サマサ
「離婚しましょう」
「は?」
煩わしい旦那様―マートン・ジョンストン伯爵の食器の音が止んだ。
結婚当初は、慌てて食べる姿に微笑みを浮かべたものだが、今となっては不愉快の極み。
どうせ、さっさと仕事に行って、さっさと適当に済ませて、少しでも長く娼婦に慰めてもらう魂胆なのでしょう。
最初は旦那様の女癖の悪さを指摘したわ。その度に返されるくだらない言い訳を何度聞いたかしら。
間抜けな顔で私―サマサ・ジョンストンを見つけている。
まあ、理由もなく2つ返事で了承していただけるとは思っていなかったので理由をお話ししておきましょうか。
「真実の愛を見つけたの」
「え?お前が浮気したの?」
「お前も、でしょう?」
「あ、はい」
呆気にとられた顔で失言をした旦那様だったけれど、すぐに「いや可笑しいだろ」と言わんばかりの顔で睨みつけてきた。
この人、今までの自分の行いを棚に上げるかしら。だとしたら、お笑いね。
「私の浮気について思うことがあるようなお顔をされていますよ」
「あるに決まってるだろ。世間にバレたら恥をかく」
「あなたが、ね」
「いや、それはサマサもだろ!大体、なんで浮気なんかしたんだよ!」
あら、それをお尋ねになるの?ご自分が言い出したことなのに。
呆れて溜息が出そうになったけれど、ここは淑女として僅かに唇を噛み、なんとか持ち堪える。
お忘れになったままなのは可哀そうだから、きちんと思い出させてあげましょう。
「あなたが仰ったのよ?『別にお前だって浮気してもいいぞ。俺は懐が広いからな』…だったかしら?」
「だからって…!」
「だからって本当にする奴がいるか」って?今の旦那様の支離滅裂さを例えるなら、そうね。お腹が空いている人に「こちらの食べ物をどうぞ遠慮なく召し上がってください。私は懐が深いのでお代は払っておきます」と言っておいて、本当に食べたら「なんで食べたんだ!」って怒るくらい酷いわ。
「確かに浮気がバレたら指を差されてしまうでしょうけど、私たちは大丈夫ですわ」
「な、なんでだよ」
「だって真実の愛ですもの!」
そう。市井の恋愛小説では、冷え切った仮面夫婦でいた妻側が突如運命の男性と出会い、旦那とは別れて真実の愛で結ばれる物語が溢れている。
私と彼も、そうだったのだ。
旦那様の度重なる浮気で社交界では陰で笑われる日々だった。それに心を擦り減らし、夫人として家で人形のように仕事をする中で手を差し伸べてくれたのが彼。初めは自分も浮気をしてみろだなんて言う旦那様への復讐のつもりで始まった関係だったが、身も心も癒された私は本気の恋を知った。彼も私の思いに応えてくれてからは更に生活に彩られ、愛に溺れていった。
最近は旦那様よりも前に彼に出会っていれば、こんな回り道をしなくて良かったのにと沸々と考えている。…身分違いであるから無理な話だとは分かっているのだけどね。
「離婚届」
「はい?」
「離婚届持ってきなさい。サインするから。私は一応まだ伯爵夫人の立場なんですから言う事は聞けるでしょう?」
「しかし旦那様の意志は」
「大丈夫よ。今のお相手のアンジェリナは、没落したとは言え元子爵令嬢なんだから、喜んで後妻に入ってくれるわ。ねえ?」
旦那様の今回のお相手を調べて名前を見た時には驚いた。かつて同じ王立学園に通っていた元子爵令嬢のアンジェリナ・カラデミック。いつも私が旦那様といると、睨んできたことを覚えている。
カラデミック子爵が事業に失敗して中退されたようだけれど、まさか旦那様が通う娼館に勤めてまで追いかけてくるなんて。
彼女もまた真実の愛を旦那様に見出したのでしょう。
「離婚届は書かない」
「は?」
「俺はサマサを愛してるんだから当然だ!絶対離婚しないから、君も考え直して…」
「私の真実の愛を邪魔するな!浮気野郎!」
旦那様の強情さに腹が立ち、感情的になって部屋を出てきてしまった。
いけない。
彼に見られたかしら?
恐る恐る後ろを振り返っても、誰1人いなかった。
となると彼の居場所はあそこしか無いと歩みを早めて私室に入る。
朝に乱したベッドは見事に元通りにして、紅茶の準備を進める彼がそこにいた。
アルフィー。平民である彼に姓はまだ無い。彼は若さ故に執事でも見習いという扱いだが、無駄の無い仕事ぶりは見習いにしておくには勿体ない存在。
淡いミルクティー色をした髪は、子猫の毛の様に柔らかそう。彼の美しい中性的な顔に近づけば、その快晴の空のような色をした瞳に吸い込まれるまま、背伸びをせずとも唇が触れ合った。
「アルフィー……」
「いけません、奥様。先程ベッドメイキングが終わったばかりです」
「あの人を相手にして疲れたの。お願い。頑張ったのだから、ご褒美をちょうだい?」
「では、ご褒美のカモミールティーにしましょう」
頬を膨らませると、彼は「夜まで良い子に待っていたら、追加のご褒美があるかもしれませんよ?」と私の鎖骨を指でなぞった。
ああ、私はいつから恋の奴隷に成り下がったのかしら。
でも不思議と嫌な気持ちはしない。無重力の中で寝起きのような気持ち良い心地を、永遠に味わうの。
彼が淹れたカモミールティーで落ち着きながら、旦那様と話した内容を漏れなく彼に伝えた。旦那様が自分を棚に上げて私の浮気を叱責する部分で、アルフィーが僅かに吹き出したのを聞き逃さない。
やっぱり可笑しいわよね。自分だって浮気するどころか勧めてきたくせに、勧められた通りに楽しんだら憤慨するなんて。身勝手にも程がある。
私みたいな魅力が無い女じゃ浮気出来ないと、たかを括っていたのでしょうね。私自身、自分に魅力があるとは未だ思えないけれど、アルフィーはそんな私を愛してくれている。本当に私を愛してくれるアルフィーにだけ魅力的だと思ってもらえてさえいれば、無理することは無いと悟りを開いてからは楽になれたわ。
いくら真実の愛であろうと、他者にとって私たちの馴れ初めは褒められたものでは無い。きっと心無い冷笑に噂話が絶えないことでしょう。それでも、あの旦那様の形ばかりの妻でいつつ、アルフィーと日陰で愛を育む今より全員が幸せになれる。
だからこそ離婚を決意したのに、まさか外の女性にしか興味が無い旦那様が断るなんて思いもしなかった。
「困った人だわ。でも必ず離婚するわよ。だって、真実の愛で結ばれるためですもの。ねえ、アルフィー」
「光栄です。奥様」
「ふふ、実家も賛成しているのよ。予定よりも早く引退できそうだって!」
私の実家は子爵家だ。しかし、私は1人娘で跡取りがいない。元々は旦那様との子供を跡継ぎとして養子に出す約束だったのだけど、彼を婿養子として再婚すれば、問題ない。
「次期子爵様になられる奥様をお支えできるよう、私も尽力いたします」
「ありがとう。楽しみだわ」
身分を超えて真に愛する者と過ごす。
こんな幸せを旦那様は先に味わっていたなんて、本当に狡いわ。でも、おかげで私もこの幸せを知ることができたのだから、お礼を申し上げるべきかしら。
彼との素晴らしい未来を想像して、紅茶を嗜みながらも笑みが溢れた。
あ。
でも結婚したら、次期子爵の夫になるのだから、こうして彼の淹れてくれた紅茶は飲めなくなるのかしら。
いえ、大丈夫ね。
彼は優しいもの。
お願いしたら
きっと笑顔で
用意してくれるわ
そんなことを微睡みの中
考えて
私は
眠りに
落ちた