花びらの湯
温泉に浸かっていて思い付きました。
もしも、天国や極楽浄土というものが存在するならば、きっとここのような場所ではないだろうか?
綾香は立ち上る湯気に包まれて、熱いお湯に身を浸しながらいつも考える。
硫黄の混ざった湯の香り、生まれたままの姿で温泉の間を行き来し、めいめいにくつろぐ女性たち。
何人かで露天風呂の縁の岩に腰掛けてお喋りしている女達もいれば、一人で蛸のようにぐんにゃりと手足を出して壺湯につかっている女もいる。
胸が膨らみ始めたばかりの子供も、若い母親も年老いた老女も、みなそれぞれに生まれたままの姿は美しい。
しかも、先週末の冷え込みと今週の暖かさで露天風呂から眺める桜も満開になった。
綾香は夜勤明けの平日の朝に此処『極楽湯』に来るのが唯一の楽しみだった。
疲れて凝り固まった手足をお湯の中で、う〜んと伸ばし、自分で揉みほぐす。
掛け流しのお湯の流れる硫黄の噴出口が年月をかけて蜂の巣のように黄色く変色している。水圧でお湯の通り道の岩が真ん中で削られて左右に広がっているので、いつも不謹慎ながらも女性器のようだと連想してしまう。
土色の温いお湯の中にいると、女性器をくぐって生まれる前の母親の胎内に帰り、羊水に守られているような気分になる。
露天風呂へと、ひとりの年取った老女が歩いてくる。
前のめりに屈み、膝をカクンカクンと折り曲げていることから、歩行が不安定なのだとわかる。
ゆっくりとした動作で、かがんで露天風呂へ入ろうとするところで、綾香はざぶざぶとお湯の中駆け寄り、思わず手が出てしまった。
「大丈夫ですか?まず手すりにつかまって、右足からゆっくり下ろして入ってください」
綾香は介護士である。そのまま左足から入ろうとすると、バランスを崩しそうだった。危険な場面に出くわすと反射的に身体が動いてしまう。
綾香の誘導で無事に湯船に入った老女は丁寧に頭を下げてお礼をいった。
「いえね、危なっかしいのは分かってるんですよ。でもね、お湯に入ると膝の痛いのが少しはとれる気がしてねぇ」
「そうでしたか、私もそうです。肩と腰が痛くなると此処に来て温めているんです」
あら、お若いのに何で?と、老女が意外そうに訊いてくる。
綾香が介護の仕事をしていることを、ここで話題にする気もないが、特に隠す必要もない。
「あら、まぁそれじゃ、わたしももう少し歩けなくなったら、あなた達のお世話になるかもしれないから、その時は、どうか宜しくねぇ」
一通り仕事の話をしたあと、老女はそういって深々と頭を下げた。
今は一人暮らしだが身の回りのことはひととおり自分でできているという。
「でも、どうして介護士になられたの?いまは人手不足で若い人なんか、なり手がいないのでしょう?」
綾香も四十路に手が届きそうなのだけれど、それでも倍近く生きてきた老婆にとっては若く感じる年齢なのだろう。
「私、小さい頃に父が家を出て行って、母も仕事でほとんどいなかったから祖母に育てられたんです。だから、お年寄りってなんだか、親しみが湧いて、お世話してると落ち着くっていうか…好きなんですよね」
お湯はいちど熱いとクレームがきてから、設定温度をぬるめにしているせいか、まだ浸かっていてものぼせそうにはない。
どこから散っているのか、桜の花びらが数枚風に舞って湯船に落ちてきた。
。
母親に連れられた2、3歳ぐらいの幼児がキャッキャいいながら露天風呂に入ってきた。
「昔はあたしも、ああやって子供を銭湯に連れて行ったものだよ」
老婆の髪のにおいなのか、かすかに乳香のかおりが漂ってくる。
「もっとも、長いことスナックをやってたから、連れてこれるのは夜遅くなってからだったけど」
綾香も日勤のあと、同僚と食事をしてから、深夜に温泉に訪れることも度々ある。
日付が変わる頃に入ってくる子供を連れた母親達が、水商売なのだろうなということは、漠然と感じられていた。スナックという昭和の響き。
よくよく見ると、いまは年齢を重ねて皮膚は緩く重力に負けてはいるが、昔は豊満で魅力的な肢体だったのだろうなと想像はできる。
見るともなしに湯船に目を落としていると、濁ったお湯に隠された老女の乳輪の上に桜の花びらが乗っている。
いや、花びらではない。
楕円の片方を尖らせ、もう片方に三角形の切り込みを入れた桜の花びらのようなピンクの痣だ。
老女と交わした言葉はそれぐらいで、特に多くを語り合ったわけではない。
彼女が湯船を出る時に綾香も付き添い、滑りやすい石畳みの通路を一緒に歩いて、無事に館内の洗い場に着くところまでを見送った。
老女は何度も綾香にお礼をいって鏡に向かい、シャワーの前の丸い椅子に腰をかける。
乳香のかおりは老女がいつも身に纏っているものだろう。髪を洗えばシャンプーの匂いで落ちてしまう。
ジャグジーにハーブの湯、炭酸水温泉にサウナと、ひととおり周って堪能した綾香は、脱衣場に向かい身体を拭いたタオルを巻きつける。
お決まりに自販機のコーヒー牛乳を買って飲むと、生まれ変わったようなスッキリとした気持ちになった。
そういえば、父が出て行ってからしばらくして、母も綾香を祖母に預けて出ていってしまったのだが、いつか母に夜中の銭湯に連れられていった記憶がある。
綾香の風呂好きは、遡ればその経験がきっかけとなっているのかもしれない。
たしか、祖母が教会に通っていたこともあり、祖母も母も乳香によく似た香りの香水をつけていた。
抱きかかえられて浸かった湯の中で、母の乳房の上にも、桜色の痣を見たと思い出したのは、
強い春の風が花びらを散らし、湯上りの身体の火照りを冷ました帰り道だった。
fin.
初投稿です。宜しくお願いします。