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わからない日々Ⅲ①

   Ⅲ




 月末。帰宅すると、同居人は誇らしげに胸を張って茶色い封筒を見せてきた。照明に長方形の影が透けて見える。同居人が手ずから稼いだ、はじめてのお給料である。


 今日いちにちの疲れが吹き飛ぶいじらしさだった。わたしはフリスビーを取ってきた仔犬を褒めるのとおなじ気持ちで、同居人のあたまを撫でる。彼女は照れるように身をよじらせて、くつくつ笑った。


〈ふなの時計店〉でのアルバイトは大きな困難もなく続き、今日が初の給料日であった。やさしい店主と奥さんのもと、同居人は甲斐甲斐しく働いたようで、いちど様子を見に顔を出したときなどは、その健気さを彼らからぞんぶんに語って聞かせられたほどである。


 目立った事件も起きず、平和に職務を遂行してきた。同居人は店主もお客さんも噛んでいないし、あまたの交流のなかで社交性も身に着けた。社会経験は彼女をいくぶん常識的にさせ、見違えるほど落ち着いた女の子へと変貌させた。


 それでも、飼いならせない好奇心と人懐こい性格は健在で、こうして給料袋を見せびらかしてくるところはかわいらしい。しかも、アルバイトをはじめてからは、疲れからだろうか、同居人は日に日に甘えたがりになっている。ひととおり褒めちぎってやるとやつは満足げに目を細めたが、わたしのそばを離れてはくれない。


 とはいえ、それでは食事の支度ができない。無理やり引きはがして、さきに風呂にはいらせる。わたしはそのあいだ、今日のために買いそろえた具材ですき焼きを用意する。


 初の給料日で同居人が浮かれているように、わたしもまた、彼女のまっすぐな成長に感動していた。これまでアルバイトをうまく続けてこられたのなら、しっかりねぎらってやりたいとおもうし、汗水たらしてついに稼いできたのなら祝ってやりたい。すき焼きというのはそれにちょうどいい食事だ。


 具材を切り、割り下を準備。フリーマーケットで調達した底の浅い鉄鍋を火にかけて、油をなじませる。


 ねぎを焼き、ちょっと高めの牛肉をも焼く。割り下を加え、シイタケや焼き豆腐、シラタキなどを弱火でじっくり煮込んでいく。


 風呂からあがってきた同居人は、醤油のよい香りに鼻をすんすん鳴らしながら、台所までドライヤーを引っぱってきた。こいつは自分で髪を乾かそうという気概がない。ともに暮らしはじめて二か月近く、それなりに賢くなってきたところなのに、この点だけは教育が行き届かない。


 しかたないので、火を止めて、髪を乾かしてやる。リビングでドライヤーをていねいにかけてやるこのときだけ、同居人は目を閉じて、おとなしく座ったままになる。充分に乾くと、彼女は振りむいて「ありがと」と笑った。わたしも、ついつい微笑んで、まいにちこの仕事をすることに満足してしまう。


 ぐぅ、と腹の虫が鳴った。容疑者はふたりだが、わたしの音ではない。つまり、犯人は同居人だ。


 おあずけにしたってしようがないので、テーブルまですき焼きを運ぶ。同居人は目を輝かせて、湯気を立てるわたしの傑作に顔を近づけた。


「これ、知ってる。すき焼き」

「食べたことないでしょ」

「うん」同居人は力強く肯いて、「卵だよね、たまご」


 待ちきれない同居人はぱたぱたと冷蔵庫まで駆け、たまごのパックをとりだす。わたしは皿と箸、そして同居人に炊かせておいた白ごはんをよそった茶碗を、食卓に並べていく。このごろ、彼女は簡単な料理なら覚えてくれて、炊飯器の使い方もマスターした。するとわたしの家事はたしょう楽になり、生活の余裕もすこしずつだが感じられるようになった。


