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生首の同居人

作者: さすらひ

 生首に美醜があるとしたら、これは美しい生首だ。自ら生首になってやったぞという凛とした気概に

あふれている。


 こんな雰囲気の男なら、四六時中頭上から見下ろされるのも悪くない。


 普通サイズの生首では一般的な亡霊と区別がつかない。


私は呪っているのです、ただ死んだのとは違いますよ、と念入りに駄目押しするかの如く平均的な生首の六割増しの大きさだった。 


 慣れてしまえば怖くはなかった。


だが、作業に熱中するあまりその存在を忘れてしまい、何気なく天井を見上げるや、ぎくりとすることが多々あった。


 生首に悪気はない。ただ見下ろしているだけだ。


若葉が迂闊なだけである。


グロテスクな巨大風船を天井近くに浮かべたまますっかり忘れて昼寝して、目を覚ますと出くわした気分。


  その状態に慣れるまで二週間かかった。

 

  生首は出現してから一時たりとも消えることなくこちらの顔を見つめている。


 二十四時間監視されているようで初めのうちは落ち着かなかった。


 けれども、ただ見下ろしているだけで、一切物を言わずこちらに干渉しなかった。


  それが分かると、一気に心が軽くなった。

 

  孤独こそ自由な遊び。人の気配を窺うのは束縛と同じ拷問だ。

 

  太助が生きていた頃は監視されて当たり前の生活をしていた。


  太助を殺して自由を得た後、人に合わせて行動するのがつくづく苦手になってしまった。

 

  生まれつき変人レベルの人嫌い。


  友達がほしいと思ったことはない。


幼い頃は誰もいない公園を自由に駆け回るのが大好きだった。


他の幼児がやってくると、こっそり場所を移動した。

 

この世界が嫌いなわけではない。


世界にたかって蛆のように増え続ける人間共が嫌いなだけだ。


人間以外の動物を見るや、ほうっと心が和らいだ。特に柔らかい毛に包まれた哺乳類には癒される。

 

 仕事柄ストレスが溜まっているのかもしれない。


だからといって、仕事が嫌なわけではない。


生きるためには稼ぎがいるから、物心つく頃から天職に巡り合えたのを若葉は幸運だと思っている。

 

生首は悟という名だと若葉は思う。呪いの主が生首と化したと思うから。

 

呪いは悟がかけたものだと百合から聞いた。

 

 悟は常に同じ表情を浮かべていた。


吊り上がった大きな瞳は怒りに震えているようにも涙をこらえているようにも見えた。


見る角度によって表情の意味合いが異なるのが、舞台でさまざまな感情を湛える能面のようで趣があった。

 

 生前百合が「髪の毛一本たりとも関わりたくない」と唾棄していたから身の毛もよだつ不細工なのかと思いきや、案外整った顔立ちだ。


若葉は異性に関心が薄く同性の友達もいないので、悟の容姿に対して客観的に評価できない。


それでもこの男が自信家なのは確かだった。


並外れた美貌の百合に積極的に近付いたのだ。外見は並以上のはずだと思った。

 

 百合ほどの女になると、恋人に対する要求も高くなるのだろう。


イケメンなのは当たり前。そのうえで稼ぎが多くて性格が良く・・・悟は呪い屋なので、若葉たちに比べて実入りが良かった。


普通の女なら充分満足できる額だろう。百合は男に対する要求がやたらと高そうだから不満だったのかもしれない。


 悟の性格については決して良いとは言えなかった。


無理やり恋情を押し通し自分のものにするために百合に呪いをかけたのだから。


結果、悟の思い通りになった。


まあ漁夫の利を得たのは若葉であるが。

 

不遜で粘着質なナルシスト。自分の思い通りに駒が進まないと気に食わない。


過度の執着心と自信は一体どこから生まれるのか? 


そう思いつつ悟を嫌いにはなれなかった。


同じ女を好きになったという共通点があるだけではない。


悟は思い切りがよく度胸があった。

 

 若葉は自分を相手にぶつける自信がなかった。


たとえ百合が若葉の恋心に気が付いて両想いになるチャンスがあっても、貧相な自分自身を彼女に晒す気にはなれない。


束の間の恋の火花を散らすより、いつまでも胸をときめかせる片思いをしていたかった。

 

 若葉は恋愛に幻想を抱かない。


自分というものに一ミリたりとも甘い期待を抱かなかった。


自分ごときが格上の麗しき相手をひとときでも独占しようなんて恐れ多い。


そんな強欲な考え方をしていれば、破滅に至るに違いない。

 

実直に細々と生き続けて、誰にも知られずに死にたかった。


いつまでも清々しく孤独でいたかった。

 

生まれつき家族がおらず、友もない。


天涯孤独の身の上だ。犀のように脇目も振らずに深々と孤高に突き進む。そんな生き方が誇らしかった。

 

 命が尽きるまで誰もいない黄昏の中で過ごそうと決意していた。


それが神から授けられた生き方だと信じていた。


太助を殺す試練を果たし、穏やかな日常を手に入れた。


それだけで十分すぎるほど幸せだった。


外界から異物を持ち込まれれば、安寧の世界が揺らいでしまう。


糊口をしのぐ生活費さえ得られれば、世界は自分だけで十分だった。

 

 


なのに、なのに、ひょんなことから巨大生首と同棲するはめに陥るとは。

 

幸いにも悟は一言も発しなかった。


物言わぬ同居人は日々の平和を崩壊させる危険はない。


常に頭上にぶらさがり、こちらを見つめる眼差しさえ気にしなければ、存在しないも同然だった。


ただし、完全に忘れ去ってしまうには存在感がありすぎて目障りといえる大きさだった。


勝手に消滅してくれないかと願った日々もあったけれど、一向に消えそうもないと観念してからは百合の遺産の一部として引き受ける気持ちになっている。

 

 始末屋は命懸けの仕事なので、報酬を一切得られずとも、生き延びれば成功だと若葉は思う。


百合の始末は成功だった。成功も成功、大成功だ。


百合が残した財産まで手に入れた。男の呪いつきだったが。

 

 若葉は真相を隠して死んでいった百合に文句を言いたかった。


自分に全てを託してくれたと信じていたのに。


百合は最後まで隠し事をしていた。


悟から見つめられる呪いなのだと百合は言った。


巨大生首とは言ってなかった。

 

百合から呪いを引き受けた時点で呪いの性質が異なったのか。


百合のときは通常サイズの悟が現れて、若葉に呪いがかかってからは巨大な生首に変化したのか。


あるいは百合があまりにも悟を嫌いすぎて、生首であろうとなかろうとどうでもよかったのか。

 

 これは聞いていないよ。そう思ったものの、百合を恨む気は毛頭なかった。

 

百合は若葉にとって最初の友人だった。


憧れと淡い恋心を抱いていたから初恋の相手と言えなくもない。


誰かに特別な感情を抱くのは生まれて初めての経験だった。

 

 若葉と深く関わった人間はそれまで太助しかいない。


太助と若葉の間には暴力的で重苦しいエネルギーしか存在せず、百合にとって人間関係とは苦痛や不快感に取り巻かれた窒息しそうなものだった。

 

この地上に人が存在する限り、生きるために人との付き合いは免れない。


苦しみを最小限にとどめるため、若葉は仕事以外の人付き合いを極力避けた。

  

始末屋の仕事は若葉にはうってつけだった。


依頼の場所や内容によって仕事の世話役は異なるから、同じ場所に居続けぬ限り、顔なじみになる懸念はなかった。


世話役と面会する際はその都度髪型や髪の色を変え、マスクやサングラスをしているから顔が割れる心配はない。


若葉は幼い頃から太助を通して仕事のやり方を見ているから、世話役が出没する場所や面会につながる合言葉を知っており、ほかの仕事より馴染みがあった。


太助に拾われて育てられた時点で裏社会の住人だった。

 

 




太助は若い頃始末屋として荒稼ぎして派手な生活をしていたが、仕事中の怪我が原因で片足の自由を奪われ引退した。


それ以来山奥の底値で売っていた別荘に引きこもり、蓄えで余生を過ごしていた。

 

周りを林に囲まれて隣家まで車で移動するような山奥で子育てをする早期退職者を装うために、捨て子ブローカーから若葉を買い、年老いた父親を演じた。


妻を亡くし、傷心を癒しながら自然の中で子育てをする初老の男性像は世間を安心させるのに都合が良かった。

 

太助は心を潤すために養父になったわけではない。


貯金が尽きてしまう前に自分の代わりに稼げる人手がほしかっただけだ。

 

 太助の指導は厳しかった。


遊ぶものといえば、絵本とそろばん。


早く仕事を始めるためには少なくとも小学生並みの知能指数と読み書きそろばんができる必要がある。


若葉は痛い思いをしないためにがんばった。


子犬も粗相をすれば、失敗を学ぶまで怒られる。人間の子供にも体罰はある程度有効だった。


五歳の頃には、ひらがな、カタカナだけでなく小学校三年生までの漢字と足し算引き算、九九の暗算ができるようになった。


太助が勉強の指導にかかりきりで日常の世話を疎かにしたため、若葉は二歳半の頃から自分でお茶碗に米を盛って食べていた。

 

 タコ殴りにされる若葉を助けに近隣の住人が現れることはなかった。


この付近の別荘は地元の業者が個別に山の傾斜を開拓して造っているため、一つ一つの建物が樹林に囲まれて孤立しており、隣家まで一キロメートル以上離れていた。


日常の移動はそれぞれ車で行って、山を下りた町中にあるショッピングモールや地元のスーパーに買い出しに行く。


町内会はなく、別荘地の住人同士の義務的な付き合いはない。


近隣の住人と出会うのは共同スペースを利用してごみ捨てをする際ぐらいだ。


バブル崩壊後空き家が多いためか、利用者がとても少なくてゴミ捨て場の広さがやけに目立った。

 

 太助の家は県道から一本入り込んだ畔道にあり、車の往来がほとんどない。


自宅周辺でウォーキングや犬の散歩を見かけることは稀だった。


たまたま近くを通った人が若葉の泣き声や悲鳴を聞いても、通りすがりの出来事として関わらずに去ってしまう。


毎日通って虐待を確認しているならともかく、ただの親子喧嘩かしつけの一環として片付けられてしまうのだろう。

 

太助は場所柄を隠れ蓑に都合よく若葉を育ててくれた。

 

 

六歳で初めて仕事をした。公園でターゲットの男性に声をかけた。

 

「めずらしい木の実をひろったの、見て」

 

若葉は手のひらを開いて、あらかじめ色を塗っていたドングリの実を見せた。

 

「どれどれ」

 

ターゲットの男性が若葉のほうに身を屈めた。

 

若葉の父親を装った太助がすかさずその背後に回り、首の後ろを引き裂いた。

 

 五年後には役割を交代した。


好々爺として振る舞う太助が標的に声をかけ、背が伸びた若葉が急所を狙って止めを刺した。

 

親子で行う始末屋コンビは最初の数年はうまくいった。


太助の指導が穏やかで若葉が従順なタイプであれば、その後もうまくいったかもしれない。

 

 若葉は四六時中太助と生活するのにうんざりしていた。


普通なら学校に行く年頃なのに、強欲で冷淡な太助に四六時中監視されてどやされながらサウンドバックみたいに扱われる。


殺したくなるのも無理はなかった。


一番近くにいる若葉を太助が警戒しなかったのが不思議だった。


夜になると、太助は若葉のそばで腹を出して鼾をかいており、無防備に「殺してくれ」と叫んでいるも同然だった。


若葉なら、人前でうかつに眠らないし、ましてや他人と同居しない。

 

 熟睡する人間を殺すのは簡単だった。その後の死体処理のほうが手間取った。

 

太助という目の上のたんこぶを始末しても、また新たな苦しみや悲しみがやってきて、人生の不条理と艱難辛苦からは完全に逃れられないのは分かっていた。


それでも尚若葉は生きたいと願っていた。

 

 もともとは捨て子として闇ブローカーに命を握られた存在だった。


太助に買われて十数年間生き延びただけでも大したものだ。


毎日毎日命令されて上手くできなければ暴行を受け、楽しいことや心躍ることなど一つもない。


そんな人生を見限らず、まだ生きたいと思うのか。


生まれつき肉親はおらず、頼りにできる大人もいない。


世間全体がうごめく敵のように見えて仕方がない。


それでも、若葉は新しい翼を得て、もっともっと生きたいと願った。

 

どうせ死ぬはずの命だった。いつ死んでも同じこと。


だから、死ぬ気で挑んでやろう。殺されるまで、あるいはばったり死に倒れるまで若葉は這いつくばってでも生きようと思った。

 

裏稼業の人々は金銭を基準に生きている。


若葉は生まれたときからその世界の住人だから、表の世界の人々が何を基準に生きているのか分からない。


馴染みは裏社会であった。

 

太助の代わりに仕事をしよう。


裏社会の人々は道徳より金銭を基準に思考するから、太助の生存の有無にかかわらず、一貫して利益をもたらしてくれる人間を求めている。


 裏社会が望む人間に自分はなろう。どうせ死んでいた命と思えば、今更怖いものがあるはずがなかった。

 

 身長は百五十六センチ。化粧をすれば大人に見えないこともない。

 

 死体を埋めた場所に居続けるのは危険が高い。始末屋たるもの、リスクは最小限にとどめなければ。


 太助が残した貯金をありったけバックに詰め込んで、若葉は思い出の別荘地を後にした。

 

 

 

 



 百合は剣士としての凄腕と華やかな外見からは想像しえぬ生真面目で繊細な性格だった。


常に嫉妬や羨望が浴びせられる自分の立場に疲れてしまい、社会の大部分を占めている善良で穏やかな人の中でひっそりと暮らしていけたらと願わずにはいられなかった。


 けれども、代々護国軍の団長を務める家柄と持って生まれた美貌のためにどうしても注目を集めてしまう。


 美人には二種類あった。同性に好かれる美人と同性から反感を買う美人。百合は生まれつき後者であった。


小学校の教室に黙って座っているだけで、クラスメートの女子たちから「軍団長の娘だからって自分を特別だと思っている」「美人だからお高くとまっている」と陰口を叩かれてしまう。

 

だからと言って、周囲に絶えず気を遣って一日中笑顔でいると、「良い人アピールがウザすぎる」「卑屈な美人は勘違いブスより痛い」と尚更反感を招いてしまうのだった。

 

百合には兄弟姉妹がおらず一人で遊ぶのに慣れていた。友達はできなくても構わなかった。


しかし、周りの目を気にしすぎる性格ゆえ「一人ぼっちで友達のいない可哀そうな子」と憐憫と侮蔑の籠った眼差しを向けられるのは耐え難かった。


学校内で百合の評判が悪ければ、街の名士として尊敬される父の評判に傷がつく。

 

女子の反感を買わずに上手く友達になるために百合は四苦八苦した。

 

あまり女の子らしく振舞うとあらぬ噂を立てられてしまうので、学校ではわざとがさつに男の子っぽく振舞った。


できるだけ女の子っぽさを遠ざけようと男の子みたいな服装を好み、女の子特有の内緒話やマウンティングを避けるため校内の休み時間は男子と泥だらけになって遊び続けた。

 

「百合は男子とばかり夢中で遊んで、やっぱり男好きなのね」という陰口をできるだけ減らすために男子ならではの取っ組み合いにも積極的に参加した。

 

身も心も男の子になりきって過ごせば、女子から悪意の矛先を向けられずに済むと思った。


 百合の父は自分の後を継ぐ男の子を欲していたので、いっそ男になってしまえば家族円満で楽だった。

 

 神経の細やかな百合にとって毎日の集団生活は苦行に等しい。

 

 父親譲りの真面目で我慢強い性格ゆえ不登校という選択肢は思いつかない。


 小学校六年間の通学は国民としての義務だと思った。

 

 護国軍の団長である父から課せられる日々の稽古は大の男も悲鳴を上げる極めて過酷な内容だが、容赦のない厳しさが百合の心身を救ってくれた。


 学校生活が苦痛でも放課後の厳しくも充実した訓練が自分を鍛えてくれると思えば、自然と脳からドーパミンが放出されて意欲と自信がみなぎった。


 剣士としての苛烈な特訓の過程を思えば、学校生活の苦痛なぞ鼓膜が破れた程度であった。

 

 父と共に行う鍛錬が百合の明日への希望だった。


 心身共に少しずつ強く逞しくなれば、もっと気楽に集団に馴染む精神の持ち主になれるだろう。

 

 将来は父のように国民から尊敬される立派な剣士になりたかった。露骨に敵意を向けられてあらぬ噂を立てられぬ、無条件に敬愛される存在になりたい。

 

 週三十時間に及ぶ特訓は、学校生活で蓄積された悲しみや憤りの感情を払拭するのにふさわしかった。

 

 放課後は稽古に打ち込み汗を流して、心身を浄化して健全にした。


 二十分以上継続して有酸素運動を行うと、幸せホルモンと呼ばれるセロトニンの放出量が上がるので、生に対する感謝が増し、心が希望に輝いてくる。

 

 百合は父譲りの反射神経と運動能力を持っていた。くわえてランニングや遠泳を習慣的に行っていたので、学校のクラスで断トツの持久力を誇っていた。


 学年が上がるにつれて百合の才能は際立ってきて、小学校を卒業する頃には「さすが軍団長の娘」として尊敬される存在となった。


 学校でようやく居場所を見つけた百合はますます特訓に精を出し、父親に昔の決断を後悔させるまでになった。

 

 父は赤ん坊の百合を一目見て、自分と同じ生傷の絶えない職業につかせるのを躊躇った。


 この美貌を損なうことなく大切に育て上げ、名門の家柄に嫁がせて、亡くなった母親と同じく社交界の華にしよう。


 それが娘の幸せだと思った。

 

 最年少で軍団長になった男だけに、父の決断力は優れていた。


 百合が一歳を迎える頃には自分の跡取りを当時八歳だった甥に決め、血判の後一子相伝の修練を開始した。


 甥っ子は物覚えが早く利発であり、運動能力も優れていた。


 剣士としての鍛錬は開始年齢が早いほど身体に馴染み、潜在的な力を開花させる。

 

 百合は一子相伝が何たるかを知らない小一の頃から剣士の稽古に参加したがった。


 父は娘が傷つくのを恐れていたが、百合があまりに熱心に頼むので、七歳上の甥っ子と共に鍛錬を行った。


 平均的な子供にはかなり過酷な内容なのですぐに根を上げると思っていたら、甥に負けるとも劣らない熱意と集中力で修行に臨み、瞬く間に上達していった。

 

 上達の早い娘を見て、後継者を決めたのは早すぎたかと後悔した。


 けれども、護国軍の規則で血判は絶対的なものであり、今更跡取りを変更するわけにはいかなかった。


 また女という立場では、どんなに優れた資質を持っていても、軍団長まで上り詰めた例がなく、歴代の軍団長を鑑みても女は一人もいなかった。

 

 さらに百合は社交的でないために兵長になるのも難しい。口下手で誤解を招き、集団を統率するのに向いていない。


 幼い頃ほとんどしゃべらない娘を見て、知恵遅れかと心配したものだった。


 年齢が上がるにつれて、娘がなかなか話さないのは思案しすぎるためだと分かった。


 小学校に入学するや、女子たちにさんざん陰口を叩かれたのも、誤解を招く状況でも全く釈明しないため他のクラスメートが犯した罪をすっかり被せられた結果だった。


 百合には代わりに弁明してくれる親しい友達もいなかったので、誤解が誤解を生む形で忌み嫌われるべき人物像が膨れ上がってしまったのだ。


 百合の父は繰り返し娘の欠点を思い返すことで、自分の決断は正しかったと考えた。

 

 百合は運動や勉強面で頭角を現すにつれ、友達だと称する人物が周りに少しずつ増えていった。


 けれども、一度深く抉れた心の傷はなかなか元に戻らない。


 自分に落ち度がないにもかかわらず傷つけられたという思いは、対人不信や恐怖となって繊細な心に燻り続けた。


 徐々に人気が出てきたからといって、全てなかったこととして明るくフレンドリーに振る舞うのは百合の性格では不可能だった。


 ただ、いつまでも幼いままではいられないので、大人として表面上社交の笑みを浮かべて穏やかに振る舞っているだけだった。

 

 百合は剣士としての自分に誇りを持っていた。この仕事が好きであり、生き甲斐だった。


 国を守るために必死で戦っていれば、人生に対する漠とした不安やトラウマは何とかやり過ごせる。

 

 思い返せば泣き叫びたくなる出来事なぞに煩わされずに、充実し希望に満ちた日々を過ごしていられる。

 昇格や報酬などどうでもよい。できるだけシンプルで穏やかな毎日を送りたい。


 出世などしたくなかった。集団をまとめる立場になると、人の顔色を窺ったり機嫌を取ったりとくだらないことをしなければいけない。


 純粋に剣をふるう立場でいたかった。しがらみなど一切持たない、祖国のため正義のために戦う人でありたかった。

 

 


 





 人を始末する仕事は家具をばらすのと変わらなかった。


 若葉にとって、仲良くしていた犬や猫の死は悲しくても、仕事でしか接触しない人間に情をかけるのは難しい。


 使い古した机を壊して捨てるのと同じ感覚だった。

 

 より効率的でスムーズにターゲットの息の根を止める。


 できるだけ血を流さず、苦痛を与えず。常に素早く冷静にターゲットを処理してきたので、仕事の依頼が途絶える心配は無さそうだった。


 もっとも仕事が途絶えたところで、どうってことはない。衣食住が賄えなくなったら今度は自分が死ぬだけだ。

 裏稼業の世界には己の欲望に忠実なガツガツした輩が多い。


 彼らは大きな夢や野望を持ち、自分なりの王国を築こうと躍起になった。


 若葉は生きたいと思うものの、大きな夢も希望もなかった。


 自死を選ぶほどの絶望感や焦燥もない。


 毎日の糧を得るためにただ黙々と働いた。


 始末屋の仕事は性に合っており、日々の目標をクリアする達成感と充実感が味わえた。


 同じターゲットと接することはないので(それは任務の失敗を意味する)常に緊張と刺激をもって新規の仕事にのぞめるのも良い。

 

 若葉は自分の生活に満足していた。自分を知り限界を知り控えめに用心深くしていれば、生活に乱れは来ないと思った。

 

 百合が全てを変えてしまった。

 

 百合の人柄は相手によって評価が全く異なった。


 世間の噂では「我儘で気位が高い」とされていた。

 

 若葉は自分の醜さを自覚していたので、面と向かって人と付き合うのが苦手だった。


 居酒屋で明るく快活な人々とうっかり居合わせてしまった際はさりげなく場所を移動して、暗くて目立たない部屋の隅の置物と化して食事した。

 


 自分に構わないでほしいオーラをそれとなく出しているにもかかわらず、天真爛漫に話しかけてくる人々は十人に一人はいるものだ。


 酒の力も手伝って、素面なら気付くはずの拒絶バリアをうっかり見逃してしまっている。


 或いは天性の鈍感者か。女性なら誰でも良いとばかりに声をかけてくるのは男性の酔っ払いがほとんどだ。


 うら若き女性の中で気さくに話しかけてきたのは百合が初めてだった。

 

 百合がこちらに向かってきたときは人生で最も緊張した。ターゲットを殺す瞬間より遥かに心臓が高鳴った。


 自分の動揺を悟られぬよう近づく百合に背を向けて、そっけないふりを演出してみた。


 それでも百合の艶やかで温かいオーラを背中越しに感じてしまい、子宮が小刻みに震え始めた。

 これが俗にいうときめきとか一目惚れというものか。


 若葉は恋愛に興味はなかった。自分にとって無縁なものは端からあきらめるのが得策だ。


 それが安心できる生き方だった。なのに、否応なく心身が百合の気配に反応し、今までに味わったことのないとんでもない状況に巻き込まれようとしている。

 

 百合の気配が間近に迫りこれ以上無視できないと観念し、若葉は思い切って体を向けた。目の前で微笑む百合からはほんのりと甘い香がした。

 

 

 

 

 理想の自分に近づくために努力するのが好きだった。


 強く逞しい男になろう。父のように、年の離れた兄たちのように。そう思って幼いころからがんばり続けたものだった。

 

 悟は人生のスタート地点から苦しかった。


 未熟児として誕生し、ぜんそくとアトピーに悩まされた。


 物心ついたときから悟は人より小さくてひ弱なのだと自覚して、少しでも同年齢の子供たちに追いつくようご飯をたくさん食べようとした。


 けれども、重度のアトピーで食べ物が制限され、思うように食べられずなかなか身長が伸びなかった。


 元々小柄で痩せているので、小学校に入ってからも同年齢の子供たちとの体格差は縮まらなかった。 

 


 せめて運動能力だけでもクラスメートと張り合いたい。悟は体を鍛えたかった。


 ぜんそく持ちなので、兄たちのように長時間ジョギングするのは厳しい。


 水の中だと陸上よりぜんそくの発作が抑えられるので、週三回水泳を習い、兄たちのように選抜コースの選手を目指した。


 水泳を六年間続けた結果、選抜メンバーには選ばれなかったが、校内の水泳大会でリレーの選手に選ばれる体力と実力がついた。

 

 水泳や剣術の稽古を地道に続けた結果、未熟児だったとは思えぬほど体力と運動神経が養われた。


 しかし、生まれつきの骨格は変えられず、父や兄たちのような男らしく逞しい体格とは言えなかった。


 身長もさほど大きくならず、同世代の平均身長より低かった。

 

 悟の父は恰幅が良い大男だ。


 母親も女性にしては大柄なので、遺伝的には兄たちのように背が高く逞しくなってもよさそうなのに。


 また運動能力においても、悟は兄たちに劣っていた。兄たちは運動神経が抜群でどんなスポーツにも秀でていた。


 悟が並以上になれたのは、幼い頃から続けていた水泳のみだった。

 

 兄たちと並ぶ、否それ以上の実力を発揮する道は学業をおいて他にはなかった。


 学業は、平均的な知能があれば、努力に応じて向上する。記憶力が良く真面目なため、勉強は面白いようにはかどった。


 努力するのが好きなので、悟は常に学年トップの成績だった。

 

 生まれつきハンディがあるにもかかわらず、いたいけに努力している。


 そんな末っ子の悟に家族は皆優しかった。


 三人の兄たちは自分たちとは毛色の違う弟を庇護する存在として可愛がった。


 母は未熟児だった悟のことをいつも気にかけて、兄たちに内緒で小遣いをくれた。


 兄たちには容赦のない厳しさを見せる父も、悟には一切小言を言わずいつも穏やかな笑顔を見せた。

 

 成績優秀な悟を家族全員が誇りに思った。


「うちは剣士の家系じゃけんが、ついに学士様が出るかもしれん」


 父は夕食時ほろ酔い加減で悟の話題を口にした。


「悟は剣士なんかもったいない。薬師なんかはどうじゃろうか? 」


「薬師は特別に頭を使う職業じゃ。社会的地位もある」


「悟はぜひ薬師になってくれよ」

 

 兄たちの言葉に気をよくした悟は薬師になろうと決意した。

 

 剣術に優れた兄たちは当然のように父親と同じ職業に、剣士になる道を選んだ。


 悟はどうあがいても優秀な剣士にはなれなかった。


 良くて下級兵止まりだろう。父のように剣士長になることはできない。


 だから剣士を医療でサポートする薬師になって、兄たちと肩を並べようと思った。

 

 それには薬師の国家試験に合格しなければならないが、薬師の試験は悟にとって楽勝だった。


 生まれつきアレルギー持ちだったので、幼い頃から薬草の配合に興味があった。


 人一番高い向上心と健康意識が古今東西のあらゆる薬草の知識を吸収させ、小学校卒業の頃には自分で専用の薬を調合していたほどだった。

 

 悟は常に普通の人々とは違うという意識を持って生きてきたので、人との関係に慎重だった。


 ぜんそくでアトピーだからクラスのみんなと同じようにできない事柄が多々あった。


 その都度自分を傷つけず他人の差別意識を目覚めさせないようにするために笑顔で距離を保ちつつクラスメートと接してきた。


 結果、泥んこになって遊ぶような子供時代は送らなかった。


 読書が最良の友であり、世界の不条理に備える盾として知識量を増やしていった。

 

 そうした努力の甲斐あって薬師の国家試験に合格する前から優れた薬の調合者として評判になった。


 中学に入学する頃には薬師風のバイトをしていた。裏社会でいうところの呪い屋だ。

 

 悟は所望があればどんな薬も処方することを常としていた。


 注文された薬の使い道までわざわざ詮索することはしなかった。


 あらゆる人々に公平で忠実な薬師として百パーセントの力で応えた。


 薬の完成こそ使命であり、事の善悪や正否を下すには自分は未熟でおこがましいと思った。


 薬草の英知と神秘を追究する薬師として常に純粋な存在でありたかった。

 

 裏で何と呼ばれようが知ったことではない。


 幼い頃から、陰でいろいろと面白おかしく噂されたものだ。父や兄たちと比較されて。

 

 自分の中に確固たる信念を持っていなければ、人生は恐ろしい方向に流されてしまう。

 

 悟は表社会と裏社会で薬草の専門家として活躍したので、平均的な薬師の二倍以上の収入があった。


 裏社会は金銭の動きが法外なので一般的な薬師とは比較にならぬほどの儲けが入る。

 

 それが悟の誇りだった。世の中の目に見える価値はすべて金に集約される。


 倫理や御託を並べても結局は金で解決してしまう。


 愛や思いやりは見えないから判断基準にはならなかった。


 悟のような見栄えがぱっとしない小男でも金があれば力に代わる。


 「私は愛と勇気にあふれた人間ですよ」といくら主張しても、うだつが上がらない者には誰も敬意を払わなかった。

 

 毎日意欲的に働く悟を家族は尊敬と愛情の念で見守った。


 畑違いの分野にはまるで疎い人々なので、悟が何をしているのかほとんど分かっていなかった。


 薬師という仕事に並々ならぬ情熱を傾けている息子の姿をただ好ましく思っていた。

 

 裏社会特有の病気に効く薬を追究するには呪術の勉強が不可欠だった。


 それらの本は大手書店で簡単に入手できる類から図書館の書架でしか読めない絶版書、海外でのみ入手できるもの、発禁処分となって裏ルートでしか手に入らないものまでさまざまだった。


 抜きんでた薬師になるためには必要だと分かった書物はすべて読むべきだと考えた。

 

 優秀な薬師になるために悟は外国語を勉強し、外国の薬草や調合の仕方にも詳しくなった。


 薬師としての仕事を選ばずに何でも注文を受けたために裏社会にも精通し、発禁書を得る格好の手掛かりをつかんだ。

 

 薬師としての富と名声が高まるにつれ、同業者の間では良からぬ噂が広まり始めた。


「あいつは薬師として魂まで売っている」


「もはや薬師ではない。呪い屋だ」

 

 悟は噂を気にしなかった。出る杭は打たれるものだと幼い頃から肌で感じていた。


 自分には不可能なことを成し遂げる相手を差別する。


 そんな輩も、表社会の薬師では治せぬ病にかかれば、『呪い屋』として腕の良い自分の元に頭を下げてくるものだ。

 

 悟には恐れるものは何もなかった。


 自分を活かして働くほど収入がうなぎ上りに高くなる。


 ほしいものは手に入り、家族にも楽をさせられる。


 やっかみひっかみで、惨めな犬に吠えられても痛くもなければ痒くもない。


 仮に痛くなったとしても、当代随一の薬師である自分の腕で治せるのだ。

 

 人の生き死にも掌握した気分。全てが悟の天下だった。

 

 

 

 

 

 

 怪我の多い剣士にとって薬屋は馴染みの場所だった。悟の店に百合が姿を見せたのも偶然というより必然だった。


 悟の店は町で三本の指に入る繁盛店だ。東側城塞から帰還した兵士たちのほとんどは城塞近くの悟の店を訪れた。


 兵士たちの大半は怪我や病気が治れば満足し、薬師の思想や人間性など問わないので、帰宅途中で立ち寄るのに都合の良い薬屋を選んだ。


 兵士にありがちな怪我や病気ならどこの薬屋でも間に合った。


 いちいち回り道をしてまで特定の薬屋や診察料の高い医師の元に立ち寄ることは少なかった。

 

 兵士たちで混み合う薬屋の店頭に悟はいない。


 商品の説明や会計は人当たりの良いスタッフに任せて、レジカンターの奥にある薬の調合室に籠っていた。


 店長としての義務を果たすため、時折ガラス張りの調合室から店の中に目を光らせた。

 

 スカイブルーを基調にした室内は常に清潔で、照明で隅々まで照らされて陰影や視界を遮るものはない。


 出入り口の扉は朝から開け放たれており、道路側から店内が見渡せる造りになっている。


 店内からも開かれた扉を通して砂塵を撒いて駆ける馬車や雄叫びを上げる兵士の姿が見て取れた。

 

 店内は帰還したばかりの兵士たちでにぎわっていたが、大半は自分がいかに活躍したか怪我を通じて自慢しており、本当に薬屋に用があるのは六割程度だ。

 

 悟は凱旋したばかりの兵士の熱気が苦手だった。


 汗と砂埃に男の匂いが混じった空気は「兵士こそが最高の男」と叫び続けているようで、兵士になるのをあきらめた少年時代の傷に触る。


 男の剣士特有の自惚れと排他性が感じられ、数少ない女性兵士が時間をずらして訪れるのも当然だと思われた。

 

 百合は店に訪れた五人目の女性兵士だった。仲良しグループで行動しがちな他の女性兵とは異なり、一人で店を訪れた。

 

 百合が店先に現れるや、無機質な薬屋の店内でそこだけ花が咲いたように明るくなった。


 仕事熱心な悟も思わず顔を上げ、調合室の窓ガラスから店内の客を注視した。

 

 緑の隊服を着ているから剣士だろう。戦いを終えた者にふさわしい精悍な雰囲気をまとっていた。


 薬がずらりと陳列した店内で異様に浮いて見えるのは、際立って容姿が美しく気品にあふれているせいだ。

 

 悟は百合を初めて見たが、すぐに護国軍団長の娘だと思い当たった。

 

 軍団長の娘は、驚くほどの器量良しで兵士にしておくのはもったいない、と専らの評判だった。


 なるほど、噂されるだけのことはある。悟は百合の容姿をつくづく眺めて感心した。


 こちらに向かって歩く姿は勢いがあるのに静かであり、湖を音もなく素早く進む白鳥のようだ。

 

 悟は調合室から飛び出した。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 「肩に矢が当たってしまい、傷口はたいしたことないですが、毒が入ったら困るので」

 

 百合は心配そうな口調で言った。

 

 敵国は武器に毒を用いることで有名だから、百合の心配はもっともだった。


 だが、一目見て毒ではないのは明らかだ。毒の影響を受けていた場合、自力で歩けない場合が多く、これほどはきはきとしゃべれないものだ。


 肌つやもくすみ、身体から放つオーラが黒くくすんでくる。

 

 悟は内側から発光するような百合の白い肌と艶やかな黒髪に目をやった。


 剣士としての任務に男並みに情熱を注いでも、女としての武器の手入れには余念がない。


 あるいは真に美しい女というのは、何もしなくても媚薬のように艶めかしいのかもしれないと思った。

 

 美人に気を取られるようでは、良薬から劇薬まで相手の望み通りに調合する当代随一の薬師になれない。


 悟は世間を知るためにあらゆる研鑽を積んできた。酒やたばこ、賭博や女遊びも一通りやった。


 だから百合のような麗人が現れても、美しいなと思うだけで、動揺したり緊張したり心を奪われたりしない。

 

 薬師という職業的な立場から悟は百合をつぶさに観察した。


 剣士としての鍛錬の成果を示すように、百合の体はしなやかな筋肉に覆われて手足が長くのびのびとしている。


 不健康なものとは無縁といった充実して溌溂としたエネルギーを感じさせ、彼女の体の内外にはどす黒く渦巻く負のオーラは微塵も残っていなかった。


 剣士としての汗と情熱で余計なものを浄化して、みずみずしく綺麗なものだけを心身に宿して光っていた。

 

 百合の瞳は子供のように澄んでおり、善悪や正邪を見極めて自分の中の大切なものを純粋に保ち続けている。


 どのような育ち方をしたら子供時代の瞳の色を失わずに大人になれるのか悟は不思議でならなかった。

 

「毒が全身に回っていないかどうか触診してお調べしましょう」


 悟は検査を申し出た。

 

 毒の影響を受けてないのは明らかだけど、珍しい研究対象をこのまま帰すわけにはいかなかった。

 

 調合室の奥は二帖ほどの簡易な個室になっていた。


 診察用のベッドが一つ壁に沿って置かれている。めったに使われることのない空間だ。特殊な症状や重症の患者のみが横になって往診される。

 

 百合は隊服の上着をさっさと脱いで肩を見せた。

 

 その大胆な脱ぎっぷりは、悟を男として全く意識していないのが明らかだった。


 悟は一瞬軽んじられた気持ちになった。


 相手はただの患者であるが、何となく自己否定されたように感じてしまう。


 男を寄せ付けない行動は彼女が身を護るため必要なのだと悟は自分に言い聞かせた。


 これほどの美貌の女が大勢の男剣士と行動を共にするのだから、少しでも色を感じさせる言動をしたら厄介な結果を招くのだろう。


 百合の潔い脱衣の仕方は、言い換えれば、悟が薬師として信頼されている証だった。


 脱いだ隊服の上着の下は、真っ白なコットンのノースリーブだ。

 

 きめ細やかな白い肌には複数の剣先の傷痕があり、剣士として生きる凄まじさを語っていた。


 赤く切り刻まれた傷口や黒い打撲の痣は醜いはずなのに、眩しいほどの肌の白さを際立たせて、剣士としての覚悟と情熱を象徴する輝かしい勲章に見えた。


 その壮絶な肉体は、孤高の美として黙々と主張し続けて、前人未到の雪山の絶壁に凛として咲く幻の花だ。

 

 この(ひと)は、これからも吹雪の中で顔を上げ、寒さや厳しさに耐えながら誰もたどり着かない高みに向かって一人黙々と進み続けるに違いない。

 

 道のりの厳しさと永遠の孤独を思いながら、悟は我が身を振り返った。自分はこれでいいのだろうか。


 薬師としての社会的成功を手に入れて、それを守りながら生きていくのか。自分と釣り合う適当な女性と結婚し、穏やかな家庭を築き上げて、財産と家庭と仕事を守り、世間に同化して塗れていく。

 

 先の見えている人生に悟は魅力を感じなかった。


 悟は男として人間として魅力にあふれる兄たちとは違っているから、誰かに身を焦がすほどの恋愛に身を投じたり、狂おしいまでに相手から情熱をぶつけられたり、日常がひっくり返るような体験が待ち受けているとは思えなかった。


 だから薬師に夢を見て、古今東西あらゆる薬を研究してみようと思ったのだ。自分も前人未到の領域に到達してみたいと思った。


 ありきたりな薬師として平凡に思わるのは嫌だった。

 

 百合の左肩がただの切り傷で毒の影響を受けていないのは視診で明らかだが、悟はあえて触れてみた。


 極上の宝物に触れるように百合の左肩に指を置いた。何人の気配も感じさせない純粋で清らかなオーラから、百合が処女なのは間違いなかった。


 浸食されずに聳え立つ難攻不落の頂だった。己のエネルギーだけをひたすら循環させていた。

 

 この美しい人を穢す存在から守りたかった。それができるのは、命を懸けて守護ができる自分だけだと悟は思った。

 

 究極の呪術を実践できずに平凡に終わるのは嫌だった。どうせ命を懸けるなら、やり甲斐のある任務にかけたい。

 

 悟はある決意をした。

 

 

 

 

 

 

 恋愛がこの世からなくなれば、世の八十パーセントの愚かな行いは消えるだろう。若葉は本気でそう思う。


百合と出会ってしまったおかげで、若葉は同じ大衆酒場に通い詰めるという過ちをおかした。若葉のような始末屋は同じ場所に何度も出入りするのは危険だった。


なのに、甘い呪文でもかけられたように、命を危険に晒してでもあの酒場に行ってみたい。もう一度百合に会ってみたい。そう思ってしまうのだった。

 

百合が酒場に現れるのは、月曜か木曜の夜だった。

 

「月曜の夜は、週末までの長い平日を乗り切るために、木曜の夜はあと一日をがんばるための景気づけに行くの」

 

百合は若葉に説明した。

 

しかし、毎週確実に会うわけにはいかなかった。


護国軍兵は二か月ごとに長期遠征に行ってしまう。だから半年の間に会えたのは六回で、最後の六日目は忘れられない日となった。

 

若葉にとって百合は恨めしい存在だった。彼女のおかげで人肌の暖かさを知り、人のぬくもりが恋しくなった。


それまで一人でいても平気だったのに。


淡々と仕事をこなして飯の粒にありつければ満足したのに。

 

初めて百合が近づいてきたとき、若葉はつくづく自分を恥ずかしく思った。


以前から自分が美しくないのは知っていた。


始末屋の職業に美しさは必要ない。 むしろ邪魔なものに相当する。


できるだけ人混みに紛れて所在を消すには、目立たない容姿、控えめなオーラ、人並みの服装が適している。


あまりに醜すぎても目立つので、人並みの基準に近づくため、また童顔を大人に見せるため、ある程度の化粧はしていた。

 

化粧上手とは言えなかった。


人を始末する以外きわめて不器用な性質なのだ。


唇からはみ出ないように筆を使って口紅を塗ったり、眉を整えたりするのは苦手だった。


髪型を結ったり下ろしたりするのも至難の技。


肩まで伸ばしたありきたりなヘアスタイルを切ったり伸ばしたりを繰り返し、ヘアカラーを微妙に変えることで印象が固定しないよう、始末屋としての最低限の努力をしていた。


目立たないが不潔にならない風貌と服装を心掛け、そんな自分に満足していた。

 

それなのに、百合が接近してきたおかげで、自分の存在が心地悪くなった。


もっと美しく生まれて来ればよかったのに。そう思わずにはいられなかった。もっと美しく生まれていれば、人生も違ったものになっただろうか。


過去の自分の人生に何の不満も持たなかったのに、百合の存在に触発されて、そんな考えがふと浮かんだ。

 

「この店で同じ年頃の女性に会うなんて珍しいわ」

 

百合は無邪気な口調で言った。

 

若くて美しい女性から気さくに話しかけられたのは初めてなので、どんな風に振る舞えばいいのか分からなかった。


無視したと思われても困るので、若葉は目を伏せて「はい」

と言った。

 

同世代の女の子にやたらと緊張している自分がおかしかった。

 

百合はさも当然のごとく若葉の隣に肩を並べて、ライムトニックを飲んでいた。わざわざ飲み物を握りしめ、若葉の隣に移動するとは。

 

もしかして自分はそれほど醜くないのかもしれない。若葉はぼんやりとそう思った。だから百合がやってきたのだ。町のどこにでもいるような女の子に過ぎないと思ったのか。

 

 全てが初めての体験で、若葉は何をどうしたらよいのか分からない。ただひたすら百合の言葉に力強く頷いた。


 話の内容はどうでもよかった。心地よい声の響きに耳を澄ませた。

 

 百合の顔立ちを間近に見て、若葉は同じ人間なのかと疑った。光沢を放つ白い肌には毛穴や黒子が一つもない。


 長い睫毛に縁どられた切れ長の瞳。


 瞳の色は髪の色と同じ漆黒にも蒼みがかった黒にも見えた。ほんのりと色づいた唇は艶やかに輝いて、思わず触れてしまいたくなる。

 

 魅惑のスイーツに囲まれているような状態に若葉の心は高鳴った。百合のほうも若葉を見ながら楽しそうに会話を続けている。


 こんな関係があり得るのかと内心驚く。


 お菓子な関係に若葉は酔った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 発情した男女が放つねっとりとした雰囲気が百合は昔から苦手だった。相手のオーラに雁字搦めに縛られて窒息しそうな状態に見える。


 幼い頃からパーソナルスペースを極端に縮められるのが嫌だった。


 急に腕を組んだり手をつないだり体の一部に触れてくる人が男女問わずいるものだ。そういう人たちを世間ではフレンドリーとか人懐っこいとか言うようだが、百合にとっては天敵だ。


 父は年中忙しく、母は他人のことに関心が薄いタイプのせいか、百合には優しく頭を撫でられて抱きしめられた体験がない。


 そのせいで、体に触れられるのが苦痛になってしまったのか。あるいは生まれたときから身体的接触が苦手だったので、両親が触れなくなったのかもしれない。いずれにせよ、百合にとって相手が遠くにいる状態が安心できた。

 

 華やかな外見から来る偏見で、恋多き女のように見られているがとんでもない。他人から触れられるのが苦痛な女が恋愛に陥るわけがない。


 一人の空間を確保して安心できるのが好きなのに。

 結婚や家庭に夢を抱くタイプでもなかった。


 集団生活に馴染めずに鬱屈した子供時代を送ったのに、自分の分身を欲しがるはずがない。あんな思いを追体験するのはまっぴらだった。


 子供ができたら学校生活をさせねばならず、他人の家庭との付き合いが発生する。人間関係の足かせはもう御免だった。


 結婚して子供を産むような人々は、よほど幸福な子供時代を送った、人生に肯定的な人々なのだろう。

 一人で生きて散っていくのが百合にとって幸せだった。


 剣士として仕事に没頭し、殉職するつもりだった。


 別に死に急いでいるわけではない。


 仕事にやり甲斐を感じているから、人生に絶望しているわけではない。


 ただ仕事に没頭しながら死ねると思えば、余計な心配を考えず、毎日過ごしやすくなるのだった。


 仕事があれば食べるに困らないし、剣士として優れた腕前があれば、仕事上でとやかく言われる苦痛もない。


 あいにく百合は女なので、初めのうちは同僚からしつこく口説かれたりしたものだ。


 しかし、タイマンでは必ず勝つし、代々軍団長を務める家柄なので、人生で時折ありがちな非常識で理不尽な目に遭わされる回数は少なかった。


 百合は剣士としての家柄と腕前に守られていた。


 この世界にいる限り、安心して生きていけた。

 

 死ぬまでこの立場に留まりたい。これ以上の昇格は望まなかった。


 人を束ねる立場になれば、責任や義務が生じてくる。せっかく外した手かせ足かせを増やしてしまう。いつまでも一介の剣士でいたかった。


 安全な砦に囲まれた陣営で煙草を吹かしながら戦略を練る立場でなく、身一つで先陣を切って決死の覚悟で戦いたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友達の定義とは何だろう。


 百合が友達だったのか未だに若葉は分からない。


 ひとつ明らかだったのは、今までの人生でただ一人本気で語り合った相手だった。

 

 初恋の相手とも言えそうだった。


 友情にしては心身が過敏に反応し、胸がやたらと躍ったから。


 若葉の人生経験からは友情と恋愛の区別をつけるのは難しかった。


 友情も恋愛も経験したことがないのだから。


 初めて友達ができて嬉しすぎて有頂天になっただけかもしれない。

 限られた期間であったが、百合と語り合えて幸せだった。


 命を危険に晒しても百合と語り合いたかった。


 ただ何となく言葉を交わすだけで満足だった。

 

 最初のやりとりを若葉は今でも覚えている。

 

 「若葉さんは呪いの力を信じている? 」

 

 若葉は始末屋だから呪術の存在は知っていた。


 尋常ではない死にざまの死体を目にしたことがある。


 また若葉を育てた太助も仕事がうまくいく儀式として簡単な呪文を口ずさんでいた。

 

 「なんとなく」

 

 若葉は応えた。

 

 いつも百合が一方的にしゃべって、若葉が相槌を打つ関係だった。


 百合の話題は遠征先や職場など一般的な内容だから、返答に専門的な知識も社交辞令も必要なかった。


 ただ「そうですか」と言っていれば済むのだった。

 

 初めはすぐに飽きられるものと覚悟した。


 若葉は人との会話に慣れておらず自分の素性を明かせないから、提供できる話題はほとんどない。


 百合の会話にひたすら頷くだけだった。

 

 それでも百合は若葉との会話のやりとりを心地よいと感じたのだろう。


 半年も交際が続いたのだ。


 百合は仕事と無関係な人間に気楽に世間話をすることで、ストレスのはけ口を求めていたのか。


 それなら若葉は適任だった。


 どんな会話でも頷いて、反論や軽蔑は決してしない。

 

 聞き役の若葉もひそかに工夫を凝らした。


 心から百合にくつろいでほしいと思っていたから、この関係が永遠に続いてほしいと願ったから、相槌を打つ言葉には敬意と愛情をこめていた。


 それが百合にも通じたのだろう。だから、何か月も関係が続いたのだ。

 

 話題が特殊な事柄になってから若葉は黙り込むことが多くなった。


 こんな話題を振るなんて、自分の職種がバレているのかも。


 すでに何回も同じ店で話し込んでいるのだから、誰かに怪しまれてしまう可能性がないとは言えなかった。


 店の常連になると、会話の断片から職業や住まいが分かってしまう。


 若葉は自分の素性が漏れないように気をつけていたが、逆にあまりに素性が不確かでも、堅気でないと怪しまれる。

 

 百合は表社会の人間だから始末屋に詳しいとは思えない。


 だが、死と向かい合わせの職種だから人の生死を司る特異な裏稼業があることを耳に入れる機会もあるだろう。


 兵士は普通の堅気の人より死に近いところにいるのだから。

 

 バレてしまったものはしかたない。


 若葉は腹をくくっていた。


 問題は、百合を始末できるか否か。


 できるなら、問題を先送りにして、このままだらだらと百合と付き合っていきたかった。その結果、殺されてしまうのならそれで良かった。

 

 死を恐れる気持ちは若葉にはなかった。


 幼い頃から死は身近なものであり、いずれ訪れるものと分かっていた。ただ、何も知らずに死にたくない、生きた証をつかみたい、そう思って来たまでだった。

 

 始末屋としてもう何人も始末してきた。


 百合という魅惑的な相手に出会い、友情だか恋情だかふわふわした心地よいものに揺さぶられた。


 太助の下で顔色を窺いながらチビチビと生きてきた頃と違って、すでにいろいろなものを掴んでいる。


 もう十分生きていると言ってもよかろう。百合になら、殺されても良かった。

 

 「呪いを解いてくれる相手を探している」

 

 こう百合から相談されたとき、若葉の腹は決まっていた。

 

 「死ぬよりつらい境遇にいるの」

 

 目を伏せた百合の横顔を美しいと若葉は思った。

 

 「呪いを解いてくれるかな。あなたなら、きっとできると思う」

 

 「どうしてそう思うの? 」若葉は尋ねた。

 

 「直感的に」百合は微笑んだ。

 

 「報酬は私の全財産。結構あるの。私、お金使わないから」

 

 「いらない。お金ならある」

 

 若葉は淋しい気持ちになった。


 本来なら、憧れの百合に頼りにされているのだから喜ぶべき状況だった。


 けれども、お金で解決できる人間だと思われている。


 百合が求めるのは友情ではなく、役割をこなしてくれる相手だった。


 呪いを解くのは、フレンドリーで愛らしい女の子には不可能だ。


 だから、陰があって得体のしれない若葉に声をかけたのだ。

 

 結局友情など存在しない。恋愛にいたっては猶更だ。

 

 百合は若葉の言葉を待つように静かに下を向いていた。


 長い睫毛が影を落とし切れ長の眼差しが色っぽく物欲しげだ。

 

 仕方なく若葉は返事をした。

 

 「詳しい事情を教えてください」

 

 二人きりで話ができるよう百合のマンションに行くことになった。

 

 若葉は他人の家に遊びに行くのが初めてだった。同世代の女の子がどのような暮らしをしているのかワクワクする。

 

 町の住宅街にある石造りの塔のようなマンションに百合は一人で暮らしていた。


 女性専用の賃貸で建物全体の戸数が少ないためか、人の気配が感じられない。


 若葉と百合は誰ともすれ違うことなくエントランスから螺旋階段を上り続けた。

 

 室内に入って真っ先に視界に飛び込んだのは、ドレープのたっぷり入ったオフホワイトのカーテンだった。


 可憐で乙女チックな雰囲気でいかにも百合にふさわしかった。


 部屋の中には家具らしきものは存在せず、テレビもベッドもテーブルもない。


 キッチンには小さめの冷蔵庫があるだけで電子レンジもコンロもなく、どうやって食べているのか不思議だった。


 キッチンのシンクは手入れが行き届き、鏡のように光っている。八畳ほどのフローリングはよく掃除がなされており、埃ひとつ落ちていない。

 

 部屋の隅にはカーテンと同系色の厚みのある折り畳み式マットが三つに畳んで置かれていた。


 百合がその上に腰を下ろし、促されて若葉も隣に座った。


 マットはかなり弾力があった。床運動の道具にも寝具の代わりにもなりそうだった。

 

 呪いをかけられたいきさつをおもむろに百合は語り始めた。

 

 

 

 

 

本来禁忌呪術である捨て身の儀式は一般市民では払いきれない高額な料金が発生するが、悟が身銭を切って行うため、百合の負担は一切なかった。


高潔な彼女に知られれば「私が払う」と主張され、多額の借金を背負わすはめになってしまう。あるいは呪い自体に偏見があり、拒絶される恐れもあった。

 

悟は今までの患者にも無償で呪い(まじな)をかけてきた。呪い返しをした患者には、必ず祝福の呪い(まじな)を合わせて行う。


その過程をいちいち口では説明しない。祝福の呪いは無意識下で最も働き、逆に意識することでその効力が弱まってしまう。


本人に告げずに行ってこそ最大の効果を発揮した。


なかには黙って呪術をかけるのを迷惑がる患者がいるかもしれない。


けれども、悟は呪術に詳しい薬師として適切に判断したまでだ。そのやり方を嫌うなら他のところに行けば良い。

 

百合の気持ちを考えると、何も言わずに呪いをかけてしまうのが一番だった。


百合はただ全てを任せて清々しい生き方を貫いてほしい。

 

生涯にわたって百合の純粋な美しさと気高さを守ってみせると悟は誓った。

 

捨て身の儀式は生半可な覚悟では行えない。自分の心身を犠牲にするのだ。

 

百合のために肉体と命を捧げるのは惜しくなかった。


今の日常を繰り返しても、妥協と諦念に行きつくだけだ。

 

悟は仕事で成功した。


望んでいた富と名声を手に入れた。


このまま地道に働き続ければ、仕事にも金銭にも恵まれた生活を送ることは約束されている。


経済力のある薬師だから嫁の成り手も多いだろう。


その中から真面目で家事が上手で器量の良い女性を選んで結婚すれば、穏やかで安定した暮らしができる。


数年後には子供が生まれて、誰もが羨やむ人生を送ることができるだろう。

 

先の見えた平凡な人生は、悟の望むところではなかった。


稀代の薬師となるためには一般の薬師が為しえない未知の領域に踏み込まなければ。


命懸けでなければ遂げられず、命懸けでなければ解除できない呪術の完成を目指さなければ。


それも金儲けや悪のためではない、人を助ける呪術である。それには代償と難解さゆえに禁忌とされている、捨て身の呪術が最適だった。

 

前々から命を懸けたいと思っていたが、その機会が訪れない。


命を懸けるからにはちゃちな動機では不十分だ。心身を捧げるのにふさわしい対象が必要だった。

 

百合のような女性は二度と悟の前には現れない。


この出会いを逃したら、二度と儀式を行えなくなる。


自分の薬師としての可能性は絶えてしまう。

 

百合が悟を想ってくれる必要はなかった。


悟だけが百合を愛して、身を挺して護ってやれば良いのだった。それでこそ真の意味での純愛ではないか。

 

百合を守りたい一心で悟は儀式の研究に没頭した。


練習や実験は許されなかった。本番のみの呪術である。そのため不確定な要素が多い。


呪術者の命と引き換えに呪いは発動するのだが、その後呪術者は完全にこの世から消えるのか、肉体を持たないエネルギーとなって百合を見守ることができるのか、呪術後に意思の疎通ができるのか、ただの呪いの塊となるのか。


 閲覧した書物には『生涯にわたって相手を守る』としか記されていなかった。

 

 実践してみるしかない。命の代償を払えば、ほぼ確実に成功するとされているのが救いだった。

 

 一度目の施術後に百合を呼び出すのは簡単だった。

 

 「経過を見るだけなので、今回お金も時間もかかりません」

 

 念を押すように悟は言った。

 

 悟が百合から疎まれる要素はほとんどなかった。


 薬師としての腕は確かで熱意があり誠実だ。


 患者が類まれな美貌の持ち主だからといって浮ついた態度は微塵も見せなかった。常に沈着冷静に対処した。

 

 この日も百合が緑の隊服で現れた。

 

 服装に彼女の信念が表れていた。


 日頃から兵士としての立ち振る舞いを貫くことで、できるだけ女としてのマイナスの要素を排除しようとしている。


 不器用な性質なので、両手に天秤を握れなかった。


 余計なものに惑わされず、剣士として本分をまっしぐらに突き進む。

 

 そんな彼女の人生をいつまでも守ってあげたかった。

 

 彼女が幸せになりますように。

 

 人としての悟の最期の思いであった。

 

 

 

 

 

 百合から呪いの詳細を打ち明けられても、若葉は特に驚かなかった。世の中にはいろいろとおぞましいことがあるものだ。


 がっかりしたのは、百合のような立場の女性が自分風情に近づいてくるのは特殊な事情があるのだと明らかになったことだった。

 

 百合は若葉が普通の女性とは違うと勘づいている。だから話しかけてきたのだろう。今更素人のふりしても、話がこじれるだけだった。

 

 「呪いを解ける人を探しているの。私をためらわずに殺せる人で。呪いを解くには死ぬしかないの」

 

 百合が告げた。

 

 「生きようとする選択肢はないのでしょうか? 」

 

 若葉にとって生きることが最大の成功だった。


生きていれば、恥をかこうと屈辱を浴びようと構わない。


他人の視線は気にしないのが若葉の生き方だった。

 

 「嫌なのよ。四六時中相手の気配を感じるのが。一日中監視されているかと思うと、頭がおかしくなってしまう」

 

 百合が言うには、左肩の治療を受けた後、気づいてみたら自宅で横になっていた。


 しきりに誰かが見ている感じがする。


 ふと顔を上げたら、男がもの言いたげに顔を覗き込んでいた。


 それ以来、男は消えることなく自分をずっと見つめている。

 

 初めは男の視線だけが気になった。そのうち男は実態を帯びてきて息遣いや肉体をはっきり感じられるまでになった。

 

 「女の人ならまだしも、男だから嫌なのよ」

 

 百合は言う。

 

 「男の人特有の異性を意識したオーラや匂いがぞっとするほど嫌なのよ」

 

 四六時中人の気配を感じるからと言って、命を絶つことのほどではない。


 若葉はそう思ったが、あえて口にはしなかった。人によって神経の細やかさが異なるから、主観を述べても無駄だと思った。


 若葉は死体の横でも食事ができる人間だから、繊細さを語るにはふさわしくない。

 

 「お風呂もトイレも寝ているときもずっと奴を意識して神経を張り巡らせているのは疲れてしまう。

はっと我に返ると奴がいるし、一人になってほっとしたいときもぼんやり考え事をしたいときでもずっと私に張り付いて見つめている。

 仕事で喜びを感じるときでも、奴の目が笑っているのを見ると、目に見えてミスが多くなり気力が奪われて投げやりになるの。

 もう限界。発狂しそう」

 

 百合の真剣な訴えを若葉は黙って聞いていた。

 

 「もう疲れた。一人になりたい。一人になって楽になりたい」

 

 百合は呪いを解くために有名な呪術師を訪ね歩いた。


 一昔前に封印された呪術の類だったので、呪縛を解く方法を知るのに時間がかかった。


 方々を訪ね歩いた後、呪解を専門に行う八十歳を超えた呪術師だけが具体的な方法を教えてくれた。

 

 呪いの主は悟という男だと呪術師は告げた。

 

 「私が死んで初めて呪いを解くことができると言われた。でも、簡単には死ねないの。呪いを解くために私を殺そうとした相手に呪いが返って、相手が死んでしまうから。呪いを解くには奴を上回る愛情のエネルギーを示さないと」

 

 百合は続けた。

 

 「呪いを解こうとしてすでに二回失敗して、二人の男が犠牲になったわ」

 

 「肉欲が絡むと不純な気持ちになりやすい。

呪いを解くには、あなたを性の対象と見ない、純粋な愛情を捧げられる相手を見つける必要があると思います」

 

 若葉は自分なりの見解を述べた。

 

 「それができるのはあなたしかいない」


 百合が若葉の目を見て告げた。

 

 若葉は急に不安になった。


 若葉も百合に性欲めいたものを感じたからだ。


 子宮が震える初めての体験。


 今まで生きてきた中で臓器が振動するような体験はなかった。


 百合と接近したことで、若葉は子宮の場所を実感したのだ。これを性欲と呼ばずにはいられなかった。

 

 だけど、と若葉は思う。呪いをかけた悟だって、れっきとした男なのだから百合に女を感じたはずだ。


 だとしたら、完全に性欲を抑えずとも呪いが解ける方法はある。

 

 一番良いのは、百合の身内や彼女の純粋な友達が、深い愛情で包み込むように呪い返しを行うことだ。


 が、呪いを解くのにふさわしい心の持ち主であるならば、一層百合を殺すのが難しい。


 たとえ事情を察して引き受けても、その後殺人を犯した罪人として社会から裁かれてしまう懸念もある。

 

 百合を問題なく殺すには、決闘で殺しが許される護国兵か、法の目を潜り抜けて生きている裏社会の者に限られた。

 

 百合だって下手したら死罪だった。


 すでに男を二人亡き者にしている。護国兵所属の剣士でなければ、即刑務所送りだ。


 これ以上百合を人殺しにせず確実に息の根を止められるのか。

 

 「やってくださる? 」

 

 百合が懇願するように若葉を見つめた。


 吸い込まれそうな黒い瞳に気圧されて、若葉は「はい」と頷いた。


 自分なら百合を苦しまずに死なせることができる。


 遺体処理の仕方も分かっている。


 戸籍未登録のうえ住所不定の人間だから法の目を潜り抜けられる。

 

 不安なのは、呪いの主を凌駕する愛情のエネルギーを見せられるかどうかだ。

 

 思案する若葉の両手を百合が優しく握りしめた。

 

 この人にはもう私しかいない、と若葉は思う。


 やってみなければ何も始まらないし、分からない。


 たとえ失敗したとしても、若葉が死に、百合が生き残るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 若葉が始末屋という正体を明かしたのは、呪い返しを行うために百合を始末する直前だった。

 

 「私は始末屋だから、人の殺し方には自信があります。あなたが一番楽に死ねるやり方を私に選択させてください」

 

 それは若葉なりの愛の形のひとつだった。男の呪いを跳ね返すには、それを圧倒するような愛情で百合を包んでいこうと思った。

 

 百合はベテラン剣士として長年命のやりとりをしてきたので、死への覚悟はできていた。ただ、呪い返しが失敗して若葉を死なしてしまうことを恐れていた。

 

 それを感じ取ったので、若葉は百合を安心させたかった。

 

 「私は死ぬことを恐れていません」

 

 若葉は告げた。

 

 「人を殺すことも恐れていません。だから安心して私に任せてください」

 

 愛情を感じた人間には全てを託せるはずだと思った。


 百合は、呪い返しを頼んだ二人の男性を完全に愛してはいなかったはず。


 本当に呪いが解けるのか、この人に頼んで本当に良かったのか、自分の思いに迷いがあり心が曇っていたのではないか。


 だから、呪い返しがうまく行かなかった。

 

 若葉の心に迷いはなかった。やるべきことを毅然と行い、結果を託すのみだった。

 

 百合は黒髪を持ち上げて、黙ってうなじを差し出した。首の後ろの神経を切れば、思考も感覚も切断される。


 もっとも苦しまない始末の仕方だった。

 

 若葉は百合の白いうなじに刀をあてようとした瞬間、最愛の人を完全に支配したような陶酔感と喜びを感じた。


 これはまずいと若葉は堪えた。


 突き上げる欲に?まれたら、亡くなった二人の男と同じように命を取られて呪解が完遂しない。


 もっと純粋で寛容な愛情を呼び覚ます必要があった。


 若葉は澄み切った空を想像し、神への愛と歓喜に満ちた讃美歌を念じた。

 

 

 

 

 

百合の始末を終えた後、若葉はホテルに戻って身を清めた。仕事後にいつも行うように、風呂に入って一息ついた。

 

この世から百合がいなくなり、とても悲しいはずなのに、心はどこか安堵していた。一時の交わりだったはずの女性の愛と生涯を若葉は掌中におさめていた。


若葉は百合の救世主であり、永遠に特別な存在となった。


この絆と思い出がある限り、この世から孤立しても淋しくなかった。


百合を思い出すにつれ、心はいつも満たされて、自分自身を誇りに思った。

 

湯気の立ったバスタブの中で、何者かの視線に気付いた。

 

浴室の天井から、とてつもなく大きな顔が若葉をずっと見下ろしている。

 

百合を始末した後に突然現れた巨大生首。


これが呪いの正体なのかとぎょっとせずにはいられなかった。

 

困ったぞと若葉は思った。


こんなものに見張られていては頭がおかしくなってしまう。

 

大きな生首はどこにいくのも一緒だった。


入浴中もトイレの中も。


生首ははっきりと大きさを主張しながらも、物理的な形は持たないようで、他の人の目には見えなかった。


どんなに狭い隙間を通っても、それなりの大きさを保ちながら器用に頭上に浮かび上がり、こちらを見下ろしているのだった。

 

若葉は生首に慣れるためにあえてその顔に注目した。

 

目鼻立ちがはっきりした役者のような顔立ちだった。

 

「悟さん」

 

若葉は声に出して呼びかけた。

 

生首から返事はなかった。

 

小一時間ほど見上げ続けているうちに、悟の表情にさしたる変化がないのに気付いた。


見上げる角度によって微妙にシルエットが異なるから印象の違いを感じるものの、基本的には大きな目はずっと見開かれ、口は一文字に結ばれている。

 

睨まれていると感じた眼差しは見つめ続けているうちに愛嬌のあるどんぐり眼に見えてきた。


しっかり閉ざされた口元は不敵な笑みを浮かべて不気味だったはずなのに、見慣れるとお菓子を買ってもらえずに駄々をこねる子供のようだ。

 

悟の顔をぼんやり眺め続けているうちに生首に対する恐怖心が和らいで溜まっていた疲れが一気に噴き出し、いつの間にか眠ってしまった。

 

日頃の睡眠不足を解消するようにすがすがしい朝を迎えた。

 

予定では頭がおかしくなるはずなのに。


なんか調子が狂ったなと天井付近を見上げると、やはり悟が宙に漂っていた。


何もしないし何も言わない。


場所塞ぎの風船みたいだ。

 

出会ってから三日後には、悟はおとなしい同居人と化していた。


行く先々についてきたが、相変わらずの無反応。若葉以外の人間の目には見えなかった。

 

悟を慮りながらも恐る恐る仕事を開始した。

 

仕事のときは極度に集中しているので、傍らの生首に注目している暇はない。


悟は物理的な存在でないためか、熱中する間気配を消した。


若葉の心の状態で見えたり見えなかったりするようだった。


ただ、存在が完全に消失することはない。


一息入れてぼんやり頭上を見上げれば、悟はそこにいるのだった。

 

「奴の顔を見るのも嫌だ」「気持ち悪い」

 

百合の言葉を若葉は時折思い出した。

 

悟は二重瞼で鼻が高い。若葉は一重で鼻が低く地味な印象の顔だから、悟の顔立ちが羨ましかった。


百合と同じく華があるからお似合いの二人になれそうだった。


百合は早まったことをしたのでは。そう思わずにはいられなかったが、あそこまで神経が細かいと、いずれは人生を投げ出したくなるときが来るようにも思われた。

 

若葉は特に欲がなかった。生きていればそれで十分だった。


仕事があり、食べていける。それだけで十分恵まれているのに、向こうから特別な思い出をくれる人が現れた。

 

スタート地点では百合のほうが圧倒的に恵まれていた。


それが今では人生から脱落し、捨て子だった若葉のほうがいろいろなものをつかんでいる。


幸福を得るには人生の流れに逆らわず、じたばたしないほうが良さそうだった。

 

そんなことを考えながら悟を眺めているうちに桁外れの大きさにも慣れてしまった。


あんまり顔が大きいと、等身大の生首の生々しさや不気味さがなく、滑稽でユーモラスな愛すべきものに見えてくる。

 

美人も三日すれば飽きるというが、生首のおどろおどろしさもすっかり薄れてしまう。


若葉は悟の存在に意義を見出そうとがんばった。ただ単にサイズが大きいだけではない、彼は生涯をかけて百合を守ろうとした愛の化身なのだ。

 

いいなあ。百合が羨ましい。これが正直な感想だった。


天涯孤独の若葉には、生涯をかけて愛してくれる人がいない。


全身全霊で自分を受け入れてくれる相手に若葉は出会ったことがない。

 

百合は若葉に好意を抱いてくれたけれど、それはあくまで呪い返しを行うことへの感謝の意だ。


悟の愛情とは比べ物にならない。


悟が愛してくれたとしたら、若葉なら応えることができただろう。


結構ハンサムな顔立ちだから気持ち悪いなんて思えない。

 

一人で懸命に生きてきたから、特定の人間から無償の愛を捧げられるのは嬉しかった。


悟のほうも、若葉というきちんと愛情を受け取ってもらえる女に巡り合えたのだ。


血沸き肉躍る存在だったら、幸せを感じているはずだ。

 

百合との出会いが自分史上最高だと思ったのに、百合は仲介役に過ぎなかった。本当の相棒は悟だった。

 

見上げればいつも悟がいて、うざくもあるが悪くはない。

 

若葉は思いがけない人生の出会いに感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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