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わからない日々Ⅰ③

   §




「先輩、このごろたのしそうですね」


 と、瀨川せがわくんにいわれた。ジョッキを握ったまま、わたしは首を傾げて、


「どのあたりが?」と訊いた。「今日なんか、後輩のミスの穴埋めで、わたし、てんやわんやだったけど」

「いやぁ、はは」瀨川くんは首筋を掻き、「すみません、ほんと。つぎからは気をつけるんで」


 わたしは肩をすくめて、笑った。ミスや穴埋めといっても、たいしたものではない。会議資料の不備が今朝になって判明し、それを大急ぎで取り繕っただけだ。


「いやぁでも、今日は本当に助かりました。やっぱり先輩は頼りになるなぁ」


 瀨川くんは調子のいいことをいって、いつもの飄々とした感じで麦焼酎を頼んだ。「先輩は?」と訊かれて首を振る。すぐに帰るし、と呟くとケラケラ笑われた。


 瀨川くんは二個下の後輩で、おなじ大学の出だった。おなじ大学といっても、学部がちがえばキャンパスもちがうので学生時代に会ったことはない。それでも、わたしたちの世代は某大学出身という肩書にいろいろ苦労させられたから、なんというか妙な連帯感を共有している――らしい。わたしはあまりそうおもわないが、瀨川くんはわたしやほかの出身者にその「連帯感」とやらを感じているというし、実際、企業の枠をこえたOB・OGの活発なサークルもあるとか、ないとか。


 まぁ、たしかに、わたしたちの大学にはいろいろあった。わたしも他人事ではないが、しかし一方でとてつもなく他人事のような気もするし、なんというか複雑だ。ま、わたしも就職にはたしょうの苦労をしたし、瀨川くんもそうだろうから、その点で「妙な連帯感」というのを感じなくもない。


 どうあれ、わたしは彼の入社時から面倒をよく見ることになったし、その関係がいまもだらだら続いている。で、疲れた金曜の夜にはこうして飲みに出かけて、安い居酒屋で一時間くらい駄弁ってから帰るのが最近は習慣じみていた。瀨川くんはそれから他部署の同期と合流してまた夜に繰りだすというが、わたしはさっさと家に帰って寝るのがすきだ。


 というより、わたしは極力、酒を飲みたくない。アルコールの匂いはすきだし、とくべつ弱いわけでもないのだが、どういうわけか翌日がひどい。ビール二杯で目醒めがわるくなり、三杯飲むと二日はあたまが重くなる。土日を寝て過ごすのはつまらないので、なるべく控えるようにしている。


「先週は長いこと付き合ってくれたじゃないですか」


 麦焼酎のお湯割りに口をつけながら、瀨川くんはつまらなさそうにいった。先週の金曜日は、たしかにおおめに飲んだ。家に帰ってからもひとり、ゲームをしながら夜更けまで飲んだし、わたしにしてはアルコールを摂りすぎた日だった。


「あれはきみがうるさいから付き合ったの」と、わたしはジョッキを飲み干して、「残業続きで憂さ晴らしもしたかったし。でも、わたしは普段、飲まないから。知ってるでしょ」

「そりゃ知ってますけど……今日、まだ三十分しか経ってないですよ」

「あんまり飲みたくないの。酔うのはすきだけど、酔いすぎるのは嫌いだし。それに――なんというか、先週はひどい目にもあったから」

「ひどい目?」


 わたしは嘆息して、スマホを見る。ラインの通知が数件はいっているが、すべて同一人物からだ。


 財布から代金を出して、わたしは席を立つ。


「多いですよ」

「いいからとっときなよ」と、わたしは笑う。「あと、来週からはもっと付き合い悪くなるから」

「うへぇ」


 瀨川くんはからっとした笑い声を立て、店を出るまで手を振ってくれる。気のいい後輩である。


 夜風が心地よい日だった。活気のある通りをバス停まで歩き、バスが来るなり乗りこんだ。座席のうえで帰宅の時刻をラインで送ると、同居人からスタンプが返ってくる。


 いきなり湧いてでたわたしの同居人は、たった一週間でカタコトなら話せるようになり、同時にスマホの扱いも心得た。


 凄まじい言語の吸収速度だった。彼女は最初の土日で「これは?」をはじめいくつもの単語を覚え、とりあえず部屋にある〈もの〉ならたいていわかるレベルに達した。そして、ひらがなとカタカナを覚え、絵本や児童書なら読めるようになった。


 とくに絵本を読めるようになると、はやかった。わたしが趣味で集めていた絵本を同居人はまず読み漁り、書かれている文章を丸々覚えはじめた。で、わたしが名詞や動詞、形容詞と絵の対応関係を逐一教えてやると、徐々に同居人は言葉を喋りはじめる。文法はめちゃくちゃだが、単語を並べ、その意味を拙くもつなぐようになったのだ。


