赤い糸①
自宅に帰る途中、僕は帰宅途中の古本屋で『あるもの』を発見した。ここに先輩がいなくてよかったと思った。
これは最高のサプライズになる。そう考えると僕の心は躍動し、体は今にも踊り出しそうだった。『あるもの』はいつかと同じように、店頭に並んでいた。僕はそれを購入すると、カバンの中に突っ込んだ。
自宅では思ったより説教されることはなかった。ただ、親父に「大切なものは守れたのか」と聞かれたので「守れたよ」とだけ答えただけだった。
親父は僕がなんのために無茶をしたのか、具体的なことは知らなくても理解してくれているようだった。
「親父ってさ。偽扇仰って推理作家。知ってる?」
僕はふとなんでもないようにリビングで親父にそう尋ねた。
それは本当にふと口から出ただけで、特に意味はない問いだった。
でも。親父から帰ってきたのは、予想外の反応だった。
「偽扇仰?偽扇仰って言ったら、父さんと母さんが出会ったきっかけの作家だぞ」
「え?」
そんな話聞いたことなかった。って言うか出会いの話自体が初耳だ。
「なぁ、母さん偽扇仰の『赤い糸』は父さんと母さんの赤い糸になった一冊だよなぁ」
台所に立って食器を洗っていた母親に親父はそう問いかけた。
「あら、その話?懐かしいわねぇ」
母親はそう返事をした。
「ちょっと、それ、どう言うこと?」
僕が興味津々で聞くと、親父は少し恥ずかしがりながら話す。
「父さんと母さんが出会った20年前の話だ。当時お金がなくて本屋でバイトしていた父さんは、若き日の母さんと出会ったんだ。父さんは小説なんか全く読んだことなかったんだけどな、近くにあるっていうのと力仕事があるって言うんで本屋に決めたんだ。
そこでバイトしてたら母さんが偽扇仰の本を大人買いしていてな、2巻から6巻まで合わせて5巻もだ。机に並べたら母さんの顔が見えなくなるぐらいでな、父さんはつい『こんなに買うんですか?』なんて聞いちまってな。そこから母さんは偽扇仰の魅力について語り出したんだ。
それからしばらくするとまた五冊、また五冊って母さんは買いに来てな。それである時、19巻が予告なしで発売されたことがあったんだ。その時は朝から人がそれはもうたくさん並んでて、当然すぐになくなったんだけど。
父さん、こっそり母さんの分を取り置いておいたんだ。そしたらそれはもう感謝されてな。それでお礼に何か奢らせてくださいって言うんでそこから付き合いが始まったんだ」
親父は長々と、でも誇らしそうにそう話した。
自分の両親の出会いの話を聞くと言うのはなんだか不思議な気分だった。
「その19巻が『赤い糸』って話なの?」
「ああ。そうだ。普段全く小説を読まない父さんでも結構楽しめたぞ。あらすじは・・・とこれは実際に読んだ方がいいか」
「実際にって、その本もしかして今どこかにあるの?」
僕はテーブルの上に身を乗り出して聞いた。
「え?ああ、確か母さんが大切に持っていたはずだぞ。なぁ母さん」
「19巻なら寝室の私の引き出しに入っているよ。読みたかったら持っていっていいわよ?」
それは予想外に現れた、サプライズプレゼントだった。これで、一番大きな先輩の未練を解決してあげられる。
「ありがと!」
僕はそう二人に言うと母さんの寝室の引き出しから19巻『赤い糸』を引っ張り出して来て夜ベッドに横になりながら夢中になって読んだ。
父さんと母さんの出会いの小説。先輩が死んでもなお読みたかった小説。
それがどんな内容なのか。
僕は必死に読み漁った。
『赤い糸』は、カンダタがお釈迦さまに蜘蛛の糸を垂らしてもらうような冒頭から始まっていた。主人公、神田武が地獄から蜘蛛の糸を垂らされていると思ったらその蜘蛛の糸が赤いと言うことに気づくというような夢を見るところから物語は始まる。
神田武は結婚できない男だった。度々パーティに参加するも、意中の女の人はいつまで立っても現れない。そんな時、あるパーティで殺人事件が起き、神田が殺人犯として疑われるという始まりだった。そこから事件はさらに進展し、幾人もの犠牲者がでる。しかも、その手口は様々で同一犯とは思えないほどだった。
神田は周りからの疑いの目に耐えきれず、探偵を呼ぶことにする。その探偵が女探偵『吉野吉乃』だった。吉野吉乃は華麗な推理眼で事件を解決し、犯人を捕まえる。
その『犯人』が問題だった。
作中で、犯人は【犯人】としか表記されず、最後の最後になるまで教えてもらえない。自分で推理しようにも経験が少なすぎてわからない。
おそらくこういうところも物議を醸して話題に上がった要因の一つなのだろう。
そして読み進めていくと、最後のページで一つの指輪に刻まれた【犯人】の名前が示されてあった。
それは読者への解の提示であり、指輪は結末を示唆するものだった。
だけど僕はそれの意味がいまいちよくわからなくて、神田と吉野吉乃が結ばれたのかとそのときは思っていた。
読み終わり、久しぶりに読書した疲れで眠気がどっと押し寄せて来た。
ただでさえ色々あった一日だったのだ。
僕はサプライズプレゼントの『あれ』と19巻をカバンの中に隠して眠りについた。




