わからない日々Ⅲ②
§
金曜日、わたしはちょっとした残業で会社に拘束されていた。来週あたまの会議資料の作成を、瀨川くんがすっかり忘れていたせいである。
彼の抜けているところは、いまにはじまったことではない。義理で助けてはやるが、そろそろ完璧に仕事をこなして先輩を安心させてほしいともおもう。わたしだって、いつまでも面倒を見てやる気はない。
ひととおり仕事がまとまったころには、十九時を過ぎていた。うちの職場ならたいした残業ではない。オフィスにはまだ数人残っているし、課長もエクセルとにらめっこしている。
「すみません、ほんと」と、瀨川くんはあたまを下げた。「いつもこんなことばっかり頼んじゃって」
「べつにいいよ」
PCの電源をおとし、携帯を見る。同居人からのラインがあったので、てきとうに返信する。
「例の子ですか?」
「例の……って、ただの同居人だけど」
携帯をすぐカバンにしまって、わたしは帰り支度をする。なんだかすべて面倒になってきた。明日に出かける予定だったが、いちにちずらして、日曜にしようか。来週にしてもいい。
すこし憂鬱だ。感情の波がぐわんぐわんといびつな線形をなしている。朝からずっとこんな感じだ。腹の底を角張った石が転がっているような苦痛と不快感を抱えながら、どうして生きていかねばならないのか。十一からの疑問である。
「デート……でしたっけ。いくんですよね」
「うん」
「先輩、あの、このあと時間ありますか?」
瀨川くんの声はぼんやりして聞こえた。わたしは肩を落として、
「飲みにはいかないけど」
「そうじゃなくて、えっと、ちょっとした相談というか……」
わたしはあたまを掻いた。閾値を超えた感覚があった。ぶっきらぼうな口調で「ごめんけど」と突き放す。
「今日、疲れてるから。またこんどにしてくれない?」
「ちょっ、待ってくださいよ、先輩!」
それで、わたしはオフィスを出た。朝からずっと居座っている偏頭痛をわずらわしくおもいながら、蛍光灯の蒼白い廊下を歩く。
「あの、先輩」
わたしはため息をついて、振りかえった。たしかに、彼はモテないだろうとおもう。
「手短にいって」わざわざ苛立ちを隠すことはなかった。「つまらない話なら、すぐ帰るから」
「ありがとう、ございます」
瀨川くんはぎこちなくいった。後頭部を掻き、寸分の躊躇があって、なにか決心したように顔をあげた。
「先輩の同居人に、ついて……訊きたいんです」
頭痛がひどくなった気がした。わたしは薄いベージュの壁に背中を預けて、続きを待つ。
「あの……萩埜千歳って名前、聞いたことありますよね」
「知らない」わたしはかぶりを振った。「もう帰っていい?」
「うちの大学で自殺したやつですよ! おれはまだ高校生でしたけど……先輩が入学したのって、おなじ年でしたよね、たしか」
舌打ちする。おそろしく無駄な時間を過ごしている気がして、もう取り繕う気にもならなかった。それでも、彼はわたしの機嫌に気付かないまま、まくしたてる。
「先輩が伯父さんの店に同居人を連れてきたとき、おれ、見たことある顔だなとおもったんです。そのときは確信が持てなかったんですけど、でも、あれから調べて……ネットとか、図書館とか、当時のニュースを漁って、それで、見つけたんです」
彼はズボンのポケットから携帯を取り出して、興奮した調子で画面をたたく。彼が見せてきたのは七年まえの週刊誌だった。モラルも品性もない下世話なやつらが、高校の卒業アルバムにあった千歳の顔をそのまま載せている。それを彼は、どこでもいいがどこかで見つけて、わざわざご丁寧に写真まで撮ってきたらしい。
わたしは感心した。もちろん皮肉である。
「で、それがなに?」
「似てるじゃないですか!」瀨川くんは叫んだ。「似てるどころか、おなじ顔ですよ。あいつが何度か店で働いてるのも見ましたけど、見較べるほど一致するんです」
「きみ、じぶんがなにいってるのかわかってる?」
「わかってます。つまり……あ、あれは、萩埜千歳の亡霊なんですよ!」
おもわず感嘆の息をもらした――ひとは、ここまで愚かになれるのか。呆れを通り越して、わたしはかなしかった。
「きみ、この世界に、いったいどれだけの人間がいるとおもってるの? 顔が瓜二つなんて、そう珍しいことじゃないでしょう。それを亡霊だなんて……」
「お、おれ、先輩が心配なんですよ。大学でもあったじゃないですか、祟り!」
祟り。そういえば、そんな話もあった。千歳の死を皮切りに明るみに出た、いくつものサークルのスキャンダル。明るみになった数々の事件と、吊るしあげられた何人もの加害者たち。全国ニュースで騒がれるようになると凄まじいバッシングが彼らに降り注ぎ、とある学生が投身自殺を試みるまでになった。彼は不幸にも一命をとりとめたが、品のないやつらはいう。死んだ女学生の祟りだ。
