さよならのプロポーズ63
案の定、ヤブキや迅とは連絡がつかず、信一に連絡を取ると、近くに来ているというので、外で会う事となった。
一年経っても、信一は終始申し訳なさそうに純鈴を気遣ってくれていて、本当に別人になってしまったようで、純鈴は少しばかり落ちつかなった。それとも、もしかしたらこれが信一の本当の姿なのだろうか。
二人がやって来たのは、商店街の外れでひっそりと経営を続ける、老舗の喫茶店だ。高屋程ではないが、それでも細々と経営を続けている。時折、どら焼を持って純鈴達も店に訪れては、世間話に花を咲かせているご近所さんだ。
駅向こうの再開発は着々と進んでいるが、信一は寂れた商店街の未来も一緒に考えてくれている。もうコウシの守った秘密が必要ないなら、高屋から手を引くなら、商店街こそどうなっても構わないと思いそうだが、信一は改めてこの町を理解しようとしてくれているようだった。
店主と親しげな様子を見れば、それが、罪滅ぼしなのか、会社の為かは分からないが、利益だけではないのは、なんとなく伝わってくる。
温かな珈琲は、芸術品のようだ。木目が渋く深みのあるテーブルの上に、繊細に模様が描かれた上品なカップにソーサー、香る珈琲の温もりも含め、その味にたどり着くまでも楽しませてくれる。この空間含めて、特別を味わせてくれるような店だった。
いつもの珈琲の味わいに、純鈴はほっと息を吐く。目の前の信一は、じっと珈琲の揺らぐ表面を見つめている。
「…娘さんの、体調はどうですか…?何か進展はありましたか?」
そう尋ねれば、信一はそっと表情を緩め、それからやんわりと首を振った。
「今の所、変わりはありません」
「…そうですか…」
信一の娘の病状を詳しくは知らないが、もしかしたら、ヤチタカの何かが娘の命を助ける事はあったのだろうかと、そんな思いが過る事はある。でも、ランの体を、その命を傷つけてまで、信一の思いを後押しなんて出来る筈がない。信一がやろうとしていた事は、移植などの医療とは違う。
「…あなたは、人が良すぎます」
それでも、純鈴が娘を思う気持ちは伝わったのか、信一は困った様子で微笑んだ。純鈴は、その柔らかさに困って俯いた。
一年前は、敵だと思っていた。今だって、わだかまりがなくなった訳ではない、それでも純鈴がこうして信一の前に居られるのは、ランの存在があるからだ。ランが、許してと言っているような気がするからだ。
「…社長だって、協力してくれてるじゃないですか」
「…それは、私があなたを傷つけたからです。あなたは間違っていませんよ、私のしようとした事は、ヤチタカの人々が受けた過去の非道な行いと同じです。それに、あんな事がなければ協力なんてしません」
苦笑い、その顔が力なく俯く。
一年前、信一は時谷を去る事を考えていたようだった。社長を退かなかったのは、社員達が信一を引き止めたからだという。あの日、ヤチタカに同行したのは一部の社員で、社員といっても、信一が呼び寄せたのは危ない仕事も引き受けるような人種がほとんどだった。
他の社員達、信一と直接関わる部下達が、信一が仕事とは別の事に熱心になっていると気づいても、それが何か、それに踏み込んで信一を止めようとする社員はいなかったという。
信一が時谷を去る覚悟と聞いて、社員達はようやく何かが起きた事を知り、それでも引き止めたという。信一以外、大きくなった会社を守れる人間が他にいなかったからだ。
信一の覚悟は宙に浮き、仕事はそれ以来しっかり務めているが、時折、今みたいに顔を俯ける。
悔いているのかもしれない、苦しんでいるのは信一も同じなのだろう。
純鈴はその様子を見て、自分の手に視線を落とした。左手の薬指に触れるのは、もう純鈴の癖になっている。
「…そもそも、あんな事が起きなければ、私がランさんを探しに来る事もなかったので、結果は同じですよ」
全てを許せた訳ではない、けれど、信一の後悔は嫌という程見てきた、誰かが辛い思いをする度、ランが悲しんでるような気がした。
「あの島で、ランさんはあなたの事も助けようとしてた。巻き添えにならないように考えてた。あなたがしようとしてる事、それがどれだけ悲しい事か気づいてほしくて、きっとあんな大掛かりな事までして、私達を巻き込んだんです」
純鈴は、きゅっと唇を一度引き締め、顔を上げた。
「あなたさえいなければって、何度も思った。そうしたら、ランさんは、ヤチタカの歴史を終わらせようなんて考えなかったかもしれない。でも、もう何も変わらないから。起きた事は、変えられないから、だからランさんは、長い間頑張って生きてたんだと思う」
「え?」
「ずっと、逃げた事を後悔してるみたいだった。見捨てたとか、思ってたんだと思う。違うのに。もう悲しい事を繰り返させないように願ってた。あなたは、ヤチタカを守ってくれてる、分かってくれた事、守ってくれてる事、ランさんが聞いたらきっと、嬉しいと思うんです」
ぽつぽつと、思いを越えた気持ちを余してしまわないように純鈴は言う。泣いたりしたら、いけないと思っていた。
信一は純鈴の言葉を黙って聞くと、それからゆっくり顔を上げた。
「ランを探す事、店の事も協力します。弟を頼みます」
頭を下げた信一に、純鈴はつい拍子抜けして、それから慌てて頭を下げた。
弟を頼む。
その言葉が胸に迫って、噛みしめた唇も虚しく涙が溢れていく。
どんな姿であれ、ランに会いにいく。その覚悟を、信一がその背中を押してくれたみたいだった。




