トイレの④
「美香ねぇ。怖いよ……ここから離れよ?」と新町は僕にとって嬉しい提案をしてくれた。
恐怖に包まれた彼女たちは新町の提案に従って今度こそ女子トイレから走って逃げて言ったようだった。足音は相当遠くまで行ったあと聞こえなくなったので、今度こそ僕は女子トイレからの脱出を果たすことになった。
図書館に戻ると、鶉野先輩はお気に入りの本を読みながらさっきと同じ席に座っていた。僕が戻ってきたのを見ると、「あら、遅かったわね。何かあったの?」となんでもないように僕に聞いた。
僕はばくばくとなり続けていた心臓を抑えるように深呼吸をして今さっき起こったことを鶉野先輩に詳細に報告した。すると鶉野先輩は。
「はははは!なにそれ!おっかしい」
笑った。高らかに笑った。でも僕は自分がバカにされている事よりも口を大きく開けて笑う先輩の表情に夢中になってしまった。
「おかしくなんてないですよ。僕は人生の危機だったんですから。笑い事じゃないです」
「ごめんごめん。でも。あははは。おかしくって。つい」
「ったく」
「でも、これで事件が解けたみたいね」
高らかに笑った後、先輩は妙なことを言った。
「へ?」
ついひょんな声を出した僕を先輩は、なんだこいつみたいな目で見てきた。
「わからないの?本当に?」
「わかるって何がですか?」
と僕が聞くと先輩は大きなため息をついた。
「あなた、せっかく自分の人生を無意にするような決定的な体験をしておいて、それからなにも学ばないなんて。愚かね」
「どういうことなんですか?そんなに偉そうに言うなら説明してくださいよ」
僕はあまりの言い草に煽るように言った。すると先輩は、やれやれと言った感じで首を振ると、静かに口を開き出した。
「仕方ないわね。それじゃあヒントを出してあげましょう」
「ヒント?答えを教えてくださいよ」
「最大のヒントは、あなたがトイレの雅子さんになったってことよ」
先輩は僕の言葉を無視して言った。しかし、そのヒントを聞いてもしっくりとこない。一体何が言いたいのか。僕がそれを聞いてもウンウン唸っているだけなのを見て、先輩は呆れた様子だった。
「わかったわよ。理解力の乏しいあなたにちゃんと説明してあげるわ。話を聞いただけの私がどうして事件の真相がわかったのか」
さらっとけなされたが僕は黙って先輩の話を聞いた。
「あなたは浜崎さんが見たというトイレの雅子さんの再現を行なったってわけ。不意にではあるけどね」
「再現?」
「ええ。さっきあなたが意に反してトイレの雅子さんになりすましてしまったとき、一番動揺していたのは誰だった?」
先輩の問いに僕は記憶の中をたどった。しかし、みんな一様に驚いて怖がっていたので誰が特にと言った記憶はなかった。
「言葉が悪かったかも。それじゃあ、様子が一番異なっていたのは誰だった?」
「とは言っても……彼女たちとあったのはお昼休みのことだったし」
「あのねぇ。話を聞いてただけの私でもわかったのよ?もっとちゃんと考えてみなさい」
先輩は今日はじめて会ったばかりの僕に懇切丁寧に向き合ってくれているようで、そう簡単に解説してくれはしないようだった。まぁ、それは単に先輩の性分なだけなのかもしれないが。
「自分で?」
「そ。自分で」
先輩にそう言われて僕はまず浜崎さんたち一人一人の特徴を思い浮かべた。
浜崎美香。ギャルのような外見で口は悪い。取り巻きたちを率いているようにも見えるが、取り巻きたちに優しく見守られている感もある。おそらくビビりで今回のトイレの雅子さんの件に関して恐れている。
新町凛菜。浜崎を慕っている様子で、おっかなびっくりな態度。話すのも一苦労といった感じ。
矢野寧々。僕と同じく特待生で、浜崎と対等に話す。理路整然とした口調の女の子。
佐藤来夏。いたずら好きの少女。浜崎たちのグループのムードメーカーで、トイレの雅子さんの件に怖がっていないようだった。
「ん?」
「……何か気づいたようね。言ってみなさい?」
先輩は先生のような口調で僕に語りかけた。
「佐藤さん……トイレの雅子さんの件について全然ビビってなかったらしいんですけど、さっきはめちゃくちゃ動揺していたんですよね」
「ふぅん?それで?」
試すような目で見てくる先輩を見て僕は背筋がぞくぞくした。しかし、考えるのはやめない。怖がっていないはずの佐藤さんが怖がっていて、僕がトイレの雅子さんになった?