「くだらない」わたしはエレベーターに歩き出す。「そんな妄想に付き合ってあげるほど暇じゃないから」
「待ってくださいよ、あれは、萩埜千歳です、間違いなく……」
「しつこいって」
「信じてください! あ、あいつは、おれを――」
そう瀨川くんは口を滑らせて、瞬時に口を覆った。額に汗がにじみ、目は深海から釣り上げられた魚のように出っ張っていた。
「きみを、なに?」わたしは歩みを止め、彼を睨みつける。「あの子が、なんだって」
「おれは……」
わなわなとからだを震わせて、彼は呼吸を荒くする。いまにも倒れてしまいそうなほど青ざめ、吐き気を抑えるように口に強く手を押し当てていた。しばらくそうしていると、やがて呼吸も落ち着きはじめ、彼は観念するようにがっくりとこうべを垂れ、いった。
「動画を見たことがあるんです」
細胞という細胞が凍てついた。わたしの意思は理解することを拒んだが、鼓膜は律儀に彼の肉声を捉え、脳は意味あるかたちに情報を整形した。
「おれ、大学でサッカー部にはいってて……頼りにしてた先輩がいたんです。かっこよくて、プレーもケタ違いで、人望もあって……入部してから、おれをずっとかわいがってくれました。でも……」
また嗚咽。彼は汗と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、神のまえに跪くように語り続けた。
「一年の夏に、ちいさな大会があったんです。その日は快勝して、打ち上げもけっこう盛り上がっちゃって、そのまま先輩の家まで転がりこんで……そ、そしたら、いいもん見せてやるって、それで、っ……」
瀨川くんは崩折れた。そして泣き叫ぶように、
「あ、あたまにこびりついて離れないんです! いまでも夢に出てくる! 忘れたいっておもっても、ぜんぜん忘れられない! 悲鳴が耳の奥で鳴り響いてるんです! あの先輩の顔も忘れられない――わ、笑ってたんですよ! 呪われてるビデオだとかいって、祟りで身投げしたやつもいるとか、お、おれ、もう、こわくて――」
ひどい話だった。聞くに堪えない。わたしはもう限界だった。胸の底からふつふつと黒く濁ったかたまりがせりあがってくる。
「先輩……」瀨川くんは、わたしを縋るように見上げる。「お、おねがいします、あいつはだめなんです! 危険なんです、あれは! だから――」
「ふざけないでよ!」
壁にカバンを叩きつけると、あたりに鈍い音が響いた。きっとオフィスまで聞こえただろうと理性で考えたが、あたまに血がのぼってすでに遅かった。
わたしは怯えたように固まる瀨川くんを見下ろし、カバンの持ち手を潰す勢いで握りしめた。いまにもからだがはちきれてしまいそうだった。
「おまえに、あの子のなにがわかるの?……」自分で信じられないほど低い、唸るような声だった。「おまえは、あの子の、なにになったつもりで……」
頭痛がした。眩暈がした。世界が次々と翻って、反転していくような感覚があった。立方体で喉を掻きまわされるような吐き気がある。
視界の端、遠くから、いぶかしむように課長が歩いてくるのを認めた。そうだ、早く帰らないと。わたしは一歩、引き下がる。
「先輩、おれは、どうしたら……」
「……」殺してやりたいとおもった。「……帰ってあたまを冷やしたら。どうすればいいかなんて、じぶんがいちばん、わかってるでしょう」
わたしは踵を返す。課長に声をかけられた気がしたけれど、振りかえることは到底できなかった。
一階までおりると、トイレで錠剤を飲んだ。鏡に写った顔はナメクジを吐いたロンのようにひどくやつれていた。いつもなら笑っていたが、余裕がなかった。
そのままバスに乗ると、車窓に見える町の夜の灯りたちはメリーゴーラウンドよろしくさんざめいて、夢よりずっと夢らしかった。いまここで眠れたら、終点までずっと眠れたら、どれだけすてきだろうとおもった。家に帰りたくない。帰ってしまえば、わたしは……
最寄りのバス停でおりた。慣れた道を、見慣れた街灯がささやかに彩る。だれかと手を繋いで歩きたかった。そうしないと、じぶんがかたちを保てずばらばらに崩れ落ちていきそうだった。
でも、わたしと手を繋いでくれる誰かは、どこにもいない。わたしを置いて、七年まえに死んでしまった。自死を選んだ者は死後も迷い続けると聞く。なんておそろしい話だろう。きっと彼女は、もう二度と、救われない。そしてわたしのまえに現れてくれない。
救いのない、うつくしき世界。わたしはこの世界が心の底からきらいだった。生命が元来そうであるのとおなじように、世界とはあたまのてっぺんからつま先まで、無為を薄く引き延ばしてできている。例外はなく、希望は皆無である。
では、どうしてわたしは生きているのだろうか?
