01.浮気現場に遭遇する
豪奢なシャンデリアに照らされた優美な大広間。
扉や柱をはじめ、至る所に緻密な彫刻が施された壁面。
磨き上げられた大理石の床に、美しく幻想的な天井画。
どこを取ってみても豪華絢爛な王宮の広間では、今宵夜会が開かれている。
一流の楽団が奏でる音楽に身を任せて踊る者。
最高級の料理を愉しむ者に会話に華を咲かせる者。
そんな風に優雅に時を過ごす貴族たちの隙間を縫って、伯爵令嬢であるアナスタシアは婚約者で侯爵令息のビクトルを探していた。
エスコートをして貰って入場し、最初のダンスを踊った後、すぐに分かれてそれぞれの知り合いに挨拶に行ってしまってから、彼とは顔を合わせていない。アナスタシアは眉間にしわが寄りそうなのを必死で抑えて、婚約者の顔を見落とさないように、人々を躱しながら歩いていた。
一見優雅な夜会も実際は社交の戦場。
アナスタシアは、媚を売るつもりはないが、貴族令嬢としての礼儀と責務を果たすべく、見知った人を見つけては挨拶と情報交換をしていたのだが、その過程で、ビクトルが大変お世話になっているマルティン伯爵にまだ挨拶をしていないことに気づいたのだ。
ビクトルはワイズ侯爵家の嫡男。
まだ学生で十七歳ではあるが、次期当主として日々勉強中の身であり、同い年のアナスタシアも婚約者として共に学んでいるのだが。
ワイズ侯爵領は、先の天候不順により大打撃を受けている。
収穫を目前にした作物が被害に遭い、大規模な土砂災害にも見舞われたのだ。
アナスタシアの生家であるムーンレイ伯爵家からも援助はしたのだが、ワイズ侯爵領はもとより財政難であり、すべての領民を助けるには至らなかった。
その際、隣領というだけで手を差し伸べてくれたのがマルティン伯爵だ。
非常時の食料を分けてくれたうえに復旧のための人員まで貸してくれた。
その助けがあって、ワイズ侯爵領は何とか生き延びている。
それなのに、恩人たる方に挨拶もしていないとは。
復旧活動に必死で、ご本人にはまともに御礼に行けていないと聞いていた。
やっとのことで目途が立ち、こうして夜会にも出れるようになったのだから、この機会にきちんと挨拶しておくべきだと思うのは当然だ。
アナスタシアは、恥ずかしいやら情けないやらで、その感情が顔に出てしまわないように必死に平静を装ってビクトルを探していたのだが、王家主催の夜会だけあって、参加者が多いこの会場での人探しはなかなか大変だった。
そして、舞踏会場ではその姿を見つけられず、一か八かで中庭のほうに探しに出てみたところでやっと婚約者の姿を見つけることができた。
ただし、見つかったのはいいのだが、話しかけられる状態ではなかった。
「ビクトル様、愛しています」
「俺も愛しているよ」
アナスタシアの視線の先には、ふたりだけの世界を作って見つめ合っている婚約者とピンク色の髪をした小柄なご令嬢がいた。
アナスタシアからふたりの様子がしっかりと見えているということは、彼らからもこちらの姿が見えるはずなのだが、まったく気づく気配はない。
婚約者から甘い言葉など聞いたことがなかったアナスタシアは、彼がそんな台詞を言えることにびっくりしつつも、どうしたものかと動けないでいたら、彼らは遂に抱きしめ合い、唇を重ねた。
目の前で繰り広げられる熱烈な様子に、いよいよ声をかけづらくなってきたのだが、身じろぎしてしまった際に、うっかり、落ちていた小枝を踏んでしまったようだ。ポキッと鳴った小さな音に、ビクトルが反応した。
「誰だ!」
音のした方を振り向いたビクトルは、それでも令嬢を離さなかった。
その様子にアナスタシアは呆れながらも感心すらしたものだ。
「……エスコートした人間をお忘れですか?アナスタシアですわ」
「…っ!」
ビクトルは、まさか見つかるなんて、みたいな顔をしているが、中庭は解放されており、誰が来てもおかしくはない場所なのだから、アナスタシアでなくとも誰かには見られる可能性は高かっただろう。
「ここで何をしているんだ?」
「それはわたくしの台詞ですけれど」
アナスタシアからしたら、本当に、そっくりそのままお返ししたい台詞だ。
ビクトルは目を泳がせて、何とか言い訳しようと頭をフル回転させている最中のようだが、腕の中の令嬢は無駄に勝ち誇った顔をしていた。
確かに婚約者の浮気はよろしくないのだが、正直なところ、アナスタシアはこれまでビクトルに愛情を感じたことはなかったため、大したダメージは受けていない。悲しいとも悔しいとも何とも思っていなかった。ただ、こんなところで堂々とよくやるな、と思っただけだ。
「ビクトル様がマルティン伯爵にご挨拶していないと聞いて、探しておりましたのよ。恩人への挨拶はおろか、まさか、夜会の最中に、婚約者を放って他のご令嬢と逢引しているとは思いませんでしたわ」
「………逢引ではない」
「違いますの?では、ここで何をなさっていたんですの?」
「………彼女が気分が悪くなったから介抱していただけだ」
「介抱?介抱で、抱き合ったり口づけを交わしたりするんですの?」
「…っ!」
ビクトルは目を見張っているが、もしや見られていないとでも思っていたのだろうか。あのタイミングならば、見られていたことを覚悟のうえでごまかそうとしているのだと思っていたアナスタシアは、ビクトルのお目出たい思考に更に呆れていたのだが、そこに、ピンクの令嬢が割って入ってきた。
「いきなりやってきて何なんですか?邪魔しないで!」
「……自分の婚約者と話をして何がいけないのです?あなたこそ何なんですの」
とは言ったものの、アナスタシアはこの令嬢を知らないわけではない。
ビクトルがこのピンク令嬢と不貞行為をしているのは周知の事実だからだ。
三人は同じ学園に通っており、学園では、ビクトルとピンク令嬢が人目をはばからず仲睦まじくしているため、多くの人がその姿を目撃している。
親切なのか嘲りなのかは人によるが、ビクトルとピンク令嬢の噂話をわざわざ聞かせてくれる同級生もいるため、彼女が男爵令嬢だということも知っている。
そうした不貞行為に対して、アナスタシアはビクトルに対して苦言を言ったことはあるが、ピンク令嬢には直接物申したことはない。だから、この令嬢と対面したのは初めてである。
貴族社会の常識としては、名乗り合っていなければ知り合いではないし、知り合いであっても、何らかの事情がない限り、話しかけていいのは上位貴族からであって、下位貴族は許可がなければ話すことは適わない。
ましてや、アナスタシアはビクトルの婚約者なのだ。
先ほどの令嬢の勝ち誇った顔を見るにそのこともわかっているはずだ。
そのうえで、堂々と浮気をしたあげくに、男爵令嬢が伯爵令嬢に楯突くなんてあり得ない。
そもそも、この夜会に男爵令嬢がいることだっておかしいのだ。
王家主催の夜会は伯爵家以上の者しか参加ができないことになっている。
大方ビクトルが紛れ込ませたのだろうが、参加資格のない夜会に悪びれずに参加して、婚約者のいる相手と逢引をしたうえに、自分の家よりも上位の貴族に無礼を働くだなんて、自分のしていることがわかっているのだろうか。
あまりに常識外れなふたりに、アナスタシアは思わず目を眇めてしまったが、ここでビクトルが口をはさんできた。
「彼女は、シュード男爵家のマリア嬢だ」
馬鹿正直に紹介をしてきたビクトルに、アナスタシアは一瞬、言葉を失った。
これまでの会話を含め、事実、突っ込みたい事しかないのだが、なんとか取り繕って返事をしようと口を開く。しらじらしいとは思うが、他に言うことがない。
「さようでございましたか。はじめまして。わたくしは、アナスタシ」
「知ってるわよ!」
これまで何とか冷静に努めてきたアナスタシアだが、これには目を見張った。
まさか、伯爵令嬢が男爵令嬢に挨拶をしているのにも関わらず、それを遮られたうえに怒鳴られるとは思ってもみなかった。
恐らく、この後くだらない言い訳をして穏便にすませようと思っていただろうビクトルも、さすがにびっくりした顔でピンク令嬢を見ていた。
「見て分かったでしょう?私とビクトルは愛し合っているの。婚約者をつなぎとめることもできない哀れな女のくせに、わざわざこんなところまで追ってくるだなんて、本当にみっともない人だわ。縋っても無駄よ」
いつアナスタシアが縋ったというのか。ため息をつきたくなるのを我慢して、アナスタシアは一応忠告しておくことにした。
「あなた方のお気持ちはどうであれ、わたしとビクトル様は婚約中なのですから、おふたりが不貞行為を続ければおふたりの評判に傷がつきますよ」
「はあ?傷がついたのはあなたでしょう?ふふ、かわいそうにね」
「確かに、わたくしにも傷は付きますけれど。ですが、憐れんでいただく必要はございません。お気遣いいただいて、恐縮ですわ」
「何よ、負け惜しみ?本当に哀れね。とにかく、あなたの出る幕ではないのよ。愛されないからって口を出さないでよね」
ピンク令嬢は愛にこだわっているようだが、アナスタシアとビクトルの婚約は政略的なものであり、アナスタシアは特に愛を求めてはいない。もちろん、良好な関係に越したことはないが、愛はなくとも、お互いに課せられた役割をきちんと熟して、家族や領地を守っていければいいと思っているだけである。
本来ならば信頼も欲しいところだが、元々大してなかったそれは、今となっては、粉々になってしまった。
だが、ピンク令嬢にそんなことを言ったとしても、きっと平行線のままで話は通じないとと思ったアナスタシアは、矛先をビクトルに変更した。
「ビクトル様」
「……なんだ」
「おふたりが愛し合っていることはわかりました。ですが、結ばれたいと言うことでしたら、ビクトル様とわたくしとの婚約を解消するのが先ではありませんこと?わたくしと婚約しているのにも関わらず、節度を守れず、そちらのご令嬢と不貞を働いているこの状況では、わたくしも黙っていることはできません」
アナスタシアとしては、常識的な行動をとり、手順を守ってくれるのであれば、婚約がなくなったとしても何ら問題はない。婚約という家と家との契約に対して誠実でいてほしいだけなのだ。
そんなアナスタシアの言葉を聞いたビクトルは、ピクっと眉を動かした。
どの言葉に反応したのかはわからないが、聞く耳はあったらしい。
「婚約破棄してもいいのか?」
「構いませんけれど」
「何、だと………?」
アナスタシアが素直に答えると、ビクトルは目を見開いて驚いていた。
ビクトルはピンク令嬢に懸想しているわけだし、常識的な行動を説いただけで、そこまで衝撃を与えたつもりはなかったため、アナスタシアは彼のその反応に少し驚いた。願ったり叶ったりなのではないかと思ったのだが。
「婚約破棄だぞ!?」
「ええ、ちゃんと聞こえておりますわ」
「婚約破棄したら俺の婚約者じゃなくなるんだぞ!?」
「そうなりますわね」
我に返ったビクトルは、アナスタシアの反応が気に入らないのか、イライラしながら同じことを何度も怒鳴ってきたが、アナスタシアからしたら、なぜビクトルが怒っているのかがわからない。
というか、さっきから「婚約破棄」と言い続けているが、なぜ婚約破棄なんてわざわざ傷を負う方法を取りたいのか。破棄ではなく解消にしておけば、それなりに穏便に済ませられるだろうに。
だいたい、この婚約はワイズ侯爵家からの申し出であって、こちらから頼んだことではない。我がムーンレイ伯爵家は商売が順調で財力があるため、婚約したときから財政的に苦しい侯爵家に援助しているのだが、もしや、ビクトルはそのことを知らないのだろうか。結婚の支度金だって先払いしているのに。
今回はビクトルの不貞行為による婚約破棄なのだし、不貞行為はおろか、まじめに侯爵家に花嫁修業に行っていたアナスタシアに瑕疵はないはずだ。
だから、援助金や先払いした支度金に加えて慰謝料もほしいところだが、侯爵家の資金繰りを知っている身としては、それらを請求するのはちょっと心苦しいものがある。このあたりはお父様に相談しよう等と考えていたら、いつの間にかビクトルの顔が真っ赤に染まってぷるぷるとしていた。
ちょっと考え事をしていた隙に何かあっただろうか、とアナスタシアは首をかしげてしまったのだが、その行為も癇に障ったようで、ビクトルは更に怒りを増した顔で口を開いた。
「では、君とは婚約破棄させてもらう!」
「承知いたしました。父に伝えておきますわ」
「後悔しても遅いからな!」
するわけがない。とアナスタシアは思ったが、それを口に出さないほうがいいことくらいはわかっている。ビクトルはもっと怒りそうだし、最悪騒ぎにもなり兼ねない。
ビクトルを探していた本来の用件、マルティン伯爵の件についても忘れたわけではなかったが、ビクトルと縁が切れるのであれば、おせっかいはもうやめようと思い直し、アナスタシアはそのままその場を辞した。
「ビクトル様!うれしい!これで私たちも婚約できるのね!」
去り際に、ピンク令嬢によるそんな言葉が聞こえたが、実際にはそうはうまくいかないのではないかとアナスタシアは思う。
ピンク令嬢の実家の財力がどれほどあるのかは知らないが、ワイズ侯爵家の貧困加減は結構なものだ。それを賄えないのであれば婚姻は難しいだろう。
ま、いっか、と深く考えるのはやめて、アナスタシアは、夜会の舞踏会場ではなく王宮内のとある場所に立ち寄ってから、あっさりと帰宅した。