「ね、すき焼きって、どうしてたまごで食べるの?」

「食べてみればわかるよ」


 取り皿にたまごを落とし、箸でさっとかき混ぜる。同居人もまねして、それからすぐ、牛肉をとる。たまごにくぐらせて、ひとくちでいく。


「おいしい!」

「でしょう。野菜も食べなね」

「うん」


 同居人はよく食べる。すくなくとも、わたしの二倍は……ささやかなぜいたくをした食事は続き、わたしはたまの道楽で第三のビールを開けた。テレビを点けると、クイズ番組をやっていた。東京近郊に住んでいる人間にしか解けないような、まさに全国区なクイズばかりやっている。


「東京」と、同居人は春菊をとりながら、「かたりは、東京、いったことある?」

「うん」

「どんなところだった?」

「覚えてない。まだ子どもだったから……いってみたいの?」

「うーん」同居人は悩んだ。「ね、わたし、かたりとなら、どこにでもいきたい」


 そう、とわたしはそっけなく返した。どうあれ、旅行にいくなら、東京はない。都会は苦手だ。ひとのすくない、ずっと静かなところのほうがいい。


「じゃ、かたりは、どこにいきたい?」


 同居人は、すこし眠たげな目で訊ねてきた。


「旅行にいきたいの?」

「それもいいけど……おでかけしたい、ふたりで」

「よくしてる。買い物とか」

「ちょっと違う」と、指に髪を絡ませながら、「デートしたい」


 呆気にとられてしまった。こいつはまた、けったいなことばを覚えてきたものである。


 具材のすくなくなった鍋をつつき、わたしは「デート」の意味を考えている。同居人がなにをおもって誘ってきたのか、真に意味するところが掴めない。というか、なぜいきなりそんな話になったのか。


 かくいう同居人は、いつになく真剣そうな表情をしていた。どうやらへんな言い間違いではなさそうである。


「ね、どうかな」

「どうかなって」わたしは肩をすくめる。「どうして急に、そんなこといいだしたわけ?」

「えっと」


 同居人は、箸を置き、わきにあった給料袋を手にとる。


「かたりは、わたしにいつもやさしくしてくれる。かたりのおかげで、わたし、喋れるようになったし、お店で働けるようになった。稼いだお金で、恩返し、したい」

「それで、デート?」

照代てるよさんが、デートは大切なひとをよろこばせることだって」


 照代さん。〈ふなの時計店〉の奥さんだ。彼女からそう聞いて、同居人はデートのお誘いをおもいついたのだろう。だいたい、腑に落ちる。


「で、その、週末、空いてる?」

「うん……」ねぎを咀嚼しながら、あたまのカレンダーをめくる。「空いてるよ。仕事もまだ落ち着いてる時期だし」

「そ、そっか……よかった」


 同居人は頬を赤らめて、また箸をとった。しまった、故意犯だったかもしれない。が、いまさら断る理由もなかった。どうとでもなれとおもって、わたしは第三のビールを一気に流しこんだ。




   §




「先輩、週末空いてますか?」


 と、瀨川くんにまでいわれた。彼はコンビニで買ってきたおにぎりのビニルをていねいに剥がし、むだに几帳面な仕草でのりを巻く。


「きみまで、なに?」

「きみまでってなんすか。今週末、なにかあるとか?」


 ぱり、とのりが鳴る。遅めの昼食を摂っている瀨川くんだが、そういえばさっきまで、課長と話し込んでいた。いやな予感がする。


「課長がいってたんすよ、飲み会やろうって」

「はぁ」的中した。「なんで休みに……」

「娘さんに追い出されるんですって。お友達が遊びにくるとかで」

「知らないけど、そんなこと」

「さみしいんですって」

「部下を巻き込まないでほしい」

「まったくです」


 瀨川くんは薄く笑みを浮かべて肩をすくめた。やれやれ、彼はよくこういう類いの厄介ごとを頼まれる。人付き合いがうまいのも考え物だ。


 ま、どうあれわたしには関係のないことだった。これはだいたい瀨川くんと、その他数名の犠牲者が暇そうだったからという理由で招集される、ある意味では恒例のイベントである。そこにわたしが参加したことはないし、これからもない。