エレベーターに乗り、四階へ。四。不吉な数字だといまさらおもった。玄関のカギを開けると、「おかえり」と奥から声がした。
リビングでくつろいでいた同居人は、わたしを見上げてにへらと笑った。「おなか空いたね」と、かわいらしい声でいう。おなじ声だ。千歳とおなじ声だった。わたしは愕然として、手からカバンが滑り落ちた。そして彼女を押し倒すと、ゆっくり首元に手を添えた。
「かたり?」
同居人は頬をひきつらせて、わたしの名前を呼んだ。千歳とおなじ声で、千歳とおなじ顔をしたそれは、わたしの名前を呼んだのである。
――どうすればいいかなんて、じぶんがいちばん、わかってる。
瀨川くんにいったことばを、わたしは声に出さずに反芻した。簡単なことだった。どうすればいいかなんて、じぶんがいちばん、わかってる……
わたしは徐々に力を籠める。華奢な首を絞めあげると、すぐ折れてしまいそうで恐ろしかった。苦しそうな呻き。同居人は抵抗しなかった。ただわたしのからだの下で必死に堪えて、息が止まるのを待っているようだった。
苦しんでいる。千歳が苦しんでいるとおもった。だれが苦しんでいるのだろう? 千歳はもう死んでいるのに。みんな苦しんでいるのだ。それがどうしたとおもった。わたしが苦しんでいる。そして同居人が苦しんでいる。
目頭が燃えるように熱を帯びた。わたしたちは苦しんでいる。そのことばが空虚に、脳内で反響した。
「どうして」力がはいらない。「どうして振りほどかないの……」
「か、たり……?」
わたしの頬に体温が触れる。やわらかく両手で包み込まれる。
「いつか、こうなるんじゃないかって……」同居人は涙を浮かべていた。「……いつかこうなるんじゃないかって、おもってたの。わたしは、千歳じゃ、ないから」
「千歳……」
「うん」同居人は肯いた。「ごめんね。かたり、ごめんね……わたしは、こんなにもあなたのことがすきなのに……こうしているだけで、あなたを傷つけてしまう」
同居人はわたしの涙をぬぐい、静かにあたまを引き寄せた。そしてわたしたちは唇を重ねた。あえかな体温の揺らめきが皮膚を通してわたしたちを繋げた。
「すきだよ、かたり」唇を引き離すと、同居人はいった。「愛しているの」
「うん」わたしはゆっくりと彼女から離れる。「おなかすいたね」
「おなか、すいた」
彼女ははにかむように笑った。わたしもまた笑った。深い絶望の底で、たしかにわたしたちは居た。
夜、わたしは同居人を抱いて眠った。甘やかなシャンプーのにおいに包まれながら、パジャマの布地の質感を感じていた。
わたしは七年ぶりに夢を見た。
幼いわたしは幼い千歳とともに広い草原を駆け、爽やかな風のなかを突き抜けていく。深い海底のような快晴に、わたしたちは声をあげて笑い、無邪気さのままに走った。千歳が転ぶと、わたしも転んだ。それがなによりすてきだった。
そして十九歳のわたしは十九歳の千歳とキスをして、お互いの体温をわけあった。汗とシャンプーの匂いが茶色い土に沁み込んでいき、永遠に塗り替えられない地層となっていった。わたしと千歳は愛しあっていた。これまでもずっと、そうだった。
「わたしね、死なないでほしかったんじゃないの」
と、彼女を見つめながらいった。
「いっしょに死なせてほしかったんだ」
「うん」千歳は笑った。「ぜいたくなことをいうんだね、かたりは」
わたしは目を閉じた。このまま朝が来なければいいとおもった。わたしの肩を同居人が噛みちぎって、そのまますべて、骨まで喰い尽くしてくれていればいい。最低な願いだろうか? しかし、これからわたしはこの願いを抱えながら生きていかねばならない。ぜいたくな人生である。
「生きてね、かたり」
千歳のささやきが聞こえた。これが夢であるなら、そのことばも、ただうつくしいだけだった。