わからない日々Ⅱ②
週末、わたしは同居人を連れて市営バスに乗った。
気もちよいほど晴れた日だった。空は青く突き抜けており、陽光ははっきりと町のかたちを浮き彫りにする。車窓からぼんやり外を眺めていればそれだけで眠れそうだった。
窓に映る同居人は、落ち着かないのだろう、さきに渡した運賃をずっとてのひらで転がしている。こんな調子でだいじょうぶだろうか。不安ではあるが、なるようにしかならない。心配ごとを先々に並べ立てても、すべてが杞憂でまぁまぁうまくいってしまうなんてことはよくある。その逆もまぁまぁ起こりうるのとおなじで。
めずらしいことだが、わたしはすこし、浮かれている。といより、いつも低めにチューニングしているはずの調子が、ずいぶん狂って上振れている気がする。この歌ってしまいそうなほどよい天気のせいだろうか。それとも、同居人への連日のマナー講義で疲れているのか。
同居人が、わたし以外の他者と交流をもつことはあまりない、どころかいままでゼロに等しかった。休日の買い出しに連れていき、レジのおばちゃんと二言、三言かわすことはあっても、だれかと長い時間コミュニケーションをとった試しはない。だから、いわゆる礼儀作法というものにはかなり怪しい部分があった。
とくに敬語はひどかった。わたしがいままでかなりフランクな調子で接してきたせいか、同居人はほとんどタメでしか話せない。いちおう、テレビや読書で吸収した言い回しもあるにはあったが、実際に喋らせてみるとどうにもぎこちない。最初に敬語であいさつさせてみて、真顔で「おはようます」なんていわれたときには、前途多難そうで目のまえがまっ暗になった。
それで敬語の授業をするハメになった。敬語にたいする同居人の認識は「語尾にです・ますを付ければなんとかなる」ていどのものだったので、まず尊敬語・謙譲語・丁寧語の話からはじめた。同居人は、さきに定義を教えればすんなり身につけてくれる。それにこまごまとしたことを覚えるのは得意なので、おおまかな枠組みを伝授できれば、勉強自体はスムーズに進む。
問題は、同居人の好奇心が数分にいちどのペースで爆発してしまうことだった。たとえば「お」と「ご」の使いわけにこいつはずいぶん興味をもった。お絵描きはご絵描きにはならないし、ご本はお本にはならない。長く日本語を使ってきたわたしにはなぁなぁで受容れられる話だが、同居人には割り切れないほどふしぎらしい。とりあえずネットで拾ってきた使い分けをそのまま伝えたが、ものごとに例外はつきものなので、その枠にぴったり当てはまらない言葉はわんさか出てくる。ここで「例外は例外なのだから仕方ない」とさっくり終わってくれたら楽なのだが、残念なことにわたしの同居人はそれほど聞き分けのよい動物ではない。答えの出ない迷宮によろこんで突っ走り、どれだけいっても考えるのをあきらめない。知識に対して向こう見ずで無鉄砲だ。こんなやつにものを教える面倒といったら!
勉強は遅々として進まなかった。ひとつ進むと三つの中断があり、ふたつ進むと十の中断があった。それでもどうにかこうにか、甘美な知識欲に溺れかける同居人をなだめてマナーをひととおり教えこむ。そしてついに、同居人は今朝、こうあいさつした。
「ごはようおざいます」
わたしは笑い転げた。もうどうにでもなれとおもった。
なんというか、その同居人のひとことで、あたまのネジがいくつか飛んでしまった感がある。着替えて家を出るときも、バスに乗りこんだときも、わたしの足取りはじぶんでびっくりするほど軽かったし、思考も信じられないほど前向きだった。こんなに陽気になったのは数年ぶりかもしれない。あぁ、なんというか――はぁ、ほんとうに酒が飲みたい気分だ、いますぐにでも。
不安なことしかなさすぎて、かえってハイになっている。
〈ふなの時計店〉すぐのバス停で降りる。
すこし到着が早い。酒は飲めないがコーヒーで妥協しようとおもい、チェーンのカフェに立ち寄る。店先でホットコーヒーを飲みながら、同居人がぶつぶつと自己紹介を繰りかえすのを聞く。
朝いちばんに「ごはようおざいます」なんていわれたときには軽く絶望したが、いまひとり反復している自己紹介はわるくない。名前をいって、よろしくお願いしますで結べばかたちになる。