「無理ですか、先輩? 今回はひと、集まりそうにないんすよ」

「そう」

「ほら、松田とか。彼女できたとかいって、最近はその子に首ったけだし」

「きみも彼女つくりなよ。厄介ごとから身を守るためにも」

「はぁ、まぁ」


 瀨川くんは苦い顔をして、おにぎりをひとつ平らげた。二個目を、これまた神経質な手つきで開けていく。どうでもいいところで完璧主義をこじらせるのが、瀨川くんのつまらないところだ。


「そういう先輩はどうなんすか。今週末、どうせ暇なんでしょ」

「口の利き方には気を付けなよ」

「はは、すみません」

「はぁ」わたしはおおきなため息をついて、「今週はデートの予定があるから、無理」


 彼はむせた。失礼な反応だった。


「いや、だれと」

「いう必要ある?」わたしはまたもため息をつく。「同居人と」

「あぁ、あの子……」


 つぶやいて、おにぎりをかじる。微妙な反応だった。意図を掴みかねているらしい。安心してよいものかどうかも、よくわかっていない。瀨川くんは視線を右上にやって、しばらく黙りこんでから、またこちらに視線を戻した。


「やっぱり、そういう関係なんですか?」

「勘弁してよ」

「ふうん」二個目のおにぎりも、平らげる。「ま、よかったじゃないすか、モテ期!」

「きみには一生来なさそうだね」

「いってくれますね」


 彼はおおいに笑い飛ばして、三個目のおにぎりを取り出す。


「ていうか、結局、あの子はだれなんです?」

「どういう意味?」

「いや、ま、なんつーか……」


 ビニルを剥く手をとめて、瀨川くんは言いよどんだ。逡巡ののち、


「やっぱなんでもないっす」


 彼は神経質におにぎりを食べおえた。で、休憩時間がおわるまで、飲み会のメンツをかき集めるのに奔走する。なぜ彼は、律儀に課長の頼みをこなすのだろう? このごろ、彼がどういう人間なのか、だんだんとわからなくなってきている。




 午後六時、退社する。バスに揺られていると、途中で同居人が乗ってきた。ここ一か月で、こういうこともまれにあった。偶然おなじバスに乗りあわせると、わたしたちは、きまって手を繋ぎながら帰る。彼女はわたしのとなりを花が咲くような笑顔で歩いて、足取りを弾ませる。そのいじらしさに、てのひらの体温に、胸が満たされる。いもうとがいたら、きっとこんな感じだったのだろうとおもう。


