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わからない日々Ⅰ①

※暴力的な描写、あるいは暴力を匂わせる描写があります。苦手な方はご注意ください。

   Ⅰ




 ベッドから落ちた衝撃で目が醒めた。夢すら見ない底無しの眠りをとうとつに打ち切られて、わたしはラグマットに向かいひとり唸る。バカにするようなアラームがけたたましく鳴った。今日は休みだっていうのに……最悪の朝だ。


 痛む右肩に手を当てながら、わたしは床で上体を起こす。ずきずきとした痛みが、打ちつけた右半身と、べつに打ちつけたわけではない頭にうんざりするほどひしめいている。昨夜のアルコールがまだ腹の底にたまっている感じがして、苛つく。


 グロッキーだ。床に座り込んだまま、枕元に置いていた鬱陶しいスマホに手を伸ばす。アラームを止める。


 寝なおそう。きめるのに時間はかからなかった。


 そう、土曜日は怠惰に使うのに限る。わたしはまた枕元にスマホを放って、熱の残るベッドに潜ろうとする。


 すると、先客がいた。


 ――先客?


 布団をめくる手がぱたっと止まった。ありえない。ひとり暮らしなのに。だれかを家にあげた記憶もないし、まぁ昨晩の記憶はあやしいが、しかし酒の勢いでだれか連れこめるようならここ数年を独りでやっていない。


 だが先客はいた。そいつはあろうことかわたしのベッドの大部分を占領し、陽だまりのねこのように安らかな表情でぐっすりと寝こけていた。


 その寝顔には見覚えがあった。長い睫毛に、すっと伸びた鼻。桜色の唇。目を凝らせば血管すら見えそうな、まっしろい肌。


 脳が凍てつく。息をするのも忘れてしまう。


 わたしはじっとその顔を見つめ、彼女は、それに応えるかのように目を開いた。


 そして浮かべた微笑みは、まちがいなく、萩埜千歳はぎのちとせのものだった。




   §




 萩埜千歳が死んだのは、もう七年もまえになる。


 彼女はわたしの幼馴染で、親友で、恋人だった。小学生からの付き合いで、地元のおなじ中学、高校とふたりで進んだ。高二の夏休みだったか、わたしと千歳はふたりで海に出かけて、その帰りに告白された。わたしはそのころ、恋愛というものにあまり興味はなかったが、千歳ならいいとおもった。


 でもきっと、千歳だから、いいとおもったのだろう。


 千歳は天真爛漫ということばがぴったりな女の子だった。わたしとはいってしまえば正反対で、学校で属するグループみたいなものもかなり違った。月並みな比喩に甘えるなら、明るく無邪気な彼女を太陽だとして、わたしはそのひかりに照らされてできる翳みたいなものだった。


 千歳の無邪気さに、わたしのからだは輪郭をもっていた。ひかりが強まるほど、かたちのくっきりする翳のように。


 彼女が死んでから、わたしはなおさらその喩えを信じている。




   §




 まずわたしが疑ったのは、二日酔いが見せる幻覚という線だった。


 ベッドのうえに起き上がって伸びをする千歳らしきモノ。アルコールで焼かれた理性の残骸をフル稼働させて、わたしはそれを夢あるいは幻覚だとまず断定した。


 じぶんで両頬を叩いて、意識が次第にはっきりしてくるのを感じながら台所に向かう。コップに水をくみ、それをぐいと飲み干す。一杯では足らないので二杯、三杯飲んだ。胃のなかがたっぷりとカルキの聖水で満たされていく。不浄なるアルコールよ、去るがよい――とわたしはひとり呟いた。だめだ、酔いが抜けていないかもしれない。


 しかし目は冴えてきた。あたまもだんだんとクールになってきたし、こころなしか偏頭痛も引いてきた気がする。


 これなら幻覚は消えるだろう。仮に夢ならとっくに醒めているだろうし……わたしはうんうん肯いて、また居間に戻った。


 素っ裸の千歳がいる。


 わたしはまた台所に向かった。水をさらに一杯煽るとおもわずむせてしまう。シンクに向かって咳き込んでいると、なにやら居間のほうで這いずる音が聞こえた。しばらくして、テレビが点いたかとおもうと消され、また点けられる音もした。


 状況が飲みこめなかった。あまりに不可解な現象が起こってしまっている。そしてわたしは考えた。シンクの目のまえで腕を組み、右に左に首を捻って、出口のない迷宮をさまよった。


 と、凄まじい大音量が聞こえて、わたしは居間にすっ飛んだ。見ると毛布にくるまった千歳らしきモノが、テレビの音量を100にしている。慌ててリモコンを取りあげてボリュームをさげると、彼女はほがらかな笑みを浮かべてわたしを見上げ、その表情のまま首を傾げた。


 見覚えがある。首を傾げるという仕草にではなく、その笑みに。アルカイック・スマイルみたいににぃっと口元を吊上げて、おおきな瞳をきらきら輝かせる。生きた表情だ。それが千歳の得意技だった。


 わたしは面食らって、懐かしいやら切ないやら、とにかく感情がごちゃついてしまった。おもわず彼女のとなりにぺたりと座りこみ、その頬に触れる。触れられる。触れられてしまう。やわらかく、すべらかで、熱を帯びている。いきものの素肌だ。


「千歳」


 と、呼びかけると、彼女は目をぱちくりさせた。ああ、と刹那におもった。もういちど呼びかけると、彼女は肯いた。それで、わたしはこれが千歳ではないのだと知った。


 午前八時の部屋は薄暗く、彼女の顔をベールのような翳が覆っていた。しめつけるような感覚が喉からじんわりと上下に広がって、次第に全身が痺れる気がした。


 わたしはいちど深呼吸してから、テレビの音量を耳を澄まさなければ聞こえないほどに下げた。そして、千歳の顔をしたモノに向かって、ゆっくり訊ねる。


 おまえはいったい何者なのか。


 どうして千歳の恰好をしているのか。


 そもそもなぜわたしの部屋にいるのか。


 みっつの質問に、彼女はそれぞれ〈肯き〉、〈首振り〉、「千歳」と応答した。どれも意味のとおらない反応だ。こちらの質問を理解して、それに沿う回答をしようとは明らかにしていない。どちらかといえば、なにかいわれたので応答してみて、それが正解なのかどうかを逆にこちらの反応を見て探っているような感じがする。


 わたしはもういちど、みっつの質問を繰り返して訊ねた。こんどはそれぞれ「千歳」、〈肯き〉、〈肯き〉であった。ひとつめの質問には意味がとおった回答をしているが、ほかふたつはなおも回答になっていない回答であるので、きっと「千歳」という返事もたまたまだろう。それに、そもそもこいつは千歳ではない。


 このあとも十分ほどてきとうな質問を投げかけてみたが、要領を得ない回答ばかりでどうしようもなかった。わたしは混乱して、もちろん苛立ちもして、眼前に座る何者かをどうしたものかあたまを掻きむしった。


 と、だれかの腹が鳴った。容疑者はふたりしかいない。しかしわたしではないので、犯人はめのまえのこいつだ。


 なんというか、気が抜けた。わたしはこんなに困っているのに、当の本人(とはいうが、ヒトなのか? もはやそれすらわからない)は腹をすかして、のんきにも「ぐぅ」と主張してきた。手が出そうだった。


 けれども――ここは、落ち着くべきだろう。怒りを露わにしたってどうしようもない。そうだ、クールになるべきだ。冷静に考えると、こっちもお腹がすいてきた気がするし――わたしは大人しくしているよう裸の何者かに厳命して、また台所に向かった。水を一杯飲み、やかんを火にかけて、食パンを二枚ほどトースターに並べる。それでちょうど食パンは切れた。あとで買い出しにいかないといけない。


 焼いているあいだにトイレを済ませて、インスタントのオニオンスープをマグカップに用意する。で、こんがりと焦げ目のついたトーストは皿にのせる。いつもの朝食だ。


 居間に戻ると、やつは本当に大人しくしていた。あいかわらずわたしの毛布に身を包んで、じぃっとテレビに釘付けだったが、簡単な食事をテーブルに並べるとすぐ手を伸ばした。


 なにもつけないトーストにかじりつくそいつを横目に、わたしは胸のまえで合掌して、トーストにマーガリンを塗りたくって、食事をはじめた。やつは不思議そうにわたしの所作を見ていた。で、大きな歯型のついたトーストを置いて、「いただきます」と合掌した。へんな動物だ。


 そしてバターナイフを手にとり、それをしげしげと眺め、観察を終えたら口にふくむ――のをすんでのところで止めた。箱のマーガリンをそのまま嘗めようとするのもなんとか阻止。仕方ないので、すでにかじられたトーストにわたしがマーガリンを塗ってやる。それを渡すと、やつは目を輝かせて二重、三重にマーガリンを塗り、それで満足したのか大口を開けて食らいついた。へんな動物だ。食事の面倒を見なければいけないなんて……ずいぶん疲れる。


 とはいえ、やつはじつにうまそうにトーストを食う。その点だけは気に入った。そういえば、千歳もたべることがすきだった。大食いというわけではなかったし、もちろんなにかれ構わず口にするということもなかったが、学生時代はよく帰り路に買い食いをした。駅前の肉屋でコロッケを買うと、それをもうばっくりと頬張りうまそうに目を細める。その横顔を見るのがすきだった。夕陽に透けた長い睫毛が震えるようにきらめいて、きれいだった。


 最近は、千歳のことをあまり思い出さなくなっていた。彼女が飛び降りたのはもう七年もまえのことだったし、酒と惰眠を覚えたわたしにはあるていどの苦悩を混沌におとすくらいの芸当がとっくに身についていた。社会に出ると多忙さがメランコリーを忘れさせて、というかわたしにはワーカホリックの才もあって助けられた。とにかく過去のことはすべて過去のこととして片づけられる、もうかつてのうつくしい思い出たちがわたしを蝕むことなどない。そのはずだった。


 どうして、いまさらこんなことになっているのだろうか。トーストを口にしながら、わたしはぼんやりと考える。テレビではかわいいキャスターが曇りのち晴れの予報を伝えている。日が照らないうちにスーパーまで出ようとおもう。


 と、いきなり「ギャッ」という悲鳴があがった。見ると、やつがスープをこぼして悶えている。わたしは慌ててティッシュでその肌を拭き、よくよく確認する。赤くなっている部分はあるが、あまりひどいようには見えない。


 熱かったの、と問うとうるんだ瞳で見つめられた。おもわず苦笑してしまう。わたしは幼児に教えるみたいに、じぶんのスープでふぅふぅしてみせて、飲んでみる。ぬるくはないが、もう火傷するほど熱くもない。


 やつはまた、恐る恐るマグカップに手を伸ばし、わたしがしてみせたみたいに息を吹きかけた。希釈された幽霊みたいな湯気が、彼女の顔のまえでふるふると揺れた。ちょっぴり口にふくむ。目を瞠る。口にあったみたいだ。


 出かけるなら……と、わたしはスープをたのしげに飲む謎の存在を眺めながらおもう。食材はふたりぶん買わないといけない。一日中裸でいられても困るから服もいる。あとは歯ブラシとか日用品の類いも必要だ。そうだ、こいつ、化粧はするのかな、だとしたら……


 あたまのなかでメモをつくって、驚く。どうして、わたしはこいつといっしょに暮らそうとしているのだろうか。今朝、いきなり現れたこの死人の姿をした謎の存在を、どうして受容れてしまっているのか。こいつを部屋から追い出そうという方向で考えないのか。愕然として、だがどうにも、追い出そうという気になれない。


 わたしはすっかり欠片になったトーストを口に放り込み、また訊ねた。


 おまえはいったい何者なのか。


 まだスープをたのしんでいたそいつは、にこやかに顔を上げ、「いただきます」と答える。わたしは嘆息した。とりあえず、わたしの服を着せようとおもった。

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