同居人の名前はすきなように決めさせた。柏木いつき。柏木のほうはわたしの苗字をそのままとっている。じゃ、いつきはなにかというと、同居人が気に入りの作家の名前らしい。さいしょは苗字もおなじものにしようとしていたが、あまりに捻りがなさすぎるし、その姓じたい創作したペンネームらしく、一般的でないから微妙。差し戻すと、つぎに柏木を借りるといった。それもどうかとおもったが、譲らないのでわたしが折れた。
わたしは同居人のことを同居人としか呼称しないし、こいつがどう名乗ろうとこいつの自由だとおもっているが、とにかく彼女は柏木いつきという名前の女の子になった。年齢は、生後(?)一か月だが、見た目と齟齬のないよう二十歳という設定。ま、死んだ千歳は二十歳にはなれなかったが、もとより大人っぽい顔立ちをしていたので問題はない。出身は他県、わけあって遠い親戚であるわたしの部屋に間借り中。わけあって、の内実は考えていない。しいていうならてきとうに、家族と折り合いがわるくて、とでもするのが丸いか。血液型はA型。誕生日はいまからだいたい一か月まえの日づけにしている。
コーヒーがほどよい温度になると、約束の時間も近くなってきた。ぐいと飲み干し、同居人に声をかける。返事が裏返っている。だめかもしれない。
しかし、ここまでくるともう、まえに進むしか道は残されていないのである。
わたしたちは快晴の下、〈ふなの時計店〉に続く路地を歩いた。鉄棒と砂場しかないちいさな公園を過ぎ、歩車分離式の交差点に出る。そこを右に曲がると、目的の時計店がある。
そこは、時計店というにはすこしふしぎないでたちだった。端にサビの目立つ看板には、たしかに〈ふなの時計店〉と書いてあるが、店先には古本が詰まったワゴンが置いてあり、ガラス戸の向こうにも本が所狭しと並べられているのが見える。北向きの古びた店構えは、時計店というより古本屋のそれだ。
いぶかしんでいると、カーディガンを掴まれた。同居人だ。わたしの横で石像みたいに顔をこわばらせている。
「どうしたの」
「う、うん」同居人はぎこちなく肯く。「緊張してきた」
おもわず苦笑してしまった。こんな意味のわからない存在でも、はじめてのバイト面接にはきちんと緊張する。それがおかしかった。
「だいじょうぶ、ちゃんと練習してきたでしょ」
「うん」
「わたしもいっしょにはいってあげるから。ひとりじゃない」
「うん」
「ほら、いくよ」
わたしは彼女の手を引き、〈ふなの時計店〉のドアを開けた。からんからん、と軽やかなドアベルが鳴り響き、奥からエプロン姿の女性が現れて、
「まぁ!」とちいさく叫んだ。「もしかして、柏木さん?」
一瞬、どっちを呼んだのだろうとおもったが、そういえば先方には同居人の名前を伝えていなかった。わたしは肯き、
「柏木です。はじめまして」と軽く笑みをつくる。
「あぁやっぱり。ショウちゃんから話は聞いてますよ。さ、奥へどうぞ」
店主の奥さんだろう女性は、ひとのよさそうな笑顔で手招きしてくれる。片手に杖を突きながらカウンターの奥に消えていくので、わたしは同居人の手を握ったまま後を追った。店には古びた紙の舌に痺れるようなにおいが満ち、本棚の隙間すきまにかけられた時計の針はかち、かちと規則正しく鳴っている。ふと同居人の顔を見ると、緊張というのを忘れて、このふしぎな店構えをきょろきょろと見回すのに夢中だった。どうやらもちまえの好奇心が刺激されてしかたないらしい。
カウンターの奥には、時計修理のための作業場があった。蛍光灯の光が白々しく、眩暈のしそうな色である。奥さんは、なにやら作業中の男性の肩を叩く。店主だろう。
店主は老眼鏡をとり、ひかえめに笑って会釈した。わたしは軽くあいさつして、緊張がぶりかえしはじめている同居人の背中を押した。
「あなたが、うちで働きたいっていう……」
奥さんのことばに、同居人はさびついたクレーンみたいに肯いた。あいさつ、と耳打ちすれば、はっとして、
「柏木いつきです」と、うまく発音する。「今日はよろしくおねがいしまひゅ」
最後で噛んだ。わたしはつい苦い顔をしてしまうが、奥さんは朗らかに笑って、作業場の隅にあった木組みの椅子を引っぱり出す。
「緊張しなくていいのよ。ほら、座って。わたしもそろそろ、座りたいから」
年季の入った椅子に、同居人はうやうやしく腰かける。表情は固いが、相手がこの奥さんなら、きっと心配ないだろう。
わたしは石のような同居人の肩を叩き、ひとこと応援してから作業場を出た。どうかへたなことはいわないでくれ、と心のうちで祈りながら。