さよならのプロポーズ69
重厚感のある黒いドアを開けると、温もりある木材の床目に白い壁が目に入る。その中は、モデルルームかと思う程、無駄を嫌った清潔感に満ちている。
研究室と聞いていたので、家の中は雑多なのかと思いきや、インテリア一つ取っても気を抜いていない感じは、さすが成功者の家という雰囲気が漂っている。
「きれいですね…お手伝いさんとかいるんですか?」
お手伝いさんどころか、着飾った社長夫人でも出てきそうだ。
「迅は、掃除が趣味なんだ。凄いよ、この辺なんか物だらけだったのが、一時間もしない内に片付いてくの」
「…へえ、」
「純鈴さん、」
意外だ。そう思っていると、またもや聞き馴染みこある声に声を掛けられた。懐かしい声に振り返ると、そこには迅がいた。仕事中なのかスーツ姿で、今は秘密を知る身内しかいないからか、珍しくサングラスを外している。切れ長の瞳は申し訳なく揺れ、純鈴の前にやって来ると、迅は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「え、や、やめて下さい!三神さんが謝る事は何もありませんから!」
「ですが…」
「三神さんが船を出してくれたおかげで、爆発に巻き込まれなかったし、いつも守ってくれたじゃないですか」
「…私がついていながら、大怪我をさせてしまいました」
不甲斐ないと拳を握る迅に、純鈴は首を横に振り笑った。
「こんなの大した事ありません。歩けない訳じゃないし、それに、私が城跡に行こうとしなければ、そもそも社長と対峙する事もなかったんです。三神さんだって、そのせいで怪我をしたんですから」
私の方こそと純鈴が謝れば、迅がまた頭を下げようとするので、ヤブキは慌てて止めに入った。
「それさ、多分前にもやってるから!俺、何度か見てるから!」
確かにそうなのだが、消えない後ろめたさも後悔も胸にある。簡単に吹っ切って良い話ばかりではない、相手が例え許していても。
お互い下を向いてしまうと、ヤブキは二人の肩を叩いた。
「今は皆生きてる、謝るのはお互いおしまいにしよう!」
そんな簡単な、という声が迅から聞こえてきそうだったが、ヤブキは構わずその肩を抱き寄せた。
「今はそれよりも、ランとの再会を慎重にやらないと!」
そう気持ちを入れ直すヤブキに、純鈴はいよいよ緊張を覚え始めた。しかし、いざ会うとなると、本当に良いのだろうかという思いも胸に過ってくる。ランは純鈴を傷つけたくないと言うが、それは、もう自分が傷つきたくないという思いの裏返しではないのかと。
自分の存在が、ランの負担になるのではないか。純鈴は突然不安に襲われ、ヤブキと迅を見上げた。
「あの…今更なんですけど、ランさんは私に会いたいのかな?会って良いのかな?」
不安に尋ねる純鈴に、ヤブキはその肩を掴んで視線を合わせるように少し腰を屈めた。
「俺達、本当は、ずっと純鈴ちゃんに来て欲しかったんだよ」
「はい、ランさんのあんな姿を見るくらいなら、無理矢理連れて行けば良かった。毎日、ぼんやりして、辛そうでしたから」
苦笑う迅に、純鈴も眉を下げた。
「…ランさんは、」
「帰ったのか?」
新たな声が聞こえ、純鈴は咄嗟にキャップのつばを下げて顔を隠し、迅とヤブキは慌てて純鈴の前に立ち塞がった。
「…どうしたんだ?二人して。その人は?」
「へ?なんもなんも!ほら、エアコンの調子悪くてさ、業者さんに来て貰ったんだよ」
ぽん、とヤブキに肩を叩かれ、純鈴はつばを掴みながら会釈する。帽子のせいで顔は見えないが、今の声は間違いなくランのもので、ランがいると思えば、知らず内に鼓動が全身を駆け巡っていくようだった。
生きている、ランが、ここにいる。夢でも会えなかった、その手を離してしまった、そのランが、ここにいる。
その思いに体が震えてしまいそうで、勝手に込み上げてくる涙を抑えるのに、純鈴は必死だった。
純鈴からは見えないが、なだらかな螺旋階段を降りながら、ランは不思議そうに首を傾げている。銀色の髪は、あの重たい前髪のウィッグに隠れ、コンタクトを外しているので、瞳は深く沈みそうな緑に染まっている。迅より畏まっていないが、かっちりとしたシャツを着こんでいた。
「…エアコンなら、普通に使えてる。気のせいじゃないか?」
「え!?そ、そう?おっかしいなー!」
確かヤブキは、演技が上手いと豪語していなかっただろうか、それとも、主人であるランの前では緊張するのだろうか。そらとぼけた姿は演技とは言えず、ただの下手な嘘だ。
純鈴はつばを少し上げ、そっとランの様子を窺った。
「…少しは相手の迷惑を考えたらどうだ」
ランは気難しそうに顔を歪めている。ヤチタカの人間である事を気にしてるのだろうか、ランはずっと隠れて生きてきた人間だ、だが純鈴はそれよりも、その顔色の悪さが気になった。少しやつれたような気がする。
「こんな辺鄙な場所まで来て頂いて申し訳ありません。故障はありませんので、お引き取り頂けますか?費用はお支払します、おいくらでしょうか」
人当たりの良い声は、出会った時の子犬の姿を思い起こさせる。震える胸に声が出せないでいる純鈴だが、ランは気にする素振りもなく、申し訳なさそうな体を装いながら、戸棚に向かっい、その中から封筒を取り出した。「生活費から払ってくれ」と言いながら、こちらに再び歩いてくる。そのまま目の前に来るのかと、純鈴は思わず身構えたが、ランは側にいたヤブキにお金を渡すと、そのまま踵を返してしまった。
「え、坊っちゃんどこに?」
「僕は少し車を走らせてくる」
「え、朝も行ったじゃん!」
「…何しようと勝手だろ、客人の前で大声出すな」
「でも、」
「放っといてくれ!」
「ランさん!」
痛々しい声に、純鈴は思わず声を上げていた。
キャップを脱ぎ、振り返ったランとしっかり視線が重なった。純鈴を見留めると、ランはみるみる内に目を見開き、それからよろよろと後退ると、そのまま玄関に駆け出そうとした。




