第9話 悪魔の話
アジトの天井が崩れるという危機的状況から、何とか身を守ったは良いものの。
狭い岩場の中、俺の身体から立ち上がる黒い瘴気を前に、クレアはなす術もなく愕然としていた。
──封印するという手段が、あるはずなのに。
「助けて……神様……!」
俺の手を握り、すがるように懇願するクレア。
どうしたものか。正直、もう封印されても仕方ないと思っていた。賭けに失敗した時点で死期は悟っていたのだから。
しかし命は続いてしまった。このまま隠し通せるはずもない。ならば覚悟を決めよう。
「落ち着けクレア」
「俺は、最初から魔族だ」
「……………………え?」
「俺は人間ではない」
「い、意味が、分かりません。何を……言ってるんですか?」
クレアの手が震えている──かどうかは、もう離れてしまったので分からない。が、声は震えている。
「ドレインは、瘴気も押さえ込める。常に発動させておけば、な」
わずかだが、証明できる程度には魔力が回復した。俺はいつも通り、瘴気を引っ込めて見せた。
「コントロールを間違えればすぐに放出してしまうからな。お前の肩を叩くたびに多大な勇気を犠牲にしていたのはつまり、そういうことだ」
なるべく怖がらせないよう、言い方に気を付けたつもりだったが。
クレアは後ずさりながら、わなわなと震えている。
「私を……騙していたんですか?」
そうなるか。
「ちが──」
……。
いや、違わない。
俺はクレアを騙していた。
魔王軍を抜け出した俺は、冒険者として息を潜めていた。平和を享受する、ただそれだけのために。
神の怒りを買ったのかもしれない。代償もなしに平和な時間を過ごしてしまったツケが、今こうして押し寄せてきたのだ。
「すー……はー……」
落ち着きを取り戻すためなのか、クレアは深呼吸している。
かと思いきや。
自分の首にナイフを突き立てている。
初めて会った日、俺が後ろを向いている間に『おまじない』とか言って出していたあのナイフ。護身用なのかもしれないが、役に立っているのを見たことがない。それどころか今は──
「ま、待て!」
何とか力を振り絞り、ナイフを持つ手を押さえようとするが。
「近寄らないで下さい!」
深呼吸したにも関わらず、クレアの息づかいは余計に荒くなっている。近寄るなと言っておきながら、瞳の周りまで赤くなった目は助けを求めているように見える。
後ろめたさと悔しさと悲しさが混ざり合い、感情が行き先を見失っているようだ。
「はぁ、はぁ……うっ……」
結局クレアは自分の首を切ることなく、糸が切れたように仰向けに倒れ込んだ。
「私は最低ですね……魔族を仲間にして。教団に大司教様を襲わせて。閉じ込められていた人を容赦なく封印して。守ろうとすればするほど、周りを傷つけてしまう」
クレアは虚ろな目でつぶやき続ける。
──私は悪魔です。
──私なんか。
──何の役にも。
消え入りそうな声だが、この閉ざされた空間では。反響を重ねて俺の耳に突き刺さってくる。
悪魔……か。お前のせいじゃない、なんて無責任なことは言うわけにはいかない。そもそも俺の言葉は届かないだろう。しかし……いや。難しいことを考えるのはやめだ。
「俺は寝ようと思う」
「だが、うるさいところでは眠れない体質でな。羊でも数えようかと思ったが、ここは──」
「数え切れないほどの罪を重ねた、悪魔の話をしよう」
「良いだろう? もちろん聞かなくて良い。お前はそのまま出来損ないの子守唄を続けていれば良い」
クレアはピクリとも動かない。唇を除いて。
「《洗脳研者》ゼギル。魔王軍幹部、悪魔のような男だった」
「人間は知らないだろうが、魔族では少子化が問題になっていてな」
「同じ親から子供が二度生まれることなど滅多になかった」
「その状況下で俺の親──ヴァンパイア一族である母親は、妹と俺を産み落とした。その程度ならただの奇跡で済ませられたのだが」
「不幸なことに、数百年に一度の幸運が待ち受けていた。妹と俺はヴァンパイアでありながら、血を吸わずに魔力を喰らう──」
「《血吸わぬヴァンパイア》だったのだ」
「俺たちの誕生を誰よりも喜んだのが、《洗脳研者》ゼギルだった。魔王軍幹部の中で少子化対策の研究を担うアイツにとって、俺たちが絶好の研究対象だったからだ」
「俺たちは幼い頃から研究に付き合わされたが、アイツは恐ろしいほどにドレインに執着していた。
その頭は髪の毛を失って光っているというのに、生み出されるのは悪魔のような仮説で。生死を問わず、考えられる限りの実験が行われた」
「幼いながらに印象的だったのは、変身能力の開発だったな」
「『魔力のほとんどを他人の魔力と入れ替えれば、変身できるのではないか?』という仮説だったようだが、失敗に終わった」
「俺の魔力を取り込みすぎた男が、変身できないまま目の前で悲惨な死を遂げた。食事と同じだ。蛙を食べても決して蛙にはなれない」
「他にも『若者から吸収した魔力を濃縮して取り込めば、若返るのではないか?』という仮説をもとに若返りの秘薬が試作されたり、魔力の衰えた者に魔力を注ぐための呪印が開発されたりしたらしい」
チラッとクレアの様子を窺う。まだブツブツ何か言っている。
「十歳になる前だったか。ある日、運命の時が訪れた。俺たち家族は何者かの襲撃を受けた。──妹を除いて」
「両親は亡くなり、俺は瀕死の重傷を負った。あとから聞いた話では『ドレインの能力を狙った冒険者のしわざ』だったらしいが、明らかに嘘だった。
人間が黒い瘴気をまとわないことぐらい、幼い俺でも知っていた」
「俺は意識が朦朧としていた。妹に別れの言葉を告げた気がするくらいには弱っていた」
「だが、逆だった」
「狙われていたのは妹のほうだった。ゼギルはこの時ぞとばかりに《洗脳研者》の力で妹を洗脳した。
『両親を殺した冒険者に……兄を痛め付けた冒険者に、復讐しないか?』と」
「ゼギルの研究は、殺戮魔法の開発にまで広がっていた」
「『魔族特有の黒い瘴気をドレインで抑制すれば、人間に紛れ込めるのではないか?』という仮説は、この時に立てられた。
それは結局正しかった。人間と魔族の違いは、邪悪な瘴気の有無を除いてほとんどなかったからだ」
「そうして人間に紛れ込むよう唆された妹は、最後の仮説を自らの身体で検証することになった」
「『ドレインの出力を限界まで引き上げれば、全てを引き寄せる強大な魔法となるのではないか?』という悪魔的な仮説のために、妹は全ての魔力を振り絞った」
「《自滅魔法》と呼ばれたその殺戮魔法は、周囲の冒険者を無慈悲に巻き込んだ。人間の目には原因不明の事故に映ったかもしれないが、魔王軍では大喝采を浴びた」
「『お前の妹は魔族の鑑だ』『お前も将来有望だ』『幹部の席を用意してやろう』ともてはやされた」
「当然、気分は晴れなかった」
「ただ、ゼギルのやつに復讐する気は不思議と起きなかった。復讐したところで、魔王軍にいる限りは同じようなことがまた起きる。俺はそれが怖かった。それに何より──」
「妹は洗脳されていたとはいえ、最期は晴れやかな笑顔だったらしい。それがせめてもの救いだった」
「俺は魔王軍を抜け出すことを決意した」
「追っ手の魔力を喰らって生き長らえながら、瘴気を隠して冒険者に身を置いた俺は」
「苦手な回復魔法を何とか修得して、ダークプリーストとして生きる道を選んだ」
「平和を願った、その結果がこれだ」
恐る恐るクレアのほうを見る。口はもう閉じているようだ。
──が。
目も閉じている。寝息を立てていた。
こいつ、本当に聞いてなかった……!
だとすると、その頬を伝っているのは何の涙なのか。
まあ良い。ひとまず落ち着いてくれたなら、まあ良い……か。
静かになったせいか、瞼が重たくなってきた。
……。
「はっ……!」
何かに呼ばれたような気がして目が覚めた。俺も寝ていたらしい。
クレアは壁のほうを向いて寝ているようだが、後ろ姿だけで分かることが一つあった。
背中に汗をびっしょりとかいている。当然だろう、ここは蒸し暑いのだ。岩に囲まれたこの空間に、換気できる隙はほぼ見当たらない。
その上、着ているのは長袖のシスター服。手首から足の先まで布で覆われていては暑苦しいはずだ。
クレアに声をかけようと近づいたところで。伸ばした手は払いのけられてしまった。依然として後ろを向いているクレアの、手の甲で。
〝来ないで、化け物!〟
昔を思い出した。冒険者の生活に慣れていなかった頃、コントロールを誤って瘴気を漏らしてしまった時のことを。
そうくるか、仕方ない。
「ここでお別れだな」
「俺はここから出る。魔力は充分に回復したからな。今から岩の下敷きになって死ぬお前に対して、ヴァンパイアの力を隠す必要などないわけだ」
クレアの反応はない。
「しかしお前が守護聖徒だと分かった時は本当に驚いたぞ。力でどうにかなる普通の冒険者とはわけが違うからな。いつ正体がバレて、その理不尽な封印魔法を喰らうのかとヒヤヒヤしたものだ」
「俺はあの日から、お前を殺すことだけを考えていた。マーシャがお前を人質に取った時なんか、最大のチャンスだったのにな。なぜドレインなど仕掛けていたのか、理解できない」
「そうだ、マーシャは俺を仲間に誘っていたな。似た者同士仲良くできるかもしれない」
「……じゃあな、クレア」
俺は大きく息を吸い、魔力を込めた手で頭上の岩へ狙いを定めた。
そして脱出するために魔法を放とうとした、その瞬間。
俺の手を何者かが掴んできた。
「あなたなんか……嫌いです!」
そうか。
「声が、震えてるじゃないですか!」
そう、なのか……?
「心にもないことを言って……自分で自分を傷付けるあなたなんか!」
「大嫌いです!!」
……。
……。
「ふふ……今のお前なんか、もう全然怖くないぞ。──めちゃくちゃに泣いているお前なんか」
掴みかかってきた泣き虫の頭にそっと手を置く。
懐かしい温かさを感じた。半分くらいは、本音だぞ。
「伏せていろ……!」
俺は心置きなく魔力と瘴気を解放した。
「──魔槍《メタノア》──」
左手から放たれた無数の黒い槍が、頭上の岩壁を突き抜けていく。空が見え、岩が崩れてきたところで。
「──《瘴撃波》──」
迫り来る岩を吹き飛ばすと同時に、クレアを抱えて地上へ飛び出した。自分でも常識を疑うレベルで瘴気を発しているが、クレアはもう気にしていない様子だ。
「や、やっと出られましたね……」
「ずいぶんと遠回りしてしまったが」
「誰のせいですか」
えっ、俺のせいか? 俺のせいか……。
外はもう朝になっていた。途方もなく暗く長い夜は、ついに明けたのだ。翳りを見せた心に光が射し込む。今日の天気は晴れのようだ。
眩い光に目を慣らそうと格闘していたところで。
「えっ……?」
唐突に、クレアがビクッと背筋を伸ばした。
「どうした?」
「第一位アルフレッドさんからの伝令魔法、緊急招集です」
「『大司教ドルトン様が封印された』と」