トイレの③
「トイレの雅子さん?ははははは。何それ。おっかしい。で?その井戸田萬斎の娘の井戸田雅子はピンピンしてるってわけ?なんでそんなことになったのかしらね」
鶉野先輩は邪魔をされるからと話を聞きに来たのだが、存外楽しそうに話していた。
「さぁ……誰がそんなことを言い出したのか……本当にそんな怪現象が起こったのか。今調べようとしてたところです」
「ふぅん。それで?トイレには行ったの?」
鶉野先輩は机に肘をついて頭を腕で支えながら僕に聞いた。
「行けるわけないじゃないですか。女子トイレですよ」
「別にいいじゃない。あんなトイレ、滅多に誰も使わないんだし。一回調べてみたら?何か進展があったら私にも教えなさいよ」
鶉野先輩は相談してみろと言う割に、事件に興味を持ってしまったようだった。しかし、そんなことを指摘できるはずもなく逆に僕は鶉野先輩に会う口実ができたと内心嬉しく思っていた。
「わかりましたよ。それじゃあ、今から調べてくることにします」
「そう。もしノックが帰って来たとしても、ドアを開けちゃダメよ」
「え?」
「痴漢で捕まりたくなかったらね」
鶉野先輩は見下すような笑顔で笑って僕にそう言った。
僕はからかわれていることすらも嬉しく思ってしまったので、その照れ隠しにさっさと図書館を出て、隣の女子トイレへと向かった。女子トイレの中に向かって呼びかける。
「あの、この女子トイレ、誰かいますか~」
返事は返ってこない。僕は意を決して女子トイレへと入った。女子トイレは、普段使っている男子トイレとそこまで作りの違いはなかった。壁の色と個室しかないところは言わずもがなだけど、構造的な違いはそこぐらいだった。そして個室は全て開け放たれていた。
僕はなぁんだと思いながら女子トイレを出ようとした。しかしそこで問題が発生。廊下の方から女子の声が近づいてくるではないか。
「やばい……ここで見つかったら僕は学校にいる間痴漢扱いを受けてしまう!」
僕はとっさに目の前の個室に入った。
個室の中からでも、何人かの女子の声が近づいて来て女子トイレに入ってくるのがわかった。僕はただただ息を殺して女子たちが立ち去るまでの時間をやり過ごそうとした。
しかし。女子たちはなかなか個室に入ろうとしない。それどころか、僕が潜む個室の前で何やら話し合っている。
「やっぱりしまってるやん……。あの時のんはほんまに怪奇現象やったんやわ・・・」
元気のない声を出しているのは、浜崎美香だった。そして周りにいるのはどうやらさっきの浜崎の取り巻きの佐藤来夏、新町凛菜、矢野寧々の3人だった。
「でも、まだ中に人がいるだけって可能性も残っているじゃない」
矢野の声が聞こえた。その言葉を聞いて顔が青ざめた。この流れはまずい。・・・いや、今出て行けば調査してたって言えばなんとかなるか。そう思ったが、浜崎の初対面の対応を思い出し思いとどまった。もしうまくいかなかった時僕の学園生活は終わる。そう思い再び息をひそめる。
「でも……息遣い一つ聞こえない……」
新町は臆病そうな声でそう言った。
「来夏はどう思う?」
浜崎はふと佐藤にそう呼びかけた。しかし佐藤は返事を返さない。
「ちょっと来夏?どうしたの、あんたのそんな顔初めてみたわよ。具合でも悪いの?」
浜崎の心配した声が聞こえた。こちらからは佐藤の表情は見ることはできないから何が起こっているのかは理解できなかった。
「とりあえず、ノックしてみましょう」
矢野が言うと、僕のいる個室に向かって3回ノックをしてきた。
僕はとっさに今どう行動するべきか考えた。
一つ。ノックを返さない。これは中に人がいるのかと上から覗き込まれる可能性がある。もしそうなった時、僕は言い訳のしようがなくなる。だめだ。
