わからない日々Ⅱ①
Ⅱ
同居人と暮らしはじめて一か月が経った。このごろ、彼女はほぼ完全に日本語を習得していた。
カタコトから、拙くはあるが助詞で単語をつなぎはじめ、短い文章をつくれるようになる。これが二週間まえのこと。それからは接続詞も覚えて、複数の文章をひとつの文章にまとめあげるようにまでなった。
話す・書くに加えて、読む・聞くも伸びた。最近は中学生用の漢字ドリルで常用漢字をひととおり身につけたおかげで、軽い小説なら読める。で、同居人はいま図書館で借りたハリー・ポッターを読むのに夢中で、そのまえには『ナルニア国ものがたり』を、さらにまえには『果てしない物語』を一日中読んでいた。
同居人が読書に向ける熱量はすさまじかった。本を一冊あたえると、まさしくかじりつくように本を読みふけり、声をかけないと夕食をたべようとしないこともたまにあった。とくにファンタジー小説を読ませるとたいへんで、朝から晩までページをめくる手を止めず、就寝時には無理やり取りあげないと布団にもぐらない始末だった。きっと幻想的でふしぎな物語たちが、彼女の満たされることない知識欲をぞんぶんに刺激するのだろう。ま、たのしんでくれるのは大いに結構だが、寝食を忘れるほどなのはどうにかしてほしい。
また彼女の興味は小説にかぎらず、方々に飛んでいった。
ひとつはゲームである。いちおう、これはわたしの趣味がうつったともいえる。同居人がまだ常用漢字に悪戦苦闘しているころ、わたしはその隣でひとり、ゲームをしていた。それで彼女の勉強がしっかり邪魔されたのは、いうまでもない。
わたしたちはよくレースゲームで競いあった。知識欲の権化たる同居人にもどうやら勉強疲れはあるみたいで、それにわたしはいうまでもなく労働と人生に疲れているし、するとゲームは互いによい気晴らしだった。同居人はめきめきと腕をあげ、一週間もすると上級なレーサーになったが、そこからは微妙に伸び悩んでいる。戦う相手がわたしみたいな凡人だからだろう。いちおう、勝敗は五分五分だが。
同居人は料理にもその好奇心を走らせた。はじめはわたしの調理姿をうしろからじっと観察していた。それがもう熱心に手元を覗きこんでくるものだから、やりにくいったらない。それが三日ほど続き、とある休日に料理を「やってみたい」とかいいだした。
わたしはずいぶん悩んだが、とりあえず教えてみることにした。言語の習得は目覚ましいものがあったし、ゲームの上達も早かったから、きっと料理もすぐうまくなるだろうとおもったのだ。それで、簡単な料理がひとりでもできるようになれば、わたしの帰りが遅くなっても同居人が部屋で飢えることはない。
が、いまのところ首尾はよくない。同居人は、包丁の扱いこそ完璧だったが、火の加減や味の付けぐあいというものがまったくといっていいほど理解できなかった。弱火と強火はぎりぎりわかるが、中火がどのていどかわからない。塩をひとつまみ、コショウを少々なんて言葉に混乱してしまう。
おもえば、同居人は白黒つかないことがずいぶん苦手だった。言語を身につけるときも、いちばん手こずったのは抽象的であいまいな単語の意味を掴むことだ。時間という概念を獲得するのにもつまずきがあったし、おおい・すくないのいい加減さを飲みこむのにも苦しんだ。料理が苦手なのは、そういうあいまいな判断がいちいち求められるからだろう。
とはいえ、こういうのは料理初心者によくあることだ。経験とともに覚えていけばよい。
休日にはふたりで台所に立ち、同居人はわたしのまわりをうろつきながら、慣れない料理の手伝いをする。いちど教えればたいていのことはできる彼女が、このときだけ悪戦苦闘するのは見ていて面白かった。でも、きっとあと一か月すれば、わたし並には腕前をあげるだろう。
結局、わたしは正体不明の同居人と、こうして一か月も暮らせてしまっている。人間の順応性とはかくもすばらしい。彼女との暮らしはあとどれだけ続くのだろうか。この調子だと、知らぬ間に一年が過ぎていそうで、すこし笑える。
§
「仕事がしてみたい」
という同居人の言葉に、わたしは丸三日ほどあたまを悩ませることになった。
ある金曜日の夜、最近蹴ってばかりの瀨川くんの誘いをまたも一蹴して帰宅すると、同居人はどこから引っぱり出したのか、古い求人情報誌を広げて隅から隅まで読みふけっていた。で、わたしが帰ってきたのを認めると、すぐさま駆け寄ってきて、
「バイト!」と叫ぶ。「働いてみたい、わたし!」
聞くと、どうやら同居人はいわゆる〈お仕事小説〉を読んで、働くということに憧れをもったらしい。社会に出て、わたしも立派に仕事をし、一人前だと認められたい。だれかの役に立つ仕事がしたい。すばらしい意識である。
これが自立しかけの高校生とか、就活目前の大学生なら本当にすばらしかった。あるいはじつの子どもが成長して、こんなすてきな言葉を並べてくれたら感動のあまりに泣いてしまうだろう。
だが、わたしの目のまえで労働のよろこびについてまくしたてるのは、正体不明の、おそらく人外である。さらには死んだ人間の姿で動きまわり、すこしまえまではまともに話せもしなかったし、間借りさせてやっている部屋の主を殺さんとする勢いで噛んだことすらあるやつである。
噛まれた傷はだいたい治ったが、まだ首元に痕が残っている。なによりこの痕こそが、こいつを社会に解き放ってよいものか悩む最たる要因だったが、そうでなくとも不安だった。
そもそも――同居人のような存在が働ける場所なんてあるのだろうか? こいつには証明できる身分というものがないし、それで雇ってくれるところがあっても、きっと同居人が憧れるようなキラキラした仕事はできないだろう。わたしになにかコネでもあればよかったが、両親とはもう何年も連絡をとっていないし、ほかに頼れそうな伝手もおもいつかない。
残念だが、同居人にはあきらめてもらうほかない。わたしは金・土・日のすべてを同居人の説得に費やした。彼女は三日目の晩にして、ようやく折れた。そして萎びた顔で布団に潜り、翌朝もまったく笑顔を見せず、いつもはすぐに平らげる朝食も三分の一だけ残した。
で、わたしは昼休憩に弁当をたべながら求人広告を読みふけることになった。あれほどわかりやすく落ち込まれると、無理やりあきらめさせたとはいえこちらも気分がわるい。罪悪感がないといえば嘘になる。
それに同居人が働くことができるのなら、わたしとしても助かる部分は大きい。すこしでも稼いでくれれば、今後うちの家計もちょっとはらくになるだろう。うまくいけば、引っ越し費用だって貯められるかもしれない。
いちおう、単発や日雇いバイトなら、身分証明できなくてもなんとかなりそうなものは見つかる。とはいえ、安定した勤め先ができたほうが彼女にとってもいいだろうし、わたしも居場所が把握しやすくてうれしい。
チェーンの飲食店やショップなんかはまず無理だろう。できれば規模のちいさい、いろいろとルーズなところがいい。べつに怪しい仕事をしているわけではなく、ただいくらか無頓着でよかった時代の面影を残す、下町のちいさな商店とか、そういう。
もちろん、そんな都合のよいところはうまく見つからなかった。数件ほどピックアップはしてみたが、休憩時間に電話をかけてもどこも繋がらない。しばらくして折り返しの電話がくるということもなく、だったらなぜ求人情報を載せているのか。苛立ちのこもったため息をなんどもつく。
と、四苦八苦していると、
「転職ですか?」なんて声をかけられた。瀨川くんだ。外で食べてきたのだろう、連れの社員にあいさつしてからこちらに向かってくる。
「先輩がいなくなったら、ずいぶん寂しくなりますねぇ」
「いいから、そういうの」
求人誌を閉じ、鞄にしまう。瀨川くんは向かいの椅子に腰かけて、ペットボトルのミルクティーを軽く煽った。
「で、転職するんですか、実際」
「いや。バイト探してるの」
わたしが応募するんじゃないけどね。そう付け加えると、瀨川くんは面白そうに唇をつりあげた。
わたしとちがって、彼はなかなか人脈がある。もちまえの人あたりのよさで方々に顔を出し、他部署や社外の知り合いもおおい。こういう相談にはうってつけかもしれない。
すこし考えて、結局、相談することにした。待ってましたといわんばかりに瀨川くんは身を乗り出して、
「どんなバイト探してるんです?」と訊く。
「ゾンビでも働けるやつ」
冗談だとおもったのだろう、瀨川くんはくつくつと声をあげて笑う。実際、わたしはゾンビでも汗水たらして働ける、すてきで寛大な職場をさがしているのだが。
「ゾンビ飼ってるんですか?」
「それに近い状況ではある」わたしは腕を組み、ため息をついた。「真に受けてくれなくていいんだけどね。でも、条件はかなり本気でそれに近いの。つまり……甲斐甲斐しく働きさえすれば厄介な部分にはたしょう目をつむってくれる、そういう心の広い職場」
「わけありなんですね、先輩も」
瀨川くんもわたしをまねてか腕を組み、すこし目を細める。
「そうですね、そういう職場なら、心当たりがあります」
「え、ほんとう?」
彼はいちど深く肯き、ついでに数度浅く肯いた。なんだか信用がきかなさそうな仕草だったが、もし嘘でないなら、渡りに船というやつだ。
教えてもらえるか訊ねると、瀨川くんは「もちろん」と住所と電話番号、それから〈ふなの時計店〉という店名をメモに書きつけてくれる。聞くところ、彼の伯父夫婦が営んでいる古い時計店らしく、このごろ奥さんが病院通いで店を空けることがおおいという。で、奥さんの代わりに店番してくれるひとを雇おうかなんて話がでている、きっとじぶんが口をそえれば細かいことは気にしないから、たとえゾンビでもひとのかたちをしているなら大丈夫だろう、という話だった。
なんてぴったりな仕事だろう。店番くらいなら同居人でもできるだろうし、社会を経験するその第一歩としては申し分ない。そしてなにより、コネで働かすことができる。マイナンバーとか銀行口座とか、とにかくもたざる者の同居人がどうにか職にありつけるかもしれない。
「つっても」と、瀨川くんはメモをこちらに渡しながら、「出せる額は知れてますからね。それにけっこう肉体労働っす」
「あぁ、それは大丈夫」
わたしは同居人の顔をおもいうかべながら肯く。やつは可憐な少女の見た目をしているくせに怪力で、体力もずいぶんあり、物覚えもいいし、それなりに器用だ。あとは彼の伯父夫婦と馬が合うかだが、生前の千歳に似て人懐っこい性格だし、あまり心配しなくていいだろう。
安心してと告げるわたしに、瀨川くんは頬杖をつきながら、
「紹介するてまえ、訊いといていいですか?」と前置きして、「その……実際、だれなんです? そのバイト探してるやつってのは」
「わたしの同居人」
「同居人っ?」
素っ頓狂な声をあげて、瀨川くんはのけぞった。オフィスによくとおる声で、わりと人目を引く。
「あ、えっと」瀨川くんは声を縮めて、「え、それは、彼氏と同棲とかそういう……」
「ちがうよ。女の子だし」
たぶん。恰好はどこからどう見ても女の子だが、やつに人間的な性別をあてはめてよいものなのか、いまだによくわかっていない。
とはいえ、わたしの答えに瀨川くんは「なぁんだ」と安堵の息をもらし、いつもの飄々とした笑みを顔に貼りつける。
「じゃ、友達とか?」
「ううん、遠い親戚なんだけどね」と、じぶんで驚くほど平然とした声が出る。「行く場所ないみたいだからうちに置いてるの。かれこれ一か月くらい」
「へぇ、かわいいですか?」
「おすすめしない。噛むから」
絶句された。数テンポ遅れて、「まさか!」と瀨川くんはまたも大声をあげる。
「あ、すいません」周りにあたまを下げている。「え、あの、ちょっとまえに首、ケガしたとかって……」
「だからいったでしょ、ゾンビなんだって」
わたしの言葉に、瀨川くんはあたまを抱えた。面白い。
「大丈夫だよ、最近はおとなしいから」
「最近はって」
「本当に。家庭が複雑だったみたいでね、そのころは……周りがみんな敵に見えてたみたいなの。でも、この一か月でずいぶんこころを開いてくれて。それで、このあいだ、ちゃんと働きたいなんていってくれてね」
わたしは滔々とない事情を語った。身寄りのない子どもをわたしが引き取ったこと、こころに深い傷を負った彼女がそれでも社会復帰を目指そうともがいていること、それをわたしは本気で応援しているのだということ――それらすべてを感動的に語りあげ、瀨川くんの瞳を潤ませられたところで、「ぜんぶ嘘だけどね」といった。瀨川くんは椅子から転げ落ちた。
わたしはひととおり笑ったあと、
「でも、そいつに身寄りがないのは本当。仕事も、まぁきっとまじめにやるとおもうから、きみの伯父さんによく伝えてくれたら助かる」
よろよろと座りなおした瀨川くんは、わたしのことばに苦笑しながら肯き、「任せといてくださいよ」と半ばやけっぱちな勢いでいった。