誰にも止められぬ。柔和な顔の下に何が潜んでいるか――知り得る者はいない。

 そして、ツェリスカ。

 共に暮らし、子を成し、日々言葉を交わす相手。それを疑うというのは、深い罪悪にも似た苦味を伴う。


 だが――


 情は、判断を鈍らせる。

 そして何より、情など最初からなかった。

 彼女を妻として迎えたのは、義務だった。ファイファー家は王家に仕える筆頭家臣の一つであり、忠義の家系。ツェリスカも誇り高く、教養もある女性だった。それは疑いない。


 だが――愛ではなかった。


 思い出すのは、ツェリスカではない。もっと遠い過去。もはや幻とすら呼べぬほど遠ざかった、ひとりの少女の姿だった。

 黒い瞳。黒い髪。王国では珍しいその色は、どこか静かな湖のように穏やかで、深く、澄んでいた。肌は陽の光を吸った蜜柑のようにあたたかく、だが翳りを帯びていた。陽の国で育った王族とは違う、夜を知る光だった。

 王国にはない、柔らかく抑揚のある声。幼いながらも、芯の通った意志の強さ。戯れの中にも深い思慮を湛えた、思索のまなざし。そして笑うと、世界の端が少し明るくなるような、あの表情。


 ――彼女だけが、特別だった。


 幼き日に交わした約束が、どれほど真剣で、どれほど誠実だったかを、今でも胸の奥は覚えている。国境も、文化も、立場すらも越えて、通じ合っていた。そう思えるほどに、確かだった。

 だからこそ、彼女の死は――現実ではなかった。

 「事故だった」と報告された。内乱の混乱に巻き込まれたと。

 だが、あまりに都合のいい話だった。遺体もなく、遺品もない。ただ、存在が『失われた』という報告だけ。彼女の死は、政略に消されたのだ。王国と共和国の間にかかるはずだった橋は、築かれる前に打ち砕かれた。


 ――そして、何も守れなかった。


 それからの年月、ガーランドはただ政務に没頭した。正しき王政を築けば、彼女が望んだ世界が築けると、信じようとした。だが、その志も、政の奔流に晒されるうちに、どこか擦り切れていた。

 ツェリスカは、ガーランドのその空白を埋める者ではなかった。互いに干渉しすぎず、必要以上に近づかない。その距離感が、最も平穏な関係だった。

 だが、それでも疑うことになるとは。

 摂政の座。王子の後見。母親という立場。十分すぎる動機が、ツェリスカにもある。

 そして、疑念の渦は、ガーランド自身をも呑み込んでいく。

 かつて心を交わした者はもういない。遺されたのは、政と陰謀と、冷たい寝室と、交わらぬ視線と、名もなき遺影だけ。

 それでも――あの名を、ガーランドは口にしない。

 それは、ただ一度でも口にしてしまえば、全てが音を立てて崩れそうだったから。

 名を呼ぶ代わりに、彼は静かにグラスを干す。そして、まだ冷たさの残る椅子の背にもたれ、揺れる炎の向こうに、失われた微笑みの輪郭を探し続けるのだった。

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