003、「馬鹿だねって言って」
馬鹿だねって言って、貴女は呆れた顔をした。
「…………は?」
「いや、だからさ。やめればいいだろうさ、そんな仕事」
「いやいやいやいや! 無理でしょ!」
俺は思わず声を荒げた。ぶつかった拍子に丸テーブルの上に乗ったグラスがガチャンと揺れる。あやうく倒れそうになったソレを押さえた。
彼女はちらりと俺を見たが、それだけだった。こぼれないとわかると、他の丸テーブルを丹念に拭いていく。
「誰もアンタ一人に期待しちゃいないさ。そもそも、アタシだってそんな仕事があったことを知らなったくらいだからね」
テーブルの天板が輝くほど磨き上げたあと、彼女は次の丸テーブルに移る。
それより俺は彼女のセリフに驚いていた。
「いや、俺は、コレに生きがいを……。頼まれたから。信頼されてるから……」
「あんた、馬鹿だね」
彼女はいつしか動きを止めていた。布巾を絞って濡れた手を、エプロンで拭う。
彼女が俺に向けてくるのは、同情の視線だった。
「人がいいから、いいