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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

プールサイド

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「夏休み、海とか行った?」

 人懐っこく微笑んだ陽司が話しかけてきた。

「行ってない」

 佳洋は咄嗟に嘘をつく。

「そっか。日に焼けてるから、てっきり」

「ああ。俺、水泳部だったから」

「だった?」

「もうやめたの。この間」

「そうなんだ」

 そこで会話は一旦途切れてしまった。少し待ってみたが、陽司が「どうしてやめたの?」などと聞いてくる様子はない。佳洋は、それ以上深く追求しようとしない陽司の距離感を心地よく感じた。周囲は周囲で楽しげに会話をしているようで、教室はざわざわとした明るい空気に満ちている。意図的に話しかけるなオーラを出している佳洋や、少し前に転入生ブームの過ぎてしまった陽司に話しかける者は誰もいない。ふたりの間だけが静まり返っていた。

 夏休み明けの席替えで、三枝陽司の隣の席になった。二学期になって転入してきた陽司は、地味だがすっきりと整った顔立ちをしていて物静かな印象の人物だった。教室の前に立ち、担任に紹介され、「よろしくお願いします」と一礼をした陽司に対し、中宮佳洋は、弟と同じ名前だな、と思っただけだった。漢字は違うが読み方が同じだ、と。

 名前は同じだが、外見は全く似ていない。陽司は色白で、顔のそれぞれのパーツの主張が控えめで、たまごのようにつるんとした肌をしている。真っ黒に日焼けをしていて、個々のパーツの主張が激しい弟の洋路とは、ほとんど真逆の顔立ちだ。

 朝のホームルーム前の教室で、佳洋はぼんやりとそんなことを考えていた。机に頭を横に置いた無気力な状態で、左隣の席の陽司の横顔を眺めていたら目が合ってしまい、先程の当たり障りのない会話になったのだ。

 夏休み前まではいっしょにいたクラスのグループや、水泳部のメンバーとは疎遠になっていた。というより、佳洋が自ら彼らを避け、距離を取っているのだ。夏休み中にも全く連絡を取らなかった。腫れものを触るように気を遣われているのがわかって気まずいからだったが、陽司はそのあたりの事情を知らないので、佳洋は陽司に対して無意識に不思議な安らぎを感じてしまう。

「三枝は、なんで転校してきたの?」

 たぶん親の仕事の都合などだろう、と佳洋は安易に想像し、軽く尋ねると、

「両親が離婚して、母の実家で暮らすことになったんだ」

 陽司はカラッとした明るい声で言った。思いの外、軽くはない答えが返ってきて、佳洋はどうしたらいいのかわからなくなった。「ふうん」と、なんでもないような相槌を打ちながら、自分に気を遣っているやつらもこんな気持ちなのだろうか、と、ふとそんなことを思う。

 その日の学校帰り、陽司とたまたまいっしょになった。

「家、こっちのほうなの?」

 佳洋の問いに、

「うん」

 陽司は、今朝と同じ、あの人懐っこい微笑みを浮かべて頷いた。

「まだまだ暑いね」

 その言葉の意味とは裏腹に、涼しげな顔で陽司は言った。開襟シャツの袖から覗く二の腕が眩しいくらいに白い。

「明日はもっと暑いらしいぞ」

 佳洋は答えながら、自分たちは今、当たり障りのない会話をしているな、と思っていた。それはお互いに気を遣っているからというわけではなく、まだふたりの間に共通の話題がないからだった。佳洋はふと思いつき、立ち止まった。鞄から財布を取り出して中身を確認する佳洋を、陽司は黙って見ている。

「なあ、陽司。いま金持ってる?」

 顔を上げて、佳洋は陽司に問いかけた。うっかり弟を呼ぶように気軽に下の名前で呼んでしまってから、しまったと思う。馴れ馴れしいと思われたかもしれない。しかし、陽司は気にした様子もなく、「少しなら」と頷いた。

「アイスクリーム食べに行かね?」

「行く」

 佳洋の思いつきに、陽司は即答した。涼しげな顔はしていても、やはり先程の言葉通り暑かったらしい。

 路地を少し入ったところに、こぢんまりとした古いアイスクリーム屋がある。弟とも時々食べに来ていた。佳洋は、陽司をそこへ案内する。

「俺、まだこの町のことよく知らないから、こういう路地に入ったりとか、探検みたいで楽しい」

 陽司はにこにこしながらそう言った。

「つっても、普通の田舎の町だぞ」

 佳洋の言葉に、

「中宮くんにとっては馴染みの町かもしれないけど、俺にとってはまだ知らない町だから。だから、わくわくするんだよ」

 陽司の言葉に、「そんなもんかね」と佳洋は返す。

「そんなもんだよ。うれしいな。これから、どんどん探検できる」

 陽司はうれしそうだ。

 アイスクリーム屋の周辺は木や建物でちょうど日陰になっており、ふたりはなんとなく人心地ついた。小窓からそれぞれ注文すると、アイスクリーム屋のおばちゃんに「あんたら、白と黒でオセロみたいやね」と言われてしまった。不意を突かれて、ふたりは顔を見合わせて笑う。

 店の前のベンチに座り、それぞれ無言でアイスクリームを食べる。盗み見するように、横目で陽司のほうを見ると、コーンのふちから溶けたアイスが、白い手首を伝って一筋流れている。

「垂れてるぞ」

 教えてやると、陽司は、「本当だ」と言い、垂れたアイスクリームを舌先でつうっと舐め取った。肘のあたりから手首まで、尖らせた赤い舌を這わせる陽司の様子に、佳洋の心臓が、どくん、と大きく膨らんだ。なんだか卑猥だと思ってしまう。

「暑いから、急いで食べないと溶けちゃうね」

 陽司は照れくさそうに笑う。佳洋はズボンのポケットからタオルハンカチを出し、陽司に差し出した。陽司は「ありがと」と言った後、

「中宮くん、こういうのちゃんと持ってるんだ。えらいね」

 などと言う。まるで子どもを褒めるみたいに褒められて、返事の思い浮かばなかった佳洋は、ハンカチのことには触れず、

「佳洋でいいよ」

 そっけなくそう言った。

「うん」

 陽司はうれしそうに笑っている。



 翌朝、佳洋が教室に入り、席に着くと、

「昨日はありがとう」

 陽司が言って、洗濯したタオルハンカチを返してくれた。

「うん」

 返事だけをして受け取り、鞄にしまう。陽司の顔を見ていると、なんとなく呼吸が苦しくなり、佳洋は陽司から目をそらす。

 昨夜、佳洋は真っ暗な自分の部屋で、陽司が自分の腕を流れるアイスクリームを舐め取っている映像を、ずっと脳内で繰り返し再生していた。そうしている間に、いつしか眠ってしまい、見た夢はひどく情欲をそそられるものだったような気がして、なんだか陽司に対して後ろめたく感じる。

「どうしたの?」

 陽司が言った。

「なにが?」

 感情を抑え、佳洋はそっけなく答える。

「すごく見てくるじゃん」

「見てないし」

「めちゃくちゃ目が合ってるけど」

 そらしたはずだった視線は、いつの間にか陽司の顔に戻っていた。

「本当だ」

 佳洋は言って、再び陽司から視線をそらす。

 帰り道、やはり陽司といっしょになった。気まずい思いがしたが、それは佳洋が昨日から一方的に感じているものであって、当然だが陽司はそんな佳洋の胸中など知らないのだ。変なのは自分だけだ、と自覚した佳洋は、まるで恋をしているみたいだ、と思う。俺は陽司のことが好きなのだろうか、そう考えてみる。そんなはずはない。弟と同じ名前で、でも真逆だから、ちょっと気になるだけだ。そんなふうに自問自答しながら、隣を歩く陽司の顔を盗み見る。やはり、弟の洋路とは似ても似つかぬ顔だ。

「どうしたの?」

 陽司が佳洋を見て言った。

「なにが?」

 今朝の繰り返しのようなやり取りが始まってしまった。

「ちらちら見てくるから」

「うん」

 返事にもならない頷きを返して、佳洋はそのまま陽司と見つめ合う。

「ねえ、あっちのほうって川沿いの遊歩道があるでしょ。ちょっと散歩する?」

「いや、行かない」

 陽司の誘いを、佳洋は考えもせず断ってしまった。

「そっか。暑いもんね」

 少し寂しそうな表情をした陽司だが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、

「じゃあさ。また今度、アイスクリームいっしょに食べようね」

 明るくそう言った。

「うん。うん、食べよう」

 佳洋も、笑みを浮かべるよう努力しながら頷いた。陽司に寂しそうな表情をさせてしまったことに罪悪感を覚えてしまう。

「遊歩道も、いつか……」

「いつか?」

「いつか、行こう。もう少し、かかるかもしれないけど」

 佳洋は考えながら、絞り出すようにそう口にする。

「うん……」

 陽司は不思議そうな目で佳洋を見ていたが、頷いただけで、やはりなにも尋ねなかった。

 家に帰っても、両親はまだ仕事から戻っていない。キッチンの冷蔵庫から牛乳を出してコップに注ぐと、佳洋は仏間へと移動する。簡易に作られた棚の上、白いカバーの掛かった箱の前に佳洋は胡坐を書いて座り、牛乳を飲んだ。西日に照らされたその白をじっと見つめていると、真っ黒に日焼けした弟の顔が現れる。後悔とやりきれなさが襲ってきて、佳洋は無意識に洟をすすった。



 次の日、朝の教室はなぜか月面旅行の話題で賑わっていた。どうやら、日本人の資産家が、民間人で初めて月へ行くというニュースが昨夜、報道されたらしい。佳洋はそのニュースを観ていなかったが、陽司は観ていたようで、前の席の平井という女子生徒と話をしていた。

「三枝くんは、月に行ってみたいとか思う?」

 椅子の背に肘を乗せ、身体を後ろにひねって平井は言う。

「ううん、思わない。死ぬかもしれないような危険な場所に、わざわざ自分から行きたくはないな。連れて行かれるのも嫌だけど」

 平井の問いに、陽司はそう答えていた。「わかる」と、平井は頷いている。

「中宮くんは?」

 平井が急に佳洋のほうを見た。矛先をこちらに向けられ、佳洋は唸る。

「俺は、行けるなら行ってもいいかも」

 佳洋は答える。

「死ぬ前に、まだ見たことのないものを見てみたい」

「それもわかる」

 平井は、うんうんと頷いている。

「そこで死ぬかもしれないのに?」

 陽司が言った。

「俺は、別にもういつ死んでもいいし、地球外で死ぬのも悪くないよ」

「若いのになに言ってんの。まだまだこれからなのに。俺はまだ死にたくないな。だから、酸素がない、事故とかでいつ窒息するかもわかんないような息苦しい場所には行きたくないよ」

「あのね」

 佳洋と陽司のやり取りを聞いていた平井が、口を挿む。

「宇宙では、息ができなくなって死ぬわけじゃないんだって。身体の穴という穴からガスや空気や水分がぜーんぶ放出されて、しぼんで、くしゃくしゃのぺったんこになって死ぬんだって」

 嘘か本当かわからない平井の説明に、そんな死に方はちょっと嫌だな、と思ってしまった佳洋だが、先程いつ死んでもいいなどと言ってしまった手前黙っていた。

「いずれにしろ、宇宙イコール死だよ。嫌だよ、せっかく人生が楽しくなってきたところなのに」

 陽司は極論を唱えている。佳洋は、陽司の口からうっかりという感じでこぼれた言葉が気になってしまう。

「今まで、楽しくなかったの?」

 思わず尋ねると、「うん、まあね」という軽い返事だけがあった。どうして、と尋ねたかったが、そんなふうに突っ込んで質問していいことなのかどうか迷い、結局、佳洋は口を噤む。なにより自分自身が、そんなふうに根掘り葉掘り尋ねられることを嫌っていた。どうしたらいいのかわからなくなり平井のほうを見ると、月面旅行に対しての意見を求められたと思ったのか、「私は、抽選で当たったとかでタダなら行くけど、自分でお金出してまでは行かないかな」と、あっさりとした口調で言い、「まあ、最終的には金だな」という佳洋の当たり障りのない言葉を聞くと、ひねっていた身体を直して前を向いた。この話題はもう終わったらしい。佳洋は少しほっとする。

「一時間目は化学室でしょ? いっしょに行こうよ。場所がまだよくわかんないんだ」

 陽司がそう言ったので、佳洋は頷いた。

 教室移動の際に、水泳部の部長と廊下ですれ違った。会釈だけして通り過ぎようとすると、

「なあ、中宮」

 名前を呼ばれ、足を止める。

「おまえの退部届、まだ受理されてないんだ。休部扱いになってるから、おまえさえよければ、いつでも戻って来いよ」

 佳洋は答えず、黙って一礼をした。

「もう一度泳ぎたいって思うの?」

 隣にいた陽司がそう尋ねてきた。

「思う。けど、泳ぐのが怖い」

「そうなんだ」

 佳洋の言葉にそう返事をしたきり、陽司はやはりそれ以上はなにも尋ねてこなかった。



「なあ。今日の夜、空いてる?」

 金曜日の放課後、佳洋は陽司といっしょの帰り道で、そう口を開いた。

「その聞き方はずるい。用件を先に言ってよ。用件によっては空いてないって言うからね」

 陽司が言うので、「学校のプールに忍び込む」と、素直に用件を言う。

「ついてきてほしい」

「それなら、空いてる。いいよ、いっしょに行こう」

 陽司は、佳洋の不穏な誘いをあっさりと快諾した。やはり、理由を聞かれることはなかった。

 閉店後のアイスクリーム屋の前で待ち合わせ、ふたりは学校へ向かうことにした。

 月が出ていた。月明かりに照らされた町は、夜なのに妙に明るい。

「なあ。理由、聞かないの?」

「楽しそうだから、理由なんて別になんでもいいよ」

 佳洋の問いに、陽司はそんなふうに返した。

「今年は親のゴタゴタで夏休みらしいこと一個もしてないし、単純に夜のプールってわくわくするよね」

 陽司のはそう言って、「まあ、俺は泳げないんだけど」と、人懐っこく笑った。不思議と人通りはなく、この町には自分たちふたりだけしか人間が存在していないのではないかという錯覚をしてしまいそうになる。しかし、そんな恥ずかしいことを口には出せず、佳洋は、月明かりに白く照らされた陽司の横顔をじっと見る。

「また見てる」

 そう言って陽司は笑った。

 夜の校舎はどこか異世界のような雰囲気で佇んでいた。まだ残っている教員がいるのだろう、職員室の窓にだけ控えめな灯りが見える。プールからはかなり遠いので見つかることはないだろう、と佳洋は思う。プールの周辺には灯りがひとつもなく、月の光が明るいことだけが視界の助けになっていた。

「佳洋、もしかして泳ぐの?」

 陽司の問いかけに、「いや」と返す。

「今日は泳がない」

「そっか。手ぶらだもんね」

 陽司のその声を聞きながら、佳洋は塀をよじ登り、フェンスに手をかける。ガシャン、と金属音が響いたが、誰にも聞こえていないだろう。フェンスを越え、プールサイドにクロックスを履いた足で立つ。続いて、陽司も同じようにプールサイドに降りてきた。片方脱げてしまったらしいビーチサンダルを拾い、「こっちもいいや」ともう片方も蹴飛ばすように脱いでいる。

「見て見て。プールの底に月が沈んでるみたい。いや、浮いてんのかな」

 陽司はスマートフォンをハーフパンツのポケットから取り出し、写真を撮っている。プールの水面に、ゆらゆらと歪んだ月明かりが映っているのだ。

 佳洋は、フェンスを背にして座った。脚を前に投げ出して、ぼんやりとプールの水面を見つめる。やはり、底から湧き上がるような恐怖心は消えてはくれない。陽司が隣に座って、

「父親がさ、結構なモラハラ野郎でさ。小さいころからそうだったから、ずっとそれが普通なんだと思ってたんだけど、成長していくにつれて、どうも違うらしいって気付いたんだよね。俺もつらかったけど、特に母はもっとずっとつらかったと思う。だから、長いことかかってやっと離婚できて、今は俺も母もほっとしてる」

 ぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。

「佳洋とも知り合えたし、この学校に来てよかったな。やっと人生が始まったって感じ」

 陽司はあの人懐っこい笑みで佳洋を見る。佳洋はなにも言わず、ただ微笑みだけを返した。陽司にそんなふうに思ってもらえたことがうれしかった。

 ここに来るまでは、足を水につけるくらいならできるのではないかと思っていたが、やはり無理そうだ。水面を眺めてばかりいても仕方がないので、佳洋は立ち上がる。

「帰るの?」

 陽司が言う。

「うん」

 佳洋は言い、陽司に対して申し訳なく思う。

「なんかごめん。ただ来ただけになった」

「じゃあ、最後、俺はちょっと水に触ってみる」

 そう言った陽司は水際まで這って行き、身を乗り出してプールの水を風呂をかき混ぜるようにざぶざぶとかき混ぜている。水面に映った月をかき混ぜているのかもしれない。

「あっ」

 弾くように細く響いた声と同時に、ドプン、と水の音がして、陽司の姿が消えた。プールに落ちたのだと気付いた瞬間、佳洋の足元から頭頂部まで、一瞬にして鳥肌が立った。佳洋の脳裏に弟の姿がフラッシュバックする。すくみそうになる足を無理矢理に動かし、佳洋はプールに飛び込んだ。足は底に届くはずなのだが、陽司はパニックになっているようで、水面下でもがいている。助け出そうと手を伸ばした瞬間、陽司は動きをぴたりと止めるとゆっくりと浮かんできた。佳洋は浮いてきた陽司の顔を水面から出す。その身体を抱え、できるだけ素早くプールサイドまで移動した。水のおかげで陽司の身体は軽いが、しかし同時に抵抗もありもどかしい。陽司をプールサイドに引き上げ、その場に寝かせると、佳洋は部活で習った水難事故の救助方法を思い出していた。呼吸をしているか確認、意識があるか確認、頭の中でそう唱えながら、佳洋は淡々と脳内のタスクをこなそうと動く。呼吸と意識を確認しようとした時、陽司が起き上がり、けひょ、と空気が抜けるような苦しそうな咳をした。咳を繰り返す陽司を見て、佳洋は安心する。意識もある。生きている。

 佳洋は、陽司が酸素のない息苦しい場所には行きたくないと言っていたことを思い出した。連れて行かれるのも嫌だと言っていたことを思い出した。まだ死にたくないと言っていたことを思い出した。やっと人生が始まったと言っていたことを思い出した。

「ごめん、陽司。怖かっただろ」

「うん」

 佳洋の言葉に、陽司は素直に頷いた。

「ごめん、こんなところに連れてきて」

「なに言ってんの。俺が来たかったから来たんだよ」

 咳きこみながらも、陽司は佳洋を庇うような言葉を口にする。

「どうしたの、佳洋。泣いてるの?」

 言われて初めて、佳洋は自分が泣いていることに気づいた。

「ごめん」

 もう一度、佳洋は泣きながら繰り返す。

「謝らなくていいよ。たすけてくれてありがとう」

 陽司はそう言って、落ち着かせるように佳洋の肩を何度も撫でた。

「鼻で水吸っちゃった。鼻がめちゃくちゃ痛い。鼻水すごい出てる」

 全く深刻さのない声で陽司は言い、

「俺のシャツで洟かんでいいぞ」

 佳洋のその言葉に、陽司は本当に佳洋のティーシャツで洟をかんだ。

 ふたり、びしょ濡れのまま、月明りに照らされた道を歩く。送って行く、家の人に謝る、と言う佳洋に対し、陽司は、「じゃあ、そうしてもらおうかな」と軽い調子で言った。

 ポケットに入れたままだった佳洋のスマートフォンは水没してしまったが、プールサイドに置いてあったらしい陽司のスマートフォンは無事だった。

「陽司のスマホが無事でよかった」

 佳洋が言うと、

「俺がだよ。俺が無事なんだよ。スマホはおまけ」

 陽司は冗談を言うような口調で笑って見せた。

「俺んち、こっち」

 陽司は佳洋の手を取って、楽しげに先導する。数分前に死にかけたやつとは思えない。ふいに、繋いだ手が離れてしまうことに不安を感じ、佳洋はぎゅっと力を込めて陽司の手を握ったが、

「急になに。痛いんだけど」

 陽司が不服そうに言ったので、少し緩める。

「俺にさ、夏休み海とか行った? って聞いたことあったろ」

 誰もいない道を手を繋いで歩きながら、佳洋は口を開く。

「うん」

「行ってないって言ったけど、本当は行った」

「うん」

 陽司は質問を挿むようなことをせず、頷くだけだ。

「その海で、弟が死んだ」

 夏休みは始まったばかりだった。家族で遊びに行った海で、弟の洋路が死んだ。少し沖のほうで洋路がはしゃいでいる姿を、佳洋は波打ち際で見ていた。洋路も水泳が得意だったのでふざけているのだと思ったのだ。その時、溺れていたなんて露ほども思わなかった。そのため、救助が遅れてしまった。洋路が再び陸で呼吸をすることはなかった。

 あの時、ちゃんと気付いてやれていれば、と佳洋は思う。洋路は、まだ中学生だったのに。洋路の人生はこれからだったのに。そのことをずっと後悔して、佳洋は自分を責めている。

「それ以来、水が怖い。水際が怖い。泳ぐのが怖い。プールに入れない」

 陽司の家に到着し、玄関先で出迎えてくれたのは陽司の祖母だった。母親はまだ仕事から戻っていないらしい。佳洋は自分たちがずぶ濡れの理由を説明し、

「陽司くんを危険な目に遭わせてしまい、すみませんでした」

 祖母に頭を下げて謝った。陽司の祖母は、驚いてはいたが怒ることはなく、

「陽ちゃんも、いっしょにやんちゃするお友だちができたんやねえ」

 などと言って、陽司に友人ができたことをのんきによろこんでいた。実際にその時の状況を体験していないので、陽司が死ぬかもしれなかったということに現実感がないのだろう。佳洋は、「本当に、すみませんでした」と、もう一度謝る。

「もういいよ」

 陽司が言った。手を繋いだままだったことに気づき、佳洋は慌てて陽司の手を離す。そんな佳洋の様子を見て、陽司も陽司の祖母も笑っていた。

 タオルを貸してもらい、髪や身体を拭く。洗濯して返すと言ったのだが、「俺のも洗うんだからいいよ」と使用済みのタオルは取り上げられてしまった。陽司の祖母に、上がって麦茶でも飲んで行きなさいと言われたが、謝りに来た手前そこまで世話になっても体裁が悪い。丁重に断り、

「また今度、ゆっくり寄らせてもらいます」

 そう言って、佳洋は帰路に着く。帰宅すると、待ち構えていた両親に、スマートフォンを水没させたことをこっぴどく怒られた。しかし、佳洋がずぶ濡れなことに関してはなにも言われなかったし、なにも聞かれなかった。ただ、母はずぶ濡れの佳洋のことを小さな身体で力強く抱きしめた。そんなふうにされたのは、いつ以来だろう。まだ自分の身体が母よりもずいぶんと小さかったころが最後だったのではないかと思う。気恥ずかしさも忘れ、佳洋はただただ母の肩で声を殺して泣いた。



 九月が終わろうとしている。洋路の納骨も済んだ。

 佳洋は陽司と共に、誰もいない夜のプールサイドにいた。陽司に誘われたのだ。あんなことがあったので、危険だからと佳洋は反対したのだが、

「今度はちゃんと自分で気を付けるから、もう一回行こうよ。あれが夏の最後の思い出なんて嫌だ。上書きしに行こう」

 などと陽司がしつこく言うので、再び夜のプールに忍び込むことになったのだ。

 プールサイドのフェンスに寄りかかって座り、コンビニで買ってきたソーダ味の棒付きアイスをふたりで食べる。

「陽司。この町を探検するなら、俺も連れてってくれよ。川沿いの遊歩道も散歩しよう」

 佳洋は言う。いつ死んでもいい、という気持ちは、いつの間にか消滅していた。きっとこれから、楽しいこともたくさん待っているはずなのだ。

「うん」

 佳洋の言葉に陽司は頷き、

「もう水は怖くないの?」

 続けてそう言った。

「あの時、俺のためにプールに飛び込んでくれたでしょ」

「うん、まあ徐々に慣れるよ」

 佳洋はそう返す。確かに、以前よりは水は怖くなくなっている。洋路のことを助けられなかったことは未だに後悔し続けてはいるが、あの日、陽司を助けられたことは、佳洋の精神にプラスに作用したようだった。

「じゃあ、水泳部に復帰するの?」

 珍しく、陽司の質問は続く。

「そのうちな」

「俺、佳洋の泳いでるとこ見たいな」

「そのうちな」

「そればっか」

 陽司は笑う。佳洋は、食べ終わったアイスの棒を陽司から受け取り、自分のものといっしょにビニール袋に片付ける。

「ねえ」

 ふいに、ささやくように静かな口調で陽司が切り出した。

「あの時、俺に人工呼吸しなかったね」

「だって、おまえ意識あったじゃん」

 佳洋がそう返すと、

「そっか。意識あったらしないんだ」

 陽司は納得したようにそう言った。

「する?」

「え?」

 短い佳洋の問いに、虚を突かれたように陽司が疑問符を返してきた。その隙を狙って佳洋は陽司の白い手首を掴み、自分の唇を陽司の唇にそっと押し付ける。陽司は避けなかった。三秒ほどそのままでいて、唇を離すと、

「ソーダ味」

 陽司は自分の唇をぺろりと舐めて、なんでもなさそうに、しかし、人懐っこく笑ってそう言った。



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