二つ。ノックを返す。これで中に人がいると言うアピールができる。でも結局トイレの雅子さんの件と重なって中に本当に人がいるのか確認される恐れがある。ただ、怖いから中を確認まではしない可能性も高い。選択肢は一つしかなかった。
結果として僕は3回ノックを返した。
しかし、このとき、僕はとんでもない可能性を見逃していたことに気づいた。彼女たちは、個室の中を確認しないにしろ、中に人がいるかどうかを確かめたいとは思っているはず。なら、彼女たちが外で中の人が出てくるのを待ち
受けていないと言う保証がどこにあるのだろうか。
でも時すでに遅し。彼女たちはすでに騒ぎ立てていた。
「やっぱり!もうあかんて。はよここから逃げよ!」
浜崎は相当ビビっているようで、大きな声で取り巻きの3人にそう言った。
「待って、でもまだ中に普通に人がいると言う可能性もあるわ。声をかけてみましょう」
矢野は提案した。
が、やめてくれ。僕が声を出せるわけがないだろう。
「た、確かに、そうやな……」
浜崎が同意したことで、矢野の案は採用された。
「もしもし、中にいる人、いたら返事してくれませんか?」
と矢野は声をかけるが、僕は当然返事をしない。結果として、彼女たちの恐怖は加速する。
「な、なぁ。下から覗いてみーへん?」
恐る恐る言った浜崎の声に3人は同調した。まずいと思い僕は便器の上に立ち、足を見えないようにした。釘塚高校は男子と女子で上靴が異なっている。上靴を見られたら男子だって言うことがバレてしまう。
「あ、ありえへん」
これまで黙りこくっていた佐藤はようやくそう声を出した。彼女らしくない、喉の奥から絞り出したようなほんの小さな声だった。
「みんな、とりあえずここから離れよ」
浜崎がそう言ったのに取り巻きの3人は肯定の返事をして一旦トイレから出ていったようで、声も足音もしなくなった。
しかし、足音がしなくなったのは廊下の途中までだった。
間違いない。彼女たちは廊下で僕が出てくるのをいまかいまかと待ち受けている。
僕は人生最大のピンチに頭をフル回転させた。とりあえず、このままここにいるのはまずい。ずっと出てこないと、最悪中を確認される。あるいは先生を呼ばれる可能性もある。そうなってはもう完全に僕の学園生活は終了。
そこまで考えた段階で、僕はゆっくりと個室の扉を開いた。
どこか逃げ場はないか。
物音を立てないように窓の外を確認する。当然3階なのだから、外に逃げることはできない。一旦外に身を隠そうにも、窓の下には一切の凸凹がない。足をかけることすらできない。
なら、隠れる場所だ。僕は女子トイレの中をこれまでにないぐらいの洞察力で睨みつけた。彼女たちが再びここに入ってくるまで、どれだけの時間があるかはわからない。僕は隠れる場所を探した。
左から右へと視線を動かしていく。トイレの個室にこもっても無駄だ。雅子さんではないと証明できたとしても、逆に彼女たちの興味を引いてしまうかもしれない。何か、何かないかとおもった僕の目に飛び込んで来たのは、掃除用具入れだった。
扉はしまっているものの、鍵は空いているようだった。狭いがここなら隠れてやり過ごせるかもしれない。そう思い僕は掃除用具入れに身を隠した。わざわざ洗面器に座ってまた足を見られないようにしつつ、ドアを押さえつけながら。
しばらくして、浜崎たち4人は再び女子トイレに入ってきた。彼女たちの反応は、想像以上のものだった。
「ちょっと!あんたたち!見いな!!3番目のトイレが空いてる!!」
「言われなくてもわかるよ」
浜崎の驚く声に、矢野が冷たく返事をした。矢野も余裕がなくなっているようだ。感情が声に表れてきている。
「嘘や……嘘や……」
何故か佐藤はそんな言葉を繰り返しているばかりだった。