マートン
「ねえ、いつになったらワタシの身請け人になってくれるの?」
さらりとした生地の服を纏った女性が俺の首に腕を絡めてくる。淡い桃色の衣服は非常に薄く、吹けば飛んでいきそうだ。
自分にはどういうものが合っているのか、よく分かっているんだろう。フフンと得意気な笑みを浮かべている。
自分を引き立てる色。
声を掛けるべき男。
男の誘い方。
愛人という立場。
そう。
きっとコイツは、全部わかっているんだ。
「急かさないでくれ、アンジェリナ。今、君が気持ち良く過ごせるよう別邸を片付けているんだ。終わったら呼んであげるよ」
「嬉しいわ!その時は旦那様も一緒に気持ち良く過ごしましょうね!」
夜の街の狭い一室で若い娼婦が俺に抱きつき、俺たちは熱い一夜を共にした。
翌朝、疲れてスヤスヤ眠る若い娼婦の枕元に紙幣を投げ置いて、俺は夜道を馬とともに歩んで行った。
んー、悪くは無いんだけどな。所詮は元貴族の娘だからか、ぎこちない。
初めは鮮度に惹かれたが、回数を重ねるごとに単調で飽きてきた。次からは、新規開拓で年上の色気があるベテランにしてみるか。
そうと決まれば即実行!
やることはさっさと済ませて、さっさとヤルぞ!
まずは、朝食を片付けようとしていると、妻のサマサから声を掛けられた。
「離婚しましょう」
煩わしく思いつつ、そういえば最近相手にしてやってなかったと思い、そろりと目を合わせて気づいた。
またバレた。
怒りを秘めているのか、淑女の微笑みを捨てた冷たい瞳が物語っている。
今回は、どれ程の長期戦になるか想像できないので、カチャ…と食事の手を止めて、家令には紅茶のおかわりを命じた。
1人で飲むのも忍びないのでサマサにも視線で一息つくよう則したが、それには応えずに冷たい瞳のまま宣った。
「真実の愛を見つけたの」
「え?お前が浮気したの?」
「お前も、でしょう?」
「あ、はい」
勢いに押されて、ついポロッと口にしてしまったが「いや可笑しいだろ」と思い直してサマサを睨め付けると、何が面白いのか彼女はフッ…と嘲笑した。
「私の浮気について思うことがあるようなお顔をされていますよ」
「あるに決まってるだろ。世間にバレたら恥をかく」
「あなたが、ね」
「いや、それはサマサもだろ!大体、なんで浮気なんかしたんだよ!」
サマサは淑女の鏡だった。
俺が帰る時間には笑顔で待っている彼女が、浮気だなんて信じられなかった。まさに、家を守る女主人を体現した存在だから。
はじめは浮気ばかりする俺に逆の立場を思い知らせるための嘘かと思ったが、俺の反応を期待する気配はまるで無い。
どこかに心を置いてきたかのような、そんな顔をしていた。
「あなたが仰ったのよ?『別にお前だって浮気してもいいぞ。俺は懐が広いからな』だったかしら?」
「だからって…!」
確かに言ったさ。
まさか相手ができた上、本気になるなんて思いもしなかったからだ。
正直、サマサを相手にする男なんていないと思った。だって、サマサは俺しか見えてなかったはずだ。俺以外の男には一線を引いている態度で、美人という訳でも無いし、色気も無い、話題も娼館の奴らと違って《すべらない話》だっけか、その類いの引き出しは無い…。
普通はそんな既婚者に対して手を出すなんて、リスクを負うものだろうか?
俺は、しない。
「確かに浮気がバレたら指を差されてしまうでしょうけど、私たちは大丈夫ですわ」
「な、なんでだよ」
「だって真実の愛ですもの!」
ガダンッ!!と椅子を倒す勢いでサマサは立ち上がって天を仰ぐ。目は空虚を映しているが、初めて見る晴々とした笑顔だった。
なんか分からないが、何かが可笑しい。サマサはこんなに突拍子も無い女性だっただろうか。
「彼と愛し合うようになった経緯を知れば、誰も蔑む言葉や視線なんて投げない。いえ、きっと感動して拍手を贈ってくれるわ!私を陰ながらずっと見守って支えてくれた彼。優しくて可愛らしくて食べてしまいたいほど。あは、もう食べちゃっていたわね。甘美な時だったわ。刺激的で燃えてしまいそうだった!あれが愛よ!貴方なんかと過ごすつまらない時間が嘘のよう!返して?ねえ、返してよ!私と彼が過ごすはずだった時間!貴方と過ごして無駄にしてしまった時間を!!」
イカれていた。
地味だと同級生の男子から嘲笑を受けても、毅然とした態度で「密かにあなた方を慕う女性が、こんな女に意地悪をする姿を見たら悲しんでしまいますわ。淑女は陰から慕う殿方を見守っているのですから」と華麗に言い返した彼女が。
成績が落ちると、慌てない素振りをしつつ、微かに間違えた問題なのか、吐息のような微かな声量で暗唱する彼女が。
学生時代、放課後の夕陽を浴びる時間まで読書に耽って、声をかけたときの恥ずかしそうに微笑む彼女が。
想いを告げた時には平然とした顔で、両親に確認すると答えたが、帰りの馬車の中で顔を真っ赤にした彼女が。
倫理に反したことを恥ずかし気も無く口にして、無理なことを要求して、怒りを露わにして
イカれていた。
ピタッと時が止まったように喋るのを止めると、今度は無の表情のまま家令の方をグリンッと向いた。
「離婚届」
「はい?」
「離婚届持ってきなさい。サインするから。私は一応まだ伯爵夫人の立場なんですから言う事は聞けるでしょう?」
「しかし旦那様の意志は」
「大丈夫よ。今のお相手のアンジェリナは、没落したとは言え元子爵令嬢なんだから、喜んで後妻に入ってくれるわ。ねえ?」
ギュンとこちらに向き直したサマサ。そこまで知っていて怒ってくれなかったのは、彼女の中で俺が過去の存在…いや、寧ろ邪魔な存在になっていることを痛感するのに十分な態度だった。
「離婚届は書かない」
「は?」
「俺はサマサを愛してるんだから当然だ!絶対離婚しないから、君も考え直して…」
「私の真実の愛を邪魔するな!浮気野郎!」
怒鳴ったサマサは拒絶するようにダイニングを飛び出してバタン!と思い切り扉を閉めた。
私でも感情を露わにしたサマサを初めて見たのだ。家令も初めてだったようでポカンとしていた。
それでも時間は止まることはないので、仕事を始める。いつもなら気持ちの切り替えて業務に専念できるのだが、今日の俺は業務の頭の中に何度もフッと朝のサマサの異常な様子が蘇り、全く集中できない。
こんなことは初めてだ。
まるで別人になってしまったサマサ。
真実の愛に出会い、内に秘めた彼女の一面が現れたのだろうか。
それなら良い。
だが、俺が心配しているのは相手に薬物投与や洗脳により、ああなってしまったのではないかという恐怖があった。
恐怖?
何に?
本来のサマサが歪められてしまっていることに。
なぜ?
俺は
サマサを愛しているからだ……。
やはり俺にはサマサが必要なんだと感じた。
俺は諦めない。サマサを説得するんだ。
意を決した俺は、帰宅次第サマサがいる部屋の扉をバン!と開けた。
ティーテーブル横の椅子に掛けながら、彼女は窓の外の夕陽を見ている。
怒っているのか、こちらを振り向く気配が無い。
「もう浮気はしない。本当に愛しているのは君なんだよ!だから…離婚なんて、言わないでくれよ……」
サマサからの返事は無かった。
部屋はサウナのように暑苦しいのに、彼女から漂う雰囲気は氷室のような冷たさだ。
「なあ!」
そして、サマサの腕を徐に掴んで
ぐ
ら
り
と倒れた。
誰が。
サマサが。
掴んだ腕は硬くて冷たかった。
いや、部屋は暑いから熱かった?
わからない。
いや変だと思ったんだよ。
だってノックもせずにサマサの私室に入ったら大声で怒られるんだ。普段は品のある淑女なのに怒鳴るのが珍しくて面白くなって最近じゃ癖になってきていた。でも思えば初めてノックしないで入って怒られたのは彼女に浮気すればと提案した日から後だった気がする。その時からなのか。間男と会ってたのは。俺たちの家で間男が入り込んで来ていたのか。だとしたら俺はとんだ道化師だ。彼女のために俺は働いている間に間男は彼女と過ごしていたなんて。ふざけるな。誰だ。どこのどいつだ。問いただしてサマサに一体何をしたのか洗いざらい吐かせないと。
いや
もう、詮索しても、意味が、無いかもしれない。
だって
最愛の妻は
もう
死んでいるのだから。