……うーん、わからん。
でもわかんないとかいったらまた鶉野先輩になんて言われるか……。
そこでふと先輩の再現という言葉が喉の奥に引っかかったような感じがした。
「……再現?」
声になっていたその言葉を聞いて先輩はウンウンと頷いた。しかし僕はそこから先のことを思いついていないので、当然言葉にもできない。その様子を見てがっかりしたようすの先輩は、耐えかねたのか口を開いた。
「そこまで出てきててなんで答えを導き出せないかな。あなた、特待生なんだから頭はいいのでしょう?」
先輩はそういったが、そもそも僕は先輩に特待生だということを話したっけ?
「確かに僕は特待生ですけど……それとこれとは関係が……って、先輩はなんで僕が特待生ってわかったんですか?」
「そんな身につけているものを見ればわかるわよ」
先輩は当然のようにそう話すが、一体何を見ればそんなのわかるんだろうか。
「まず、制服の生地。あなたは気づいていないかもしれないけど、ほとんどの生徒は制服の規定に収まるようにオーダーメイドで制服を仕立ててもらっているわよ。生地も色以外の規定はないから、お金持ちの生徒はみんな上質な制服を身にまとってるってわけ」
「すごい。そうなんだ」
「能天気ね。……それに理由はまだあるわ。あなたのしている時計、それCASIWAの時計よね。いいわよね。CASIWA。時計の機能は日本の時計業界でも唯一のものがあるわ」
僕は突然時計を褒められ、照れているとぴしゃりと先輩の言葉でたしなめられた。
「でも、CASIWAをつけてる生徒、この学校で見たことあるかしら?」
「え?」
思い返してみると、確かに見たことは……ない。アクセサリーの類に興味がなかったので、他人の時計を注目して見たことなどあまりなかった。
「ない……かも?」
「当然ね。まず、日本企業だし。いや、日本企業をけなしているわけではないのよ。確かに日本企業の技術力は高いし、いい時計は山ほどあるわ。でもね、金持ち連中の間では、時計は一種のステータスのようなものでもあるのよ」
「ステータス?」
「そうよ。ステータス。自分がどれくらいのランクのお金持ちなんだって、他人に示すためのね。もちろん好きでそれを買っている人もいるわ。でも、対抗意識で高いものを意識的に買っている人も確かにいるのよ。ブランドを見せつけるために買っている人がね」
「それがこの学校の生徒だって言いたいの?」
「生徒……と言い切るのは忍びないわね。別に子供が好き好んでつけていない場合もあるし。親に買ってもらったからつけている、といった人が多いんじゃないかしら。別に見せびらかしているつもりがなくても、親からすれば、子供にブランドの時計をつけさせていなければ、どこからバカにされるかわからないといった感じね」
先輩から語られることは全て初耳なことだった。考えすらしなかったような。いや、僕が興味がなかったから知らなかっただけかもしれないが。
「それは時計に限ったことではないわ。財布だったり、キーケースだったり、あなたのお友達のを見せてもらって御覧なさい。ブランドものばかりだと思うわよ。特に、この学校ではね」
思い返せば、竜五の財布も確か海外のブランドのものだったような気がする。それに里実から一度ブランド物の財布を誕生日にプレゼントされそうになって、親父が断っていたのを見たことがある。興味がなかったので気にしなかったのだが、お金持ちの界隈ではそういったものは普通なのだろうか。
「そうなんですね……」
「そう。この学校は相当なお金持ちが多いみたいだから、生徒はほとんどがロリックスやアメガなどの人気の海外ブランドの腕時計をつけているのよ。それであなたが特待生だってわかったってわけ。制服と含めてね」
先輩に説明されて、先輩がどのようにして僕を特待生だと言い当てたのかを知った。聞かされて見ればなんとでもない理由だった。ただ僕が無頓着だっただけで。そういったものを気にする人からしたら、この学校に特待生としてくるのは苦痛なのかもしれない。