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君が教えてくれたこと

作者: 茉莉花

この小説は、短編でもお楽しみいただけますが、

長編『ヘーゼルの瞳《前世の記憶を持ち異世界に転生した貧乏令嬢の物語》』に登場したあの夫婦の物語です。併せてお読みいただくとより世界観をお楽しみいただけるかと思います。

「ドーリス嬢、…もう令嬢という歳でもないか…。君は私の妻となったが伯爵夫人としての社交もしなくて良い。夫人用の私費の範囲内であれば何をしてもらっても構わない。イザークの母を務めてくれれば私からは他に望むことはない」


「…かしこまりました」


ドーリス嬢こと、ドーリス·ホフマン子爵令嬢はこの度ハンス·バッハマン伯爵に輿入れした。



ドーリスはホフマン子爵の長女で、生まれた頃から病弱で1度風邪をひくと1ヶ月は療養が必要だった。そんなドーリスを両親は大切に育ててきたのだが、両親の目下の悩みがドーリスがいき遅れた令嬢であるということだった。1年の大半を療養に当ててしまう為社交もままならず、病弱な割にしぶとく生き抜いており、今年30歳を迎えた。両親も娘を失うことは考えられなかったのだろうが、まさか嫁げないという事態は予想していなかったのだろう。縁談を取り付けたくても病弱ということが受け入れてもらえず、20歳を超えてくると適齢期を理由に断られることもあった。ホフマンは子爵家の中でも裕福だ。商売が上手くいっていることもあり家格は悪くない、むしろ子爵家としては上位に入るだろう。婿取りであれば可能性はあっただろうが、ドーリスは嫡子ではなく嫡男の弟がいる。20歳を迎えた弟が次期に結婚する予定で、世間体もあるため両親はさらに焦ったがそこに1つの縁談が申し込まれたのだ。


ハンス·バッハマン伯爵から提案された条件は、自分には嫡男がいるため子を産む必要はないから、病弱でいき遅れたドーリスを妻に迎えても良い、ただし子爵家から資金援助としっかり持参金を持たせて欲しいというものだった。

普通は貧しい暮らしをしている方が娘を差し出しその代わりに援助を得るのだが、お荷物になっている娘を娶ってやるのだから資金を援助しろということだった。


世間体を気にした両親は、比較的裕福で家柄は悪くなく(それなのに資金援助を望むところが疑問だが)女性問題も無さそうなハンスならばと縁談を進めた。そもそも子爵家より上位の伯爵家の申し出を断るにはそれ相応の理由も必要だが断る理由もなかった。資金はドーリスが貴族籍がなくなり生涯独身でも暮らしていけるようにと貯めていたものを使った。ハンスが満足する額面だったようだ。




こうして今、離婚歴のある子持ちのハンスに後妻として迎えられたのであった。



「イザークは今7歳だ。貴族教育も始まり少々ストレスもあるようだ。前妻はイザークが5歳の時に出ていった。以降イザークとは前妻の話題はない。彼が理解していたり覚えているのかはわからんが君が母となってくれればと考えている。他に何か聞いておきたいことはあるか?」


「では伯爵様は私にイザーク様の母親役をご所望なのですね?」


「そうだ」


「かしこまりました。ちなみにイザーク様との交流はありますか?伯爵様は執務にお忙しくされているのでしょうか?」


「基本的には仕事三昧だ。ただ食事の時間が合えば一緒にしていた。イザークとはその程度の付き合いしかできていない」


「私も時間が合えばお食事をご一緒しても構いませんか?」


「当然だ。かまわん」


「伯爵夫人としてのお勤めはありますか?」


「いや、今は考えてない。君は病弱なのだろう?邸内を自由にしてもらって構わない。外聞は気にせずとも良いから君の社交は必要ない。あ、男女の関係も必要ない。私と君はただイザークの父と母であれば良い」


この伯爵邸に足りないものは、イザークの母ということなのだろう。伯爵夫人や妻という存在は望んでないようだ。邸内を自由にということは女主人として振る舞っても良いのだろう。


「かしこまりました、伯爵様」


「…、もうこの邸の人間なのだから、呼び方を変えたまえ」


「…はい。旦那様」


「…まあ、それで良い」



この日はイザークと対面し、自分がこれから母であると話をした。呼び方は好きなように呼ぶよう伝えると、イザークは名前で呼ぶことにしたようだ。


与えられた部屋に戻るとここまでのことを振り返った。


(イザーク様は綺麗なお顔立ちをされていたわ。将来が楽しみね。漆黒の髪に緑色の瞳…。きっと髪はお母様に似たのね。目元は旦那様と同じだったから旦那様の血筋だわ。それにしても旦那様は熊のようでしたわ。背が高く大きなお腹をして首が見えなかったけれど…。会話をした感じでは不器用な方という印象だったわ。悪い人ではなさそうだった。私が選ばれたのはとにかくイザーク様に母をということなのかしら?ずいぶんと念を押されてましたけど…私とともにやって来た資金はどうなったのかしら?)


輿入れに辺り、持参金の他に侍女を1人連れてきた。ドーリスの体調管理の為でもある。事情を知っているものがいた方が良いと判断してのことだった。


「ごめんね、イルザ。慣れぬ所に連れてきてしまって」


「いえ、伯爵家にお仕えできるなんて素晴らしいです。こんな経験できませんから。こちらこそありがとうございます。それに皆さん温かく迎えてくださいました。これならやっていけそうですね」


「ラーラ、これからよろしくお願いしますね。私とこのイルザもお世話になります」


ラーラは伯爵邸の侍女だ。イルザとともにこれからはドーリスの専属侍女を務めてくれる。


「そんな!こちらこそよろしくお願いします」


ラーラは腰の低いドーリスに驚いた。前伯爵夫人アデリナは傲慢な人だったからだ。


「奥様、お持ちになったドレスはこれだけですか?」


これだけと言われたが、ドーリスは10着あまりは持参したはずだ。


「ええ。十分ではありませんの?先程旦那様からは社交も必要ないとのお話でしたから、もっと少なくても良かったわね」


この返事にラーラは唖然としている。イルザは荷解きの手伝いを再開していた。


「お裁縫道具はどちらに置きますか?」


「ではベッドの横のチェストに置いてもらおうかしら」


ラーラはその会話にハッとした。


「あ、あの、奥様がお裁縫をされるのですか?」


「ええ、そうよ。ドレスの手直しやアレンジをしているの。可笑しいかしら?」


「それでしたら伯爵邸には針子もおりますからどうぞお申し付けください」


「そうなの?わかったわ」


ドーリスはにっこりと微笑んだ。


ホフマンは質素に倹約を重ねることで潤沢した家で子爵邸には最低限度の使用人しかいなかった。自分達で出来ることはしていたのだ。特にドーリスは部屋で療養していることが多かった為、針仕事を率先して行っていた。自分のパーティー用のドレスは4色あったが、毎回アレンジを加えデザインを変えて着用していた。


(針子までいるなんて…、贅沢ね)



翌日から、朝食は出来る限り3人揃って食べ、ハンスを見送り、イザークの教育を見守り、昼食を終えるとイザークと遊び、晩餐を共にし主の労をねぎらう言葉をかけ日々に感謝し、就寝するという生活をした。



ある日の午後。


「今日は何をして遊びましょうか?」


「ドーリス様!今日は虫取をしたいです!」


「あら、虫取ですか。それは楽しそうですね。それでしたら私は着替えて参りますからお待ちくださいね」


ドーリスは持っている衣装の中でも地味で動きやすいものに着替えた。少し薄手だったが、日も出ているし問題ないだろう。


「ドーリス様!見てください。カマキリです。戦ってるのでしょうか…このカマキリたちなんだか怖いです」


「そうね…。2匹ともお腹が大きいですからメス同士かしら?互いを捕食相手だと思っているのでしょう。お腹が空いているのですわ。カマキリは共食をする生き物ですから、交尾を終えたらメスがオスを食べることもあるそうですよ。私たちは人間で良かったですわね。殺気立っているから怖く感じたのでしょう。観察してもよろしいとは思いますが…怖いと感じたのでしたらそっとしておきましょうか」


ドーリスはイザークの手をひき移動した。この伯爵邸は立派だ。領地も大きい。自然も多くあり、静養できる場所もありそうだ。


(この伯爵領のことも学びたいわ。イザーク様の遊びも兼ねて偵察しても良いわね。今度提案してみようかしら)


この日は水辺を散策をして、花畑で蝶々を捕まえ花を摘んで邸に戻った。


この日の体験がよほど楽しかったのだろう。晩餐の時にはイザークがハンスに虫取の様子を楽しそうに語った。


ケホッ


その様子を穏やかに見つめていたドーリスは悪寒を覚えた。


(やはり、薄着だったかな…)


翌日から3日ほど寝込むと1週間は私室で療養した。



「ドーリス様!元気になったのですか?僕が虫取をしたいって言ったから…。ごめんなさい」


イザークは涙を浮かべながらドーリスに抱きついた。


「あなたの所為じゃないのよ。私が薄着だった所為よ。私が気を付けなければいけなかっただけよ」


ドーリスはぎゅっと抱き締めた。


「君は体が強くはないのだから、無理はしないように。イザークが寂しがっていた」


「ご心配おかけして申し訳ございません。イザーク様ごめんなさいね」


以降、イザークは頻りにドーリスの体調を気にするようになった。外出場所も時間も無理のないように考え遊び、ドーリスの服装にも注目するようになった。


(私にはずいぶん小さなナイトがいるわね)


そんなある夜、イザークが眠れないと言う。ドーリスがイザークの部屋を訪れると怖い夢を見たと言う。ドーリスは抱き締め安心させ寝かしつけてあげた。しかしドーリスもいつの間にか寝てしまったのだ。

翌朝、支度の為にドーリスの私室に向かったイルザとラーラは大慌て。探し回るとドーリスはイザークのベッド横に腰掛け寝ていた。


「体は大丈夫か?昨夜は冷えたからな」


「はい。ご心配をおかけして申し訳ございません」


「今度イザークが眠れないと言ったら、君の部屋に招待しなさい」


「え?」


イルザとラーラが騒いだ為に、ハンスの耳にも入ったのだ。私室で休まなかった事を怒られるかと思えば、提案をされた。


「イザークのベッドに二人は寝れないが、君のベッドでなら寝ることが出来るだろう。添い寝するならその方が安心だ」


「よろしいのですか?」


「良いも何も二人の為だ。といってもあと2、3年だけだぞ」


2、3年もすればイザークは10歳を超える。年頃の息子と寝るわけにはいかないという意味だろうと思ったが、3年後も自分が家族として存在することを思い描いてくれるハンスに嬉しさが込み上げた。


「はい!ありがとうございます」




穏やかに暮らすこと1年。変わったことと言えば、イザークがドーリスを母上と呼ぶようになったことだ。すっかり懐いたイザークがドーリスは可愛くて仕方なかった。


(旦那様には感謝しかない。子を持つことが難しいだろう私に、こんな素敵な息子を与えてくださった。それだけでも十分なのに、衣食住も問題なく、使用人にも恵まれてる。こんなに幸せで良いのだろうか…)



ところが穏やかな日は続かなかった。ドーリスが嫁いで3年目の冬のことだった。またドーリスが風邪をひいた。それだけでなく拗らせてしまい肺炎へと悪化させてしまった。1週間寝込みそのうち2日程は生死を彷徨った。目を覚ますとホフマンの父と母、そして弟も自分に寄り添っており、事の深刻さを把握した。


「…お父様、お母様、それにオスカーまで…。私は危なかったのですか?」


「ああ。バッハマン伯爵が連絡をくださった。はじめはただの風邪だったそうだが…、よかった」


母はドーリスの手を握りしめ泣き崩れていて、父も涙を浮かべている。


「姉上…。イザーク様も大変心配なさってますよ。伯爵様も」


「旦那様も?」


「はい。もちろんですよ。ここ数日はまともに寝ていらっしゃらないと思います」


「それは迷惑をかけてしまいましたね…」


そういうことじゃないと思うけどとオスカーは思ったが、この姉のことだから気づいてないのだろう。


そこへイザークとハンスが知らせを聞き入室した。


「母上!目覚めたのですね!?良かったです!」


「ドーリス…。良かった」


「イザーク、ごめんなさいね。また寂しい思いをさせましたね。旦那様、視察に行ってらしたのに申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました」


「…」


ハンスは大きく息を吐くと、ゆっくり休みなさいと部屋を後にした。


ドーリスは約1ヶ月ほど部屋でしっかり療養した。





◆◆◆


アデリナが男を作って出ていった。イザークもいる目の前で離婚届を叩きつけて。元々夫婦仲は悪かったから驚きもしなかったが、最後まで母親らしい行いをしない姿に興ざめした。


アデリナとは私が生家のローゼンハイム侯爵邸にいた頃から婚約が結ばれていた。妖艶な美しさを持つアデリナを婚約者に持つことを羨ましがられたが、あまり興味はなかった。どちらかと言えば兄フェリクスの妻であるアストリットのように素朴な美しさを持つ女性の方が好感が持てる。兄も自分も父が決めた婚約者と結婚した。父は侯爵と伯爵の2つの爵位を持っていた為、いずれ各々を継がせるに当たり相手には家格を求めたのだ。両親には厳しい教育を受けさせられたが、その分、年の離れた兄は優しかった。だから私も兄が大好きで敬愛した。


結婚し長男イザークが生まれると、アデリナは役目を終えたとばかりに夜会に勤しむ日々を送った。アデリナと同じイザークの漆黒の髪が気に入らないと育児は乳母に任せて全くしなかった。どうもローゼンハイムのブロンドヘアが好きだったようだ。イザークが私と同じ色の瞳を持つことは幸いだった。共通点があることでイザークに対して愛しい気持ちを持つことができた。だからこそアデリナがイザークの髪を気に入らないことが信じられなかった。


元々私の見目は兄と同じく美しかったが、父が亡くなり爵位を継ぐとストレスからか暴飲暴食するようになった。気がつけばだらしない肉体に変わっていった。アデリナはこれも気に入らなかったのだろう。ローゼンハイムの見目が好きだったアデリナは結婚前も後も私ではなく兄に色目を使っていた。敬愛する兄を困らせていることも許せずますますアデリナに嫌悪感を募らせた。

アデリナは裕福な伯爵家の令嬢だった。侯爵家を生家にもつ私のことをそれよりも裕福な生活を送らせてくれる相手だと思っていたのだろう。手当たり次第に散財していった。とにかく金が必要だった。

兄は真面目で堅実で勉学を好んだため文官になったのだが、私は次男でも爵位を継げることがわかっていたため努力をしなかった。手に職がなかった私は領地経営と事業への投資活動で生計を立てた。

そんなある時、兄夫婦が事故死した。ある領地の道の不備が修繕されず放置されていたのだ。悲しみと苛立ちから地主に慰謝料を請求したが通らなかった。日頃から資金集めばかりしている私の慰謝料請求というこの行動が甥と姪に不信感を与えてしまった。この時成人している姪は第三王子に嫁いでいた。甥はまだ13歳と若くして爵位を継いだため執務と領地経営をする毎日だった。でも私の伯爵領経営よりも立派に務めあげていた。私が出来ることは投資方法を指南することくらいだった。

離婚はそれから2年後のことだった。5歳の息子を残して出ていった。アデリナへの愛は全くない。この結婚生活で得たのは、金はあるに越したことないということだけだ。久しぶりに会った甥は領地経営もしっかりこなし、投資家として大成功していた。これは本人の資質と努力によるものなのだろうが、その当時の私は侯爵の地位にある恩恵の為だと思っていた。兄が亡くなり甥が継いだが、次の継承順は私であることに気がつき、いつからか甥の不幸を望むようになった。


◇◇◇


散財するものがいなくなったものの、経営の下手だった私は維持するだけで手一杯だった。投資で得た利益を次の投資に回すのだが失敗することも時々あった。


「金が欲しいな。新しい事業に投資する資金がない」


領地経営で得た資金は投資には使わなかった。投資はあくまでより裕福になるためで、投資により生活を脅かすことはしたくなかったからだ。


「あれから2年か…」


アデリナが出ていって2年。イザークの育児は乳母に任せきり。そして家庭教師を雇い貴族としての教育が始まった。イザークと食事は共にしているが心なしか表情は暗い。


(子供には母親が必要かな…)


とはいってもアデリナはイザークが生まれたときから母親らしいことはしていない。でも私は母の愛を覚えているなと思った。父は不器用だったから何かをしてもらった覚えがないが、その分母は寄り添い優しく抱き締めてくれていた。


(そうだ!後妻を迎えよう!)


私が望むものは大きく2つ。資金とイザークの母だ。この際歳を取っていても構わない。私にはイザークという嫡男がいる。離婚歴があっても病弱でも独身女性がいる裕福な貴族なら構わない。むしろ訳あり女性の方がこちらに有利だ。


そしてドーリス·ホフマン子爵令嬢にたどり着いた。


◇◇◇


「ドーリス嬢、…もう令嬢という歳でもないか…。君は私の妻となったが伯爵夫人としての社交もしなくて良い。夫人用の私費の範囲内であれば何をしてもらっても構わない。イザークの母を務めてくれれば私からは他に望むことはない」


「…かしこまりました」


輿入れの日に初めて本人に会ったが、病弱と聞いていただけあって透けるような青白い肌と細い体が印象的だった。そして常に柔らかい笑顔を浮かべ声も優しげで母性を感じる。アデリナとは真逆のタイプだ。イザークの母としては良い選択をしたかもしれない。


そしてもう1点、思っていた以上の額面の資金援助を受けることができた。これは子爵によってドーリスが生涯困らぬようにと貯めたものだからこの婚姻で譲って構わないという。少し後ろめたさが出たがありがたく使わせてもらうことにした。当初の希望額は投資に当て、余った資金はドーリスのために残しておくことにした。


(離縁することがあれば慰謝料もかかるし、もしかしたら医療費がかかるかもしれないしな)


とりあえずこの結婚で金銭的に潤った。


(意味は違うが後妻業もありだな…。妻が亡くなったり離縁したらまた同じ方法で後妻を迎えれば簡単に金が入る)


こんな考えが浮かんだことを隠すため、イザークの母として務めるよう念を押してしまった。彼女は初婚であるから妻として夫人として務めようと考えていたようだが、それは無くてもこの2年何も問題なかった。病弱な彼女に無理させる気もなかった。簡単に役割を説明し、彼女ともイザークと同じように可能な限り食事を共にすることになった。


イザークはすぐにドーリスに懐いた。ドーリスが発する穏やかな空気感は癒しを与える。


初めて朝食を共にした時は驚いた。私が席に着くまで食事をするのを待っていたのだ。先に食べていて構わないと伝えると、主が手をつけてから食べるのが礼儀であり食べさせてもらっている感謝を伝える意味もあるのだと彼女は言う。


イザークの家庭教師によると、ドーリスが見守っていると気合いが入るようで勉学の進みが良いとのことだった。ドーリスに気に入られたい、かっこいいところを見せたいと思っているのだろう。やはり母親は必要だと感じた。勉学が滞ると教育を切り上げ遊ばせるそうだ。ドーリス曰く、座学は成長してからでもいくらでも出来るが、子供の遊びは今しか出来ないとのことだった。そして遊びでは様々な経験をさせているようだ。虫取がよほど楽しかったのか、イザークは目を輝かせその体験談を自分に語ってくれた。息子の話に耳を傾けて聞くなんて初めて父親らしいことをしていると感じた。内容も遊びの中にも学びがあると感じられ、乳母ではなく貴族の一般教育を終えている女性の話も重要だとさえ思った。とはいえ彼女は静養時間が多く読書の時間が多かったと聞いた。やはりこれも勤勉な彼女のおかげだろう。


そして何より、晩餐では1日の私の労をねぎらう言葉とこの日1日を無事終えられることに対する感謝と養ってくれている私への感謝をしてくれるのだ。とても新鮮だった。不思議と明日も頑張ろうと思えた。



初めてドーリスが風邪をひいた。ただの風邪なのに3日寝込み1週間安静にした。侍女のイルザの話ではこれはまだ良い方で、1度風邪をひくと大抵1ヶ月くらいは調子を崩すという。体調を崩したら免疫力が弱まる為、出来るだけ部屋に隔離しドーリスへの接触者は体調の良い者を選び最低限にするという。他の病原菌に触れさせない為だ。この時は慣れているイルザにお願いした。イザークも私も1週間ドーリスに会えなかった。改めて彼女は病弱なのだと認識した。


ある日の朝、侍女らが騒いでいた。話を聞けば部屋にドーリスの姿がないという。寝ていた形跡もないと。


(出ていった?彼女に限ってそんなことはしないだろう。…まさか、どこかで倒れてる!?)


そんな心配を余所に、彼女はイザークの部屋で寝ていた。無事で良かった。しかし外遊びで風邪をひく彼女だ。昨日は冷えたから体調が心配だった。


「今度イザークが眠れないと言ったら、君の部屋に招待しなさい」


怖い夢を見たと一人で眠れなかったイザークに添い寝をしたという。狭いイザークのベッドより広いドーリスのベッドで寝ることを提案した。


「よろしいのですか?」


「良いも何も二人の為だ。といってもあと2、3年だけだぞ」


2、3年すればイザークは10歳を超える。それも添い寝の相手は血の繋がらない女性だ。男子であることを考えれば望ましくない。そしてこの時の私は気づかなかった。後妻で金を儲けようとしていたことをすっかり忘れていることに。2、3年と言わずもっと先までドーリスのいる生活を見据えていることに。



1年経つとイザークはドーリスを母上と呼ぶようになった。ドーリスが愛を持ってイザークに接してくれていることが良くわかる。イザークもよく笑うようになった。私が言うのもなんだが、イザークは美しい顔立ちをしている。笑顔が多くなった今はよりそう思うようになった。


そして彼女が来てから資産が増えるようになった。一番の要因は夫人用の私費が減らないのだ。もちろん貴族の責務は務めているようだ。最低限の買い物や寄付をしている。内訳を見ると明らかだった。交際費や宝飾品の支出がなく、衣装費でさえほとんど支出していなかった。ラーラの話では衣装はお直しをして着ており10着程を着回しているという。アデリナは月10着は購入していたし衣装も部屋に収まりきれない程持っていた。ドーリスが来てから良いことばかりだった。


◇◇◇


そんなある日、夜会に行くことになった。ドーリスの体調も良かったこともあり初めて帯同した。社交はしなくて良いと言ったがこの日は特別だった。甥のアレクシスも参加すると知ったのだ。この日の夜会は投資家が集まるものだった。アレクシスの近況がわかるし、ドーリスを紹介することが目的だった。


「やあ、アレクシス。立派になったな」


「これは叔父上。ご無沙汰しております…。横にいらっしゃるご婦人は?」


「昨年妻に迎えたのだ。ドーリスだ。ドーリス、こちらが甥のアレクシスだ。ローゼンハイム侯爵だ」


「侯爵様でいらっしゃいますのね。私はドーリス·バッハマン伯爵夫人です。お会いできて光栄です」


「伯爵夫人。こちらこそ光栄です。まさか再婚されていたとは知りませんでした」


「知らせてなくて悪かったな。イザークもすっかり懐いてな。母として慕っているよ。ところでアレクシスは婚約したのか?」


「はい。先日婚約したばかりなのですが、お相手はエルヴィーラ·アンデルス伯爵令嬢です。結婚する際には改めてご連絡致しますね」


「そうか…。アンデルス伯爵か。まあ悪くないだろう。とりあえずおめでとう」


(アンデルス伯爵は伯爵の中でも中流といったところか。まあ悪い噂はないから問題ないが。エルヴィーラ嬢か…。何事もないと良いが…。何となくアデリナと同じ匂いがするな)


「アレクシス様は旦那様と似ていらっしゃいましたね」


「アレクシスと?」


「ええ。目元が同じです。序でに言えば髪の色も」


「確かに色彩はローゼンハイムの血筋だな。しかし彼は私と違ってたいへん優秀だぞ。そこはやはり兄の息子だ」


短い時間だったが会えて良かった。アレクシスは兄によく似ていた。懐かしさが感慨深い。


◇◇◇


ドーリスはよく風邪をひく。その度に病弱は嘘ではなかったと認識させられる。帰宅が遅くなる日も必ず出迎えてくれる。風邪をひいたら大変だから先に休んでてくれと話すのだが、ねぎらいの言葉を伝えたいし主より先に休めないと言う。なかなか頑固だが、嬉しいと思う自分がいた。疲れて戻ったら彼女の笑顔が出迎えてくれる。ねぎらいの言葉よりも嬉しかった。



アレクシスが結婚した。式には親族として招待され甥のハレの舞台を見ることができた。ドーリスもイザークも美しいアレクシスの姿に大満足だった。そしてこれで侯爵家も安泰となるはずだった…、が、1ヶ月もしない内に離縁することになる。私の直感は正しかった、エルヴィーラ嬢は怪しいと。しかし私も意地が悪い。跡継ぎがいなければ侯爵は私そしてイザークが継ぐことになる。離婚歴は今後不利になることもある。少し心踊った。





そして最も恐ろしかった日がやってきたのだ。新しい事業の視察に出掛けていた時のことだった。隣国に出向いていたため数日邸を空けていた。視察先に使いが血相を変えてやってきた。ドーリスが重篤だという。事情を説明すると視察先の者もすぐに出発するよう促してくれた。また落ち着いたら視察させてもらうことを約束し帰宅した。


「ドーリスは!?」


帰って早々に執事に確認した。


「医師の話では肺炎だそうです。なんとか持ちこたえている状態で…」


「ホフマン子爵に連絡は?」


「旦那様の指示が出たら直ぐに知らせを出せる準備をしてあります」


「では直ぐに出してくれ」


「イザークは?」


「ずっと泣いておられて、先ほど泣きつかれて眠った所です」


「そうか…。湯浴みの用意は出来てるか?」


「はい。直ぐにでも入れます」


「では私は湯浴みをする。その後ドーリスの元へ行く」


清潔にし終えた所で、ドーリスの元へ向かった。ドーリスの息が荒かった。しかし荒いからこそ遠目にもまだ生きていると確認することが出来、安心した。


「本当はイザークに会わせてやりたいが…」


「頑張れ、ドーリス。今日はまだ君の笑顔を見ていない。いつものようにお疲れさまと言ってくれ」


結婚3年目にして初めて彼女の頬に触れた。青白い顔だ。初めて手を握った。とても細い指だった。



翌日ホフマン子爵夫妻と嫡男オスカーが駆けつけた。既に泣き腫らした目をしており、慣れた様子で手を洗っていた。客間で持参した清潔な衣装に手際よく着替えていた。夫人に至っては髪を一つに結い上げまとめており、化粧を施しておらず清潔な状態であった。


一目でわかる。彼女が家族に愛されて育ったことが。そしてこの家族だから彼女は日々感謝することを学ぶことが出来たのだと。


ドーリスは峠を越えることが出来、無事目覚めた。


「ドーリス…。良かった」


「旦那様、視察に行ってらしたのに申し訳ございません。ご迷惑をおかけしました」


「…」


(はあ。視察なんてどうでも良いよ。迷惑なんかじゃない。良かった…。また彼女の綺麗なアンバーの瞳が見れて。良かった…。また彼女の優しい声が聞けて)


「ゆっくり休みなさい」


こんなに生きた心地のしない出来事はなかった。そして私の中で彼女のいる日常がどれだけ大きく影響しているのかを知った。


「バッハマン伯爵様、この度はご連絡くださりありがとうございました。本来でしたら貴方がお側にいるべきでしたのに、私達にドーリスの付き添いをさせていただけたこと感謝します」


「いえ、こちらこそ。私が共に過ごした年数よりホフマン子爵らが過ごした年数の方が遥かに多いですから。どれだけ大切に愛を持って育てていらしたのか実感させられました。私の方こそ、改めて、彼女を私の元に嫁がせてくれたこと感謝します」



彼女が日々感謝をする理由がわかった。いつ何が起こるかわからない。彼女は風邪でも明日死ぬかもしれないという事態になる。1日1日が大切でありその日が無事過ごせたことは、衣食住が確保され、自分に尽くしてくれた者がいるからでこれは当たり前のことではないと理解しているからだ。給金を与え仕えてくれてる使用人らにも感謝する。でもそれは人として当たり前のことなのかもしれない。今私がバッハマン伯爵の爵位を持ち生活できているのは、私が偉いからではない。私の父が2つの爵位を授かっていたから次男である私も爵位を持つことが出来たのだ。伯爵位でも十分じゃないか。広い領地に後を継ぐ嫡男もいる。優しい妻に忠実に仕えてくれる使用人らもいる。これはものすごく幸せなことなんじゃないか?



◇◇◇


「!ドーリス。もう体調は大丈夫なのか!?」


珍しく執務室を訪れたドーリスに驚いた。


「はい。大丈夫です。すっかり良くなりましたよ。ご心配おかけしました。イザーク様もビックリしたことでしょうね」


「本当に、良かったよ。君は自分が病弱であることを自覚してくれ。無理はして欲しくない。子爵邸にいた頃よりずいぶん無理をしていたのではないか?」


「無理をしている自覚はありませんでした。ただ、自分を大切にすることが皆さんの安心に繋がるということを身に染みました。これからは自愛します」


「わかってくれたようで良かったよ。それで?ここへは何しに?」


「うふふ。私、生死を彷徨って思いましたの。貴方をこのまま残して逝けないと」


「え?」


「だって旦那様は不器用なんですもの。今まで私に伯爵夫人としての務めは望まないと仰ってましたが、私は伊達に部屋に閉じ籠ってませんのよ?質素で倹約によって潤沢になった子爵家の娘の能力を甘く見ないでくださいませ」


「ん?能力?」


「うふふ。このお部屋ずいぶんと散らかってらっしゃいますね。これではお仕事も捗りませんわ。ホフマンでは執務のお手伝いもしてましたのよ。私にもお手伝いさせてくれませんか?」


「君は…、まるでノウハウを伝授したら心残りもないような言い方だったが…、聞いてたかね?無理をして欲しくないと。君も自愛すると言ったじゃないか」


「はい。ですから執務のお手伝いをするだけですわ。事務処理でしたら無理なくできると思いますの。イザークとの遊びもそろそろおしまいですし、今度は…ハンス様との時間を大切にしたいのですが…、駄目ですか?」


突如名前で呼ばれたことに驚いた。彼女のことが特別だと意識した今では自分の名前がとても甘く響いた。


「駄目じゃないよ…ドーリス。私は今回のことで君を失いたくないと思った…。だから、無理をして欲しくないんだ。長く生きてくれ」


「もちろんです。私は病弱で体調を崩しやすいですが、生命力は強いのですよ。今ではもう33歳ですわ。想像もしてませんでした、誰かと家庭を築きこの歳まで生きるなんて」


「33なんてまだまだ若いよ。これからまだまだやることはある。イザークのデビュタントまであと5年だ。結婚式を見届けるならもっと先まであるし、孫にも会わないと。ホフマン子爵夫妻が君と過ごした年月よりも長く一緒に過ごしたい。それを考えたら60までは生きないとな」


「ハンス様…。私を娶ってくださったのが貴方で良かった」


「私こそ。君を娶って良かった」




◇◇◇


ドーリスの働きは凄かった。無駄をどんどん見直していった。


「これは凄いな。なぜ?どこにこんなに資産が隠れていたのだ?」


「豊かな領地に領民、使用人も優秀ですし、宝の山ですわ。領地外に資金が流れていたのがもったいないですわね。それに新しくしなくていいものを新しくしたり、用意しすぎて余っているものもあります。むしろ結局使わなかったものまであります。もっときちんと見積りをお立てにならないと。算段が甘いですわ」


「うむ、…厳しい」


「良いですか?資金は有限なのですよ。無限に沸いてくるものではないのです。簡単に手に入ることはないのです。大切に使ってください。しばらくは出資を中断ですね」


「うむむ」


「良かれと手をつけたのでしょうが、技術も才能も必要ですわ。ただ楽して稼ぎたかっただけでしょう?勉強不足!資産運用は貴方には向いてません」


「うむむむ」


「それで?次は何に注目していらしたのですか?」


「ああ、それは醸造事業でな、隣国で作られてるビールというものなんだが…」


「美味しかったのですか?」


「ああ。私は気に入って…」


「面白そうですね、醸造事業」


「そうか?…今度、君が体調の良い頃に視察に一緒に行くかい?」


「はい!ぜひ」


こうして醸造事業を出資で支援するのではなく、我が領に取り入れることになるのであった。



イザークはドーリスの影響か勤勉で、思いやりのある優しい青年に成長した。ローゼンハイムの血筋であるため背が高く、エメラルドのような緑の瞳は美しく漆黒の髪がミステリアスで、令嬢らの注目を浴びたのだ。デビュタント以降社交では多くの令嬢に囲まれ、釣書も途切れることなく届いた。


「はあ。父上はどのように乗り切ったのですか?」


「何をだ?私の何を見てそう思う?」


「…。父上はいつから巨漢なのです?」


「ずいぶん直接的な表現だな。爵位を継いでからだ。それ以前はそうだな、アレクシスの様だったとでも言おうか」


「それはまた極端に美しすぎませんか?」


「何を言う。まあ、私のデビュタントの時には婚約していたからな。それに私は次男だ。父は伯爵位を持つことを公にしていなかったから端から見ればただの庶子だ。ただ美しいだけでは言い寄られないのが貴族なのだよ」


「人気が集まるのは、理由があるということなのですね」


「そうだな。お前は有望株の筆頭であろう。公爵や侯爵では手が届きにくいが、比較的裕福な伯爵家の嫡男だ。変な女には捕まるなよ」


「…善処します」


◇◇◇


40歳を越えたあたりから、私は足を痛めることが多くなった。ドーリスも食が細くなり少し体力が落ちたように思う。


時が経ち、醸造事業が漸く軌道に乗った。満を持してある人物を訪ねることにした。


(もう30歳を迎えるはずだ。あんな異名をつけられて…。そろそろ嫁さんを迎えないと跡継ぎがいないじゃないか…)


その人物は、甥のアレクシス·ローゼンハイム侯爵だ。やはりあのエルヴィーラ嬢は曲者だった。離縁後夜会に現れてはアレクシスのことを呪われていると触れ回った。いつからかアレクシスは『呪われた侯爵』と呼ばれるようになり、令嬢が近づくことはなくなった。これなら跡継ぎが生まれないなと嘲笑ったのは一瞬だけだった。私はもう侯爵になりたいとは思っていない。この伯爵領を守れれば良い。そして兄の息子、つまりは自分と血の繋がる甥であるアレクシスの幸せを願った。


(社交には姿を見せなくなってしまいしばらく会っていない。呪われてると勘違いされたのは体にある大きな痣のことだろう。あんなのただ見た目の問題なだけだ。エルヴィーラはアデリナと同じ種類の人間だったということだ)


投資家として成功しているアレクシスに事業への出資を依頼するという名目でアレクシスの様子を窺いに侯爵邸に突撃した。


「ん?」


なんとアレクシスの指に光るものがあるではないか。


「アレクシス!その指輪は何だ!?婚約?いや、結婚したのか!?」


話を聞くと、つい最近伯爵家の令嬢を娶ったという。少々訳ありなようだったが、自分の再婚だって堂々と語れるものではない。お会いした夫人はアレクシスよりも10歳年下の愛らしい女性だった。互いに想い合っているのが見受けられ安心した。ビールの投資の話も出来たし、美味しい料理と美味しい酒も飲めて大満足で帰ろうとしたら、こんな時に限って足が痛みだした。


「っだ~~~!!!」


そこからのことは痛みであまり覚えておらず、夫人からいろいろ助言をいただいたのだが、侯爵邸執事のモーリッツが丁寧に書き起こしてくれたため持ち帰り助言を確認することが出来た。私は痛風という病を患っているらしい。簡潔に言えば食事を気をつけて肥満を解消するようにということだった。そして夫人にかけられた言葉を思い出す。


「ローゼンハイムの血筋は美しいのでしょう?伯爵様もお痩せになればとても素敵な紳士なのでしょうね。私拝見したいですわ。アレクシス様の大切な数少ないご親戚ですもの。ご自愛くださいませ、叔父様」


努力を好まなかった自分を恨んだ。怠惰な体が悲鳴をあげているのだ。このままではドーリスよりも先に私が旅立つことになりかねない。それだけは避けたい。それにアレクシスと楽しいひとときが過ごせた。嬉しかった。夫人の言うとおり血の繋がる数少ない親戚だ。大切にしたい。


その日から食事と運動療法に取り組んだ。


イザークとドーリスはそれはそれは驚いた。今まで好きなものだけを暴飲暴食していたのに苦手な野菜を口にし、酒を控えているのだから。ドーリスは私を変えた侯爵夫人に会いたいと言い出した。彼女がお願いをすることはほとんどない。私も会わせたいと思った。夫人は素敵な女性であったしその夫人にも会わせたいと思った、自慢の妻を。


私が主催の夜会を開くことにした。投資家を集めてビールを披露するのだ。ワインやウイスキーが主流の我が国に新しい酒造りを。この美味しく出来たビールを知って欲しい。


夜会当日、アレクシスとドーリスは久しぶりの再開に話を弾ませたようだった。侯爵夫人マリアンネ様の愛らしさにドーリスも虜になっているようだった。子供は息子だけだったから、娘も欲しかっただろうなと思った。イザークの方へ目を向けると案の定令嬢に囲まれている。あの中から候補を探すのは大変だ。イザークも合流すると更に話は盛り上がった。マリアンネ様はアレクシスの10歳下ということはイザークと同い年だ。イザークは頬を染めているように見えるがあのような女性がタイプか。ローゼンハイムの血筋は素朴で愛らしい女性がタイプなのだ。理解できる。


しばらくして参加してくれた投資家らと話をしていると、ホールがざわめき出した。何事かと目を向けるとそこには壁の花になっているマリアンネ様に一人の女が口撃により噛みついている。アレクシスの前妻エルヴィーラだった。アレクシスを呪われた侯爵だと知ってるのかだのこんな幼妻が趣味なのかだの未だにアレクシスのことを貶している。そればかりかマリアンネ様の出自にまで噛みつき始めた。相手にしていなかったマリアンネ様も反撃を開始した。マリアンネ様は侯爵夫人でエルヴィーラは再婚し子爵夫人だ。身分上口撃するなどもっての他なのだ。ここは私が主催の夜会だ。断罪するならここしかない。耐えて静観しているアレクシスに近づいた。


「行くぞ、アレクシス」


「!?叔父上…、はい!」


この後は招待していたエルヴィーラの父であるアンデルス伯爵とここにはいないが現夫クレバー子爵に、エルヴィーラの一連の不敬と侮辱の罪と、娘及び夫人の監督不行届についてを罪に問わせてもらうことにした。


やっと懲らしめることができた。アレクシスを苦しめたあの女を。


「叔父上、お騒がせしました」


「いや、やっと異名に異議が唱えられて良かったよ」


アレクシスの私を見る目が優しかった。きっと私の目も同じなんだろう。

そろそろ帰るというアレクシスたちと別れの挨拶をしているとドーリスがよろけた。アレクシスとイザークが支えて控え室へと連れていった。私は主催者だったこともあり一段落するまで来賓の対応にあたった。


「ドーリス!体調は大丈夫か!?」


駆けつけるとみんなの雰囲気が柔らかい。


「あなた。ええ、大丈夫ですよ。私も侯爵夫人に助言いただきました」


「なんと!?夫人には世話になってばかりで、ほんとに何て言ったら良いのか…」


後から事情を聞いたところ、ドーリスは慢性的な栄養不足により貧血だった。マリアンネ様の指示で応急処置を施したそうで少し楽になったようだ。改めて私の時と同様に助言をいただくことになった。


この日を境に、アレクシスとは親子に近い関係になり、親睦を深めることになった。ドーリスとマリアンネ様のおかげだ。

マリアンネ様がお辛い時にはドーリスが寄り添ってあげられた。娘ができたようで嬉しそうだった。


◇◇◇


3年の歳月が流れた。

ドーリスは相変わらず病弱だが、助言のおかげで顔色が良くなり体力も少し回復した。そして16年も自分の妻としてあり続けている。


イザークは結婚した。お相手は田舎の伯爵令嬢だ。とてもおおらかな性格で朗らかだ。見目は素朴で愛らしい。イザークには相手を自分で決めさせた。親が決めるのも良いのだが、良くも悪くも自分で決めたとあれば納得できることもある。




「叔父上、これでひと安心ですね」


この日は結婚式列席への礼と出産祝いを兼ねて侯爵邸に出向いていた。


「ああ。あとは孫に会えるのを待つばかりだな。アレクシスもおめでとう。直系男子が生まれたからな、なによりだ」


アレクシスの第1子は女児だった。今回は待望の男児が生まれたのだ。


「そういえば、姉上が今度叔父上に会いたいそうです。身内でパーティーでもしましょうか?」


「コルネリア様が私に?」


姪であるコルネリアは4年前に臣籍降下し公爵夫人となった。さすがに王族に嫁いだ姪には簡単に会うことはなかった。


「はい。実はマリアンネが叔父上を熱狂的に支持してまして…。姉上に熱く雄弁に魅力を語っているのです。なんでも『イケオジを崇める会』なるものを掲げてまして」


両家の仲が深まるとマリアンネ様がこっそりと教えてくれた。彼女は異世界にいた前世の記憶持ちだったのだ。彼女が栄養学の知識に富むのはこの為だった。だからか時々訳のわからない言葉が飛び出す。


「何だ?それは…」


「痩せて見目麗しくなった叔父上を観賞するのだそうです」


痛風予防の為の食事と運動療法を続けた結果、かつての美しかった頃に近づいた。近づいたというのも歳を重ねている分、完全に同じというわけにはいかなかった。


「はははっ、何だそれは。イケオジ?」


「イケてるオジさんだそうです。外見も内面も魅力を兼ね備えた中年男性のことなんだそうですよ。マリアンネ曰く、叔父上の笑った時の目尻のシワとうっすら浮かぶエクボに色気を感じるそうです」


「本当にそんなことを言っているのか?」


「はい。姉上にそのように語ってました。姉上はまるで父上のようだと思ったそうで、お会いして見てみたいのだそうですよ。確かに、今の叔父上は父上にそっくりです」


「そうか?兄上が亡くなった歳より歳を取ってしまったがな」


「ええ。ですから、父上が生きて歳を重ねていたらこんな感じだっただろうなと」


「私からしたら、アレクシスこそ兄上に似てきたと思っている。あの頃の兄上にそっくりだ」


つまり二人とも互いに似ているのだ。


「それにしても笑いジワだなんて…。ドーリス様と結婚されてから笑顔が増えましたからね。楽しそうな笑い声も増えました」


「え?」


「お気づきではなかったですか?叔父上は昔はいつも難しい顔をされてましたよ。眉間にシワが寄ってましたから」


「…そうか。ドーリスに感謝だな」


遠くではドーリスが赤子を抱かせてもらっていた。ドーリスもマリアンネ様も良い笑顔だ。



◇◇◇


この日はとあるパーティーに参加していた。社交ではできる限り傍らにドーリスを携えた。体調不良でドーリスの帯同を見合わせた時、婦人や令嬢に囲まれて大変だったからだ。


(まさかこの歳でアレクシスやイザークの苦労を知るとは…)


今も女性の視線が痛い。ドーリスも不快な思いをしていないか心配だ。少しばかり伯爵夫人として社交も務めてもらうようになり、顔見知りも増えたようで婦人らと雑談を始めた。ドーリスと離れると一人の婦人が近づいてきた。


「こんなに素敵な殿方がいらっしゃるなんて、今日の出会いに感謝ですわ」


香水の香りに吐き気がする。ドレスの色も口紅の色も若作りに見える。厚化粧の中に見えるほうれい線が痛々しかった。漆黒の髪には白髪が混じっている。


(この女はまだ自分が妖艶であるとでも思っているのか…)


「ああ。出会えて良かったよ、アデリナ」


「あら!私をご存知ですの!?」


呼ばれた名前に顔を輝かせたのが見えた。勘違いも甚だしい。


「ああ、君に伝えたいことがあったからな。イザークを産んでくれたことだけは君に感謝する」


「!?まさか…、ハンス!?」





イザークはアデリナと結婚したから産まれた。

アデリナとの婚約は父が結んだからだ。

そもそも私が産まれたのは父と母が出会ったからだ。



ああ、本当に、日々感謝だな。



ありがとう、父上、母上。

私は今、最愛の人ドーリスと共にとても幸せな日々を過ごしています。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


いかがでしたでしょうか。


作者は優しい雰囲気の作品を好むため、基本悪い人は出てきません。ハンスも長編ではもう少し悪い人だったのですが、悪人になりきれませんでした。難しいです。長編を制作するにあたりしっかり人物像を練ったため、この夫婦の物語も披露する運びとなりました。お楽しみいただけたら幸いです。


作者のモチベーションに繋がりますので、評価いただけると嬉しいです。


より良い作品が生み出せるよう努めていきたいと思います。

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[一言] 何だろう。 病弱さにハラハラしつつも、するすると読めました。 ドーリスを中心に優しさがあふれてます(^^)
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