さよならのプロポーズ58
雨が降っているにも関わらず、炎はどんどん勢いを増し、山をもうすぐ飲み込もうとしている。こちらの森も時間の問題だ。
ランは純鈴の傷にさわらないよう気遣いつつも、先を行くヤブキの背中を追いかけた。後ろには、迅が辺りを気にしながらついてくれている。
獣道しかない森の中だ、ヤブキが通りやすいように道を開いてくれるが、それでも素早く移動とはいかない。迫る炎と腕の中の純鈴を思えば、気持ちだけが焦って足を取られるようだった。
苦戦しながらも進む中、純鈴は意識を取り戻した。
「…ランさん?」
「純鈴さん、」
ランはほっとした様子でその足を緩めた。
「…すみません、僕のせいで」
「私が勝手にしただけです、あの、社長は…?」
純鈴は顔を顰めながら、辺りを見回した。その声に、ヤブキもほっとした様子で振り返り、純鈴の顔を覗き込んだ。
「時谷は追い払ったよ、坊っちゃんも無事だから安心して」
純鈴はそれを聞くと、ランの顔を確かめるように見上げた。どこかまだぼんやりとしながらも、不安そうに揺らめく深い緑の瞳を見つめる。だがその不安は、純鈴を思ってのものだ、その事で、純鈴は自分がランに抱えられている事に気づいた。
「え、ごめんなさい、私…!」
思わず身じろいだが、足に鈍痛が走り、純鈴は思い切り顔を顰めた。
「動かないで下さい、傷に触りますから」
そして、焦った様子でランは純鈴を咎め気遣う。しっかりとした腕に不安定な様子はなく、こんな時ながらもその逞しさに胸を高鳴らせつつ、同時にランが無事な事が分かり、純鈴はほっとして微笑んだ。
「…良かった」
見上げたランの表情は僅かに歪み、何も言えずに純鈴を抱きしめると、その頭に顔を寄せた。肩口に顔を埋めれば、何も言わないランの声が聞こえた気がする。抱きしめる手の温かさに、ほっと心が解れて、痛みなんて、それだけで気にならなくなりそうだった。
「はいはい、今はとりあえず船に乗るのが先決!イチャイチャはその後だよ!」
「い、イチャイチャじゃない、」
そこへ、再び地響きのような山の崩れる音が聞こえてきた。
「ほら、先ずは船だ!」
それには頷く他あるまい。先程よりも幾分走る速度が増した気がするのは、気持ちが少しだけ上向いたからだろうか。
「す、すみません、運んでもらって」
「心配いりませんよ、ここを出たら近くの島に向かいます。医者にもすぐに診て貰えますから、もう少し辛抱して下さいね」
「…はい…」
純鈴は、ほっとして頷いた。ここにランがいる、それが何よりの安心材料だった。
東の港に着くと、小型船が停まっていた。出航の準備をしている間も、純鈴はランに支えられ座っていた。足の感覚がまるでなくなっている、頭がぼんやりしているが、それでも不安にならないのは、ランの温もりを感じられるからかもしれない。
「…申し訳ありません、こんな怪我をさせてしまって」
「社長が引き下がってくれたのなら、これ位どうって事ありませんよ。もう、暫くは襲われたりしませんよね?」
「…はい、きっと大丈夫ですよ」
南西の港の方で、爆発音が響いた。ランの手元にはスマホがあり、仕掛けた爆破装置を発動させているようだ。見ると、時谷の大型船は、港から既に離れている。きっと逃げたと確認したからだろう。背後の森も、すぐそばまで火の手が迫っている。
一体、どれだけの時間をかけて、爆破装置を仕掛けていたのか。
「…もう一つ謝らなくてはなりません」
「え?」
その声の固さに、純鈴は不思議にランを見上げた。
「信一に、あなたがヤチタカの血縁者だと吹き込んだのは、僕です」
「…え、」
「この島を壊す為の準備に時間が必要でしたから。酷い夫ですね、騙して命の危機に晒して、傷を負わせて」
「…そ、それは、仕方ない事ですよ」
「いいえ、僕はあなたを、端から傷つける事も厭わず利用したんです」
突き放すような言い方に、冷たい眼差し。純鈴は途端に表情を変えるランに不安を覚え、その体に触れようとしたが、伸ばした手はそのままランに掴まれ、指輪を引き抜かれてしまった。
「離婚の手続きは、お任せします」
「え?」
「僕の方は準備出来ています、大苑さんに預けてありますので」
「え、待って、なんでそんな勝手に」
「僕は最初から勝手でしたよ」
ランは出会った時のような笑顔を浮かべたが、それがもう以前とは違うものだという事は、純鈴にだって分かる。嘘を張り付けた笑顔も泣きそうになっているのに、勝手だなんて嘘だ。
しかし、ランは有無を言わさず純鈴を抱えると、その体をヤブキに預けた。それから隣の迅に顔を向けた。
「頼むよ、迅。一緒に戦ってくれてありがとう」
「ランさん、」
「ヤブキ、後は任せる」
その笑顔に、迅は瞳を揺らし、ヤブキはぐっと唇を噛みしめる。二人の反応を見て、純鈴は嫌でも気づいてしまった。ランはこの島に残るつもりだと。
「ランさん!」
純鈴は手を伸ばすが、ランは背中を向けてしまう。
「どうして?私は大丈夫だから、だから一緒に生きて下さい、私と」
背負うその後悔も、共に生きる大変さも分かってるつもりだ。それでも一緒に生きてほしい、純鈴はそれしか望んでいないのに。
「早く船を出せ。巻き込まれるぞ」
「ランさんが行かないなら、私は残ります!ヤブキさん下ろして!」
「何を言ってるんだ!死ぬつもりか!僕は王子として、全てを見届け終わらす義務がある!」
唇を噛みしめていたヤブキは、その言葉にたまらず顔を上げた。
「それなら、俺だって王子と共に生きてきたんだ!もう仲間が死ぬなんてみたくない!」
「ヤブキ!」
ランは声を張り上げ、ヤブキを見下ろした。背後には炎が迫る、ランの澄んだ瞳に揺らぎはなく、言い知れぬその圧にヤブキは息を飲んだ。奪われ忘れ去られた国の、ただ一人国を背負った王子の姿がここにある。
「…これは命令だ。僕の王子として最後の命令だ。約束しただろ、ここで全て終わらすと。島はなくなり、ヤチタカの人間も僕で最後と知らしめる事、それがヤブキの最後の務めだ」
そうだろう、と言うような柔らかな瞳に、ヤブキは言葉を詰まらせ俯いた。もう覆せない覚悟が、ランにある事、何か口にしようとする迅の腕を、ヤブキは掴んだ。辛かろうが苦しかろうが、ヤブキはそうするしかない。信じたこの国の王の意志だ。
だが、純鈴はそんな事関係ない。命こそ全てだ、純鈴は痛みも忘れ、ヤブキの腕の中でもがいた。
「初めからこうするつもりだったの!?死ぬつもりで私を巻き込んだの!?悪いけど私、離婚なんてしないから!私を未亡人にさせないでよ、ランさん!」
「……」
「一緒に来てよ、私の望みは、ランさんとの未来なんだから、」
涙が散る先に、ランがそっと微笑みを浮かべた。瞬間、目の前で爆発が起き、純鈴はヤブキに頭を抱えられ船底に身を伏せると、迅の手によって船は出された。
「嫌だ、ランさん!」
更に爆発音が鳴り響く港で、微笑んだその唇が、ごめんねと呟いたような気がした。