 スーパーに寄って、いくつか買い物を済ませる。エコバッグに野菜を詰めていると、同居人は寂しげに、


「照代さん、よくならないんだって」といった。「薬、飲んでも、つらそうなんだよ」


 奥さんの病状は日に日に悪化しているという。近く入院するかもしれない、というのは、以前、同居人から聞いた話でもあった。


「死んじゃうのかな、照代さん」

「いっちゃだめだよ、そんなこと」

「うん。わかってる。わかってるけど……」


 同居人の表情は、スーパーを出ても明るくならなかった。日暮れの路に、電灯はただ暗闇をくっきりさせるだけである。


「ね、死ぬのって、どんな感じかな」

「苦しいだけだよ」

「そうなの?」

「うん」

「どうしてわかるの?」

「それは……」


 首を吊ったことがある、とわたしは端的にいった。すると同居人は、あたりまえというか、目をぱちくりさせる。そして縋るようにわたしの手を強く握った。


「冗談だよね?」

「どうでもいいこといって、ごめんね」

「かたり」


 同居人の手はあたたかく、やわらかで、貧しかった。アパートのエレベーターに乗ると、彼女はわたしの肩にぴったり身を寄せて、離れようとしなかった。


 四階に着く。重い足取りの同居人を引きずって、家の鍵を開ける。ドアを閉めるなり、同居人はわたしのからだに手を回し、


「ね、どうして……」声は震えていた。「どうして、あんなこと、いったの」

「わからない」

「千歳?」と、同居人は呟いた。「千歳なの? はぎの、ちとせ……」

「はぎの?」

「かたり、ね、おねがい。わたしはかたりのことが知りたい」

「わたしは……」


 わたしたちは靴も脱がず、玄関に座り込んだ。脳が脆弱な電気に痺れている。


「どうして、千歳の苗字を知ってるの?」

「ごめんなさい。わたし、アルバムを勝手に開いて……」

「いいよ、謝らないで」


 同居人を抱きしめる。彼女の体温を、ただ感じたい。


 しばらく彼女を抱きしめたあと、わたしは家にあがり、狭いクローゼットに押しこんでいた段ボール箱を開けた。そこに中高の卒業アルバムと、親がつくってくれていた学生時代のアルバムがいくつかある。


 わたしはアルバムのページをめくりながら、ひとつずつ、思い出を話した。千歳と過ごした時間。幼稚園でのお遊戯会はちっとも記憶にないけれど、ステージでふたりいっしょに踊る写真がある。小学校ではずっとおなじクラスになった。柏木家と萩埜家、合同でキャンプをしたこともある。高校にあがってからはふたりで遊ぶ機会が増えて、とある夏休み、海水浴からの帰りに告白された。


 付き合ってたの? 同居人は静かにそう訊いた。わたしは肯いた。恋人として過ごした時間は二年に満たなかったけれど、わたしと千歳は、たしかに愛しあっていた。


「おなじ大学にはいってね。学部はちがったんだけど……」いいながら、わたしはアルバムを閉じる。「最初のゴールデンウィークだったかな。千歳と連絡がつかなくなったの」


 そのころ、ふたりともアルバイトをはじめて、そうでなくとも慣れない新生活に苦労していた。それでメールの返事が遅れたり、電話に出れなかったりすることはおおかった。


 とはいえ、三日以上、連絡がつかなくなることはない。いくら忙しいといっても、千歳はまめな性格だったし、連絡が遅れるのは常にわたしのほうだった。


 いやな予感がした。そして、わたしのいやな予感は、いつだって当たる。


「五月八日……ひさしぶりに、電話がかかってきたの。わたしは携帯に飛びついて、やっとあの子の声が聞けるとおもった。でも……聞こえてきたのは、すすり泣きだけ。こっちがなにをいっても答えてくれないの」


 夜更け、わたしは家を飛び出した。千歳が家族で住んでいたマンションまで自転車を飛ばす。そのあいだも電話を切らないで、一心不乱に呼びかける。


 汗だくでマンションに着くと、わたしはすぐエントランスに走った。彼女を呼び出そうとした瞬間、あたりに鈍い音が響いた。


 そこまで話すと、わたしは咳をひとつした。同居人がびくっとからだを震わせたのが面白かった。わたしは微笑んで、彼女のあたまを撫でる。


「お葬式の日にね。みんなが火葬場に向かうのに、わたしだけ抜け出してホームセンターまでいったの。で、ちょうどよさそうなロープを買って、家に帰った。古い梁に縄を吊るして、からだを預けて、苦しんでたら――そこで、見つかっちゃった、お母さんに」


 救急車で搬送されたわたしは、あたりまえのように目を醒ました。虚無で白々しい天井は、まさしく虚無だった。


「かたり」と、同居人はわたしの服をひしと掴んだ。「かたり、わたし……」

「安心して、そういうのは、もうそれっきり、やめにしたの」

「そうじゃない、ご、ごめんなさい、わたし……」

「いい子だから」


 わたしは同居人をまた抱きしめた。それがもっとも人間らしい気がして。


「ごはんにしよっか。ほら、もう泣かないでよ。たのしいことだけ、考えよう」

「うん……」

「ごはん食べて、お風呂に入って、あとはゲームでもしようか。それに……そうだ、週末はデートなんでしょう?」


 雨粒が屋根の汚れを落とすように、わたしは同居人の涙をぬぐう。それから彼女をもういちど笑顔にさせるのには骨を折った。結局、夜はおなじ布団で眠って、するとようやく彼女は安心したように微笑んだ。甘いシャンプーの匂いが虚ろだった。

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