 と同時に、わたしはコミュニケーション能力の片鱗を見せはじめた同居人にスマホを与えた。わたしがむかし使っていた型落ちのスマホだ。


 用途はふたつある。ひとつは連絡手段、もうひとつは位置情報の共有。どちらにしても、同居人がふらりと外に出て、なにか面倒を起こさないよう見張るためである。平日は仕事にいかないといけないし、四六時中、あの好奇心の塊である同居人をこの目で監視するわけにはいかない。


 だから先週の日曜日、わたしは格安プランで契約したおさがりのスマホを与えて、肌身離さず持っていることを念押しし、ついでにラインの使い方を教えた。そして位置情報を共有するアプリを落とし、わたしのスマホで居場所をわかるようにする。もちろん、ほかのアプリは教えなかったし、いれなかった。とくにインターネットを覚えるとなにをしでかすか心配だったので、設定でしっかり制限した。そうして五日ほど経ったが、いまのところ、スマホまわりの不都合は起きていない。


 共有された位置情報を信じるなら、平日のあいだ、同居人はいちども外に出ていないようだった。おそらく、本を読んだりテレビを観たりするので忙しいのだろう。彼女は飽くことのない知識欲に従って黙々と現代コンテンツを消費し、夜にはわたしに話しかけて学んだことの確認をする。これで言葉は通じるのか、ぜんぶとはいわずともすこしは通じるのか、それともまったく通じないのか、わたしとの会話のなかで擦り合わせをしているようだった。月曜日にはまだまだ意味の通じなかった話が、昨日の時点では、昼に見たテレビ番組の内容をあるていど聞ける日本語で喋った。すごいを通りこして、もはや恐ろしい成長速度だ。


 この調子なら、来月には日常会話をマスターして、ふつうの人間らしく振舞えるようになっているかもしれない。問題はなんでも口にいれようとするあの悪癖だが、言葉がきちんと通じるようになれば、それも諭してやめさせられるだろう。


 最寄りのバス停で降り、わたしは家路をゆく。三日月が頭上にかがやき、ひそやかな夜の町を我が物顔で見下ろしている。


 エレベーターに乗って、わたしはふと、いやな考えをもった。というのは、この世界には同居人のようなモノが無数に存在しており、じつは死人の姿を模して社会に溶けこんでいるのではないか。同居人の姿かたちは人間のそれと変わらない。言語習得もいまのところ問題なさそうで、きっとしばらくすれば、喋りも行動も、ふつうの人間と見分けがつかなくなるだろう。唯一〈ふつう〉でないのは、死人の姿であることだけ……しかし、毎日まいにちおびただしい数のひとが死ぬ世界で、彼や彼女がとある死人とまったくおなじ容姿だと気づける可能性はかなり低い。なら、同居人のような存在が気づかれないまま社会で生活していたとしても、ふしぎなことはない。


 と、そこまで考えて、わたしは深いため息をついた。つまらない話だ。四階でエレベーターをおり、部屋の鍵を開ける。


「おかえり」と、居間から声がした。帰るとひとがいて、声をかけられるのが慣れない。わたしはローファーを脱ぎながら、ぎこちなく「ただいま」と返す。


 同居人はシングルベッドに寝転がって、『チルドレン』を読んでいた。ついに大衆小説を読めるまでになったのか。感心しつつ、本を覗きこんでみる。


「面白い?」

「漢字、読める、ない」と、同居人は唸った。「これは?」

「じんない。ひとの名前」


 やはりまだ早いか、と苦笑する。漢字ドリルでも買ったほうがいいかもしれない。


「お腹すいた?」

「つくる?」

「うーん」正直、アルコールがはいっていると面倒だ。「コンビニでいい?」


 同居人は勢いよく肯いた。こいつはコンビニがすきだ。ものがたくさんあるからだろう。


 わたしたちは揃って部屋を出て、徒歩一分のコンビニまで向かった。同居人は、外に出るといまだに急に駆けたり、ぎゃくに立ちつくしたりするが、ちょっと声をかければわたしのそばに戻ってくる。電柱にしがみついて動かなくなるようなことはない。


 弁当をふたつ買い、同居人がものほしそうにしていたので肉まんも買った。待ちきれない同居人はみじかい帰り路で肉まんにかじりつき、アパートに着くころには平らげてしまう。


「おいしかった?」


 エレベーターを待つあいだに訊くと、同居人は満面の笑みで肯いた。


「ありがとう」きれいな発音でいう。「かたり、やさしい」


 現金なやつだ。わたしは肩をすくめてエレベーターに乗りこむ。そしてわたしは本日二度目の帰宅をした。

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