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浄水の星


 白衣の男はキセルを口元から離すと、胸いっぱいにため込んだ煙を吐き出した。吐き出された煙はぶくぶくと音を立て、空気と共に乳白色の泡を形成しながら、浄水の中を上へ上へと昇っていく。

「おもしろいことは起きないもんかね……」

 キセルをひっくり返し雁首をワイングラスの淵に打ち付けると、灰はゆらゆらと底へ積もっていった。グラスはその半分が灰によって満たされており、下層に向かうほど堆積物の黒色が増していく。自重によって圧縮されてはいるものの、密度を均せばグラスのおよそ四分の三は灰に占められてしまうのだろう。灰皿の手入れを何週も怠るほど、その男は怠惰だった。無論、白衣に身を預け曲がりなりにも学者の恰好をしている以上、男は初めからこのようだったわけではない。

 白衣の男――ミルガイは天才だった。ある絵本から着想を得たミルガイは、世界で初めて航空宇宙工学の分野を創成し、以降五百年に渡り宇宙開発に尽力した。絵本に描かれた内容が真実であると狂信していたミルガイは、それを証明するため、一生の全てを研究に費やした。比類なき彼の閃きと理論は、自らの狂信を打ち破るには十分すぎるほどで、賢しくも持論のすべてを反証し終わったミルガイは、現在に至るまでの五十年間を浄水に満たされた自室のなか、ただの腑抜けとして暮らしている。

 「ここら辺にあったっけな」

 郷愁に駆られ、ミルガイはすがるような思いでお気に入りの絵本を探した。彼のなかでは既に聖書の域へと達したそれは、ムールガイによって纏め上げられた反重力航空理論基礎と肩を並べている。

 絵本のタイトルは水の惑星。長年の愛読により色艶は失われつつあるが、ミルガイは初めて見た時の感動をそのままに見ることができた。白い波を立てながら蒼く広がる水面、光を飲み込みながらだんだんと色の濃さを増していく海中、黒色に見えながらも、その実真っ青である深海。描かれた全てが自分の暮らす星とは程遠く、現実との落差に打ちのめされる。

 理想の世界とは違い、ミルガイの生きる世界では一般的に水と言えば黒く濁った水のことを指し、浄水という言葉が透きとおる水を指す。自室から一歩外に出ればたちまち汚染水に囲まれてしまう彼にとって、絵本の世界に浸るのは何よりも大事なことだった。

 最後のページに指をかけた時、ジリリと喧しく黒電話が鳴り、ミルガイの心臓はきゅうっと小さくなった。じつに十年ぶりのことである。驚かされた仕返しに無視してやろう、と気を張っていたミルガイだったが、8コール9コールと鳴り続ける黒電話に不安感を煽られ、遂には受話器をとってしまった。

 「もしもし、何か用でも?」

 「わ、出てくれましたか!お久しぶりです、ムールです。直接伺ったほうが早いかとも思いまして、いまそちらの研究室に向かってるところです」

 「何か用でも?」

 「そりゃあもう、大変なことですよ。先生が聞いたら飛び上がって驚くくらいの」

 「勿体ぶらないで教えてくれないかい」

 「ああ、そうですね。あなたの言うところの、水の惑星が発見されたんです」

 「それは……」

 ミルガイが受話器を耳にあて固まっていると、扉が勢いよく開いた。部屋に飛び込んできたのはムールガイだ。

 「これがリロネック望遠鏡が捉えた星の姿です。表面のおよそ七割が水に覆われ、残りは大地のようです。内部がどうなっているのかは分かりかねますが、全ての水面が透き通るほど綺麗なのは確かですから、もしかしたら星の内部には大規模な浄水装置が搭載されているのかもしれません。少なくとも、我々の住んでいるこの星とはわけが違います。ちっぽけな汚れが全水球上を蝕むようなことは無いんですよ」

 まくし立てるように推論を並べるムールの声は、もはやミルの耳に届いていなかった。おさまらぬ興奮と歓喜から、涙が溢れ出てしまう。部屋いっぱいに満たされた浄水が少しづつ汚されていくのを、ミルガイだけは認識していた。

 「ここから先は、私の領分だろう」

 ミルガイは白衣の皺を伸ばした。いつの間にか投げ出されていた絵本は机の上で青々しく、光を受けてぬめりと輝いていた。


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