わからない日々Ⅱ③
同居人の面接がおわるまで、退屈だった。しかたないので、時計店だというのに充実している古本を物色する。まったくもって、ここがどういう店なのか、いまいちつかめない。ただ、本の品ぞろえはたしかによい。
まず実用書の棚をながめ、うさんくさい自己啓発本を手にとった。中身はしっかりうさんくさい。名のある哲学者の文を引いてそれらしく美辞麗句を述べているが、じつのところ中身は貧弱で、まとめてしまえばたった一文におわる。「じぶんを信じなさい」。しかし真にじぶんを信じ切った人間はこの世にいてよいものなのだろうか?……
この手の本は、わたしに向いていない。あたりまえだ、わたしのような人間に向けて書いていないのだから。満足して、本を閉じ、文学作品の棚に足を向ける。
本は嫌いでない。あえて嫌いでないとしたのは、やはりすきでもないからである。活字を読むのは苦でないが、読み続けることで快楽を享受できる側の人間でもない。ゆえにわたしの蔵書はすくなく、同居人もその知識の大半を図書館の書籍から吸収した。
ただ、成人してからも絵本や児童書はすきだった。たいした理由はない。子どもをまなざすとき、たいてい、ひとはあたたかな気持ちを抱く。その温度を知りたいだけだ。
時計のかち、かち、という音を聞きながら、ぼんやり棚を眺める。児童書のコーナーで、タイムリーな名前を見つけた。同居人が名前を借りた作者の本だ。花海いつき。きれいな字面である。この作者は小中学生向けの児童書も書くし、一般向けの大衆小説も書く。ここ一か月、同居人は彼女の文学にはぐくまれてきた。
一冊、手にとる。少年少女がミニチュアの世界に迷いこむ冒険小説だ。たしかうちにもあった気がする。ぱらぱらめくりながら、この本を手放したのはどういうひとだろう、とおもう。顔も、声も、性格も、なにひとつとして思い浮かばない。ただ中身のない、黒体でできた人形がぷっかりと心の浅瀬に浮かびあがる。かれとは対話できない。活字を読んでもなにひとつ情景が想像できないように、ただかれは、かれとしてそこに浮かび、横たわり、すこしすれば忘れられるかなしきイメージである。
本を棚にもどす。まだそれほど時間は経っていない。
「おすきですか、本」
と、店の奥から店主が現れた。五十歳くらいだろう、青いエプロンをかけた店主はしゃんと背を伸ばして、こちらに向かってくる。
「すきです、児童書とか」と、わたしは応える。「あの……このお店、時計屋さん、なんですよね」
「ふしぎでしょう。わたしも、どうしてこうなったのか」
店主はいたずら気に笑って、肩をすくめる。で、続けるに、
「先代の店主――わたしの父ですが、すきものでね。時計の修理をするかたわら、方々から妙な本を集めては読み散らかして、店に積んでいたんです。そしたら、平積みされた本を買い取りたいというお客さんが出てきて、父は所有にそれほど興味がないから、あっさり売り払ってしまう。売り払った金でまた本を集める。その集めた本も、もちろん売り払う。この繰り返し」
そうした状況が続き、平積みしていると邪魔くさいので棚を入れ、本を収める。もとより古本目当ての客も現れ、逆に本を売りたいという話もくる。一方で、本業は時計店だから修理もするし、時計を売りもする。それで年月を重ね、いまのように、時計店と古本屋が同居したような珍妙な店構えになったという。
「なんというか」反応に困る。「京極堂みたいなひとですね」
「はは、まったく、勘弁してほしいもんです。古本屋をやるのも、らくじゃないですから」
先代はいまでも収集を怠らず、そして家にはいりきらない本を毎週のように運んでくるのだという。それがマニアックな和書や漢籍ばかりだから、専用の棚をつくって、店のすみに隔離している。見せてもらったが、わたしには到底、その価値を測れないものばかりである。
「そういえば、あの子……いつきは、どうでしたか?」
「あぁ、いつきちゃん。いい子ですね、明るくて、元気があって。来週から、さっそく来てもらおうとおもってますよ。いまは家内がおおまかな業務を教えてるところです」
店主の笑顔に、わたしはほっと胸をなでおろした。よかった。いまのところは、うまくいっているみたい。
朝は不安でどうにかなりそうだったが、だんだん、ほんとうの意味で気が楽になってきた。
お礼をいって、そのまま世間話が続く。話題は時計店のことから、同居人のこと、そしてわたしの職場のことにゆっくりシフトしていく。店主は、
「ショウちゃんは、職場でうまくやってますか」と、やさしい声音で訊く。
「もちろんですよ。瀨川くん、一生懸命ですし」
「なら、よかった。いい子なんだけど、むかしから、どうも抜けてるところがあって」
甥っ子のことを語る店主のまなざしはやさしく、慈愛に満ちていた。ずいぶんすかれているらしい。「ショウちゃん」と呼ばれ、かわいがられているふうの瀨川くんは、職場や安い居酒屋で見る彼とはまったく別人のような気がしてちょっとおかしい。
「よく、うちの店にも来てくれるんですよ。顔を見るついでに、とかいって、父が売り払いたい本を届けてくれるんです。助かってますよ、ほんと……あぁ、うわさをすれば」
店主は画面のひび割れた携帯を見て、ひとつ肯くと、店先に出た。軽ワゴンが一台停まる。運転席からは白いTシャツを着た瀨川くんがおりてくる。妙に大きくてダサいサングラスをかけていたが、わたしに気付くと、すぐとった。
「どうも、先輩。そういや今日でしたね」と、瀨川くんは後頭部をかく。
「なにいってんのよ、ショウちゃん。昨日、しつこく確認してきただろ、面接はいつごろかって」
「いいから、伯父さん」
ワゴンから段ボール箱をおろして、瀨川くんと店主で運びこむ。箱はひとつでなく、どれも古本でいっぱいである。手伝おうか、と訊くと、瀨川くんは「お気持ちだけで」と首を横に振った。とはいえずいぶん重そうに運ぶので、興味本位でひとつ、箱を持ちあげてみることにした。意外とすんなり上がる。拍子抜けしてしまった。そういえば、いまの職場で働きはじめて一年ほどは、店舗勤務でこのくらいの荷物を運び続けていた。いやな時期だったが、肉体労働はたしかに気楽な仕事ではあった。
結局、わたしも作業に加わって、荷物運びはすぐに終わる。たまに運動するのもいい。帰ったら筋トレでもしてみようかとおもう。
「お茶いります?」と、瀨川くんがコンビニの袋からペットボトルを出してきた。ありがたくもらう。いつも差し入れをもってくるのだという。で、今日はわたしのぶんも揃えてくれていた。
「この本、瀨川くんのお祖父さんが集めてるんだよね」
「そうっす。じいちゃん以外に、うちの家族で読める人間はいません」
段ボール箱から一冊拾いあげて、瀨川くんは軽く数ページめくってみせた。漢籍である。読めるわけがない。
「売れるの?」
「たまに。こういう趣味のひとは、うちのじいちゃんだけじゃないらしくて」
「ふうん。でも、こういうの、かっこいいよね」
「そうっすか?」
勉強しようかな、と瀨川くんはちいさく独り言ちる。単純な後輩だ。わたしは内心、ため息をつく。
と、店の奥から声がかかる。店主の奥さんの声だ。おやつにしましょう、とよく通る。店主はすでに作業場までもどっている。
「饅頭、買ってきたんですよ、人数分」と、瀨川くんは得意げにいった。「あ、ていうか、面接どうなったんすか?」
「うまくいったみたい。ありがとうね、紹介してくれて」
「今日はその、ワケアリらしい子、見にきたんです。先輩がひいきにしてるから」
作業場では、同居人と奥さんが、仲良さげにおやつの準備をしていた。テーブルを片づけ、椅子を出し、急須にお茶を淹れる。同居人は指示通り、てきぱきと動いて、たのしそうにしている。
「あれ」と、瀨川くんは同居人を見て、「なんか、どこかで見たことあるような……」
「なに、口説こうとしないでよ」
「いや、そういうんじゃなくて……」
わたしは同居人のとなりに座った。瀨川くんの言動が怪しかったからだ。かくいう同居人は、彼の買ってきた饅頭をうまそうに頬張る。ともかく、お礼はいわせる。
瀨川くんは、いつものへらへらした調子で、しかしどこかぎこちなく、
「いいっすよ、そんなの」と笑った。「おかわりもありますよ」
お茶と饅頭をご馳走になって、今日は帰ることにした。わたしと同居人は、店先でもういちど礼をいって、バス停まで歩く。
同居人は弾むような足取りで、わたしの一歩まえを歩いた。夕暮れに艶やかな髪がなびいて、スパンコールのように煌めいた。
バスに乗り、わたしたちの家まで。鼻歌でもうたいだしそうな同居人のとなりで、わたしは車体の揺れのなか、べっとりした質感の眠気をもてあましていた。今日いちにちの疲れが一気に押し寄せてきたみたいだ。
「肩、貸そうか」と、同居人はいった。
「なまいき」おもわず笑みが漏れる。「今日はお寿司でも買って帰ろうか」
「ほんと? うれしい」
同居人はにっこりと微笑む。胸の奥がきゅうと締め付けられる。
バスを降り、スーパーで買い物を済ませる。わたしたちは手を繋いで、街灯の点きはじめる路地を歩いた。帰路が永遠に続けばいいのに、とよくおもう。わたしはどこにもいきたくないし、どこにも帰りたくない。帰る場所があるというのは、ときに残酷なことではないか。しかし、わたしのとなりには同居人がいた。帰る場所にも、同居人がいる。
「いいひとだったね」
と、アパートのエレベーターを待ちながら、同居人はいった。
「店主さんたち?」
「うん」同居人は笑顔で肯く。「ショウちゃん? も」
「そうだね」
「かたり、あのひとのこと、すき?」
「きらいだよ」
同居人は意外そうに目を丸くした。わたしは肩をすくめて、
「瀨川くんに限った話じゃ、ないんだけどね」
「うん」
「わたし、男のひとが苦手なの。好意を寄せられるのは、もっといや」
「そうは見えなかったけど……」
「でしょう。それが、わたしのすごいところ」
エレベーターに乗りこむ。同居人は、じっと階数表示を見つめて、なにか考えこんでいた。四階に着くと、
「わたしのことは」と、同居人がいった。「かたり、わたしのことは、すき?」
「おまえは、かたちからして悪趣味だからな」
わたしは笑った。彼女の手を引いてエレベーターを出る。
「きらい?」
「ううん」わたしはかぶりを振って、「あんたはそんなこと、心配しなくていいよ」
「うん」
同居人の瞳は、若干潤んでいた。彼女がわたしになにを求めているのか、掴みあぐねる。
「ね、泣かないで」
「うん」
「心配しなくていいよ。いいんだから、そんなこと」
赤子をあやすように、わたしはやさしく語りかけ、彼女のあたまを撫でた。部屋の鍵をあけると、暗がりが廊下に佇んでいた。照明を点ける。
「ごめんね、かたり」
「なに?」
「かたり……」
靴を脱ぐまえに、わっと泣き出してしまった同居人の背中を、わたしはずっとさすり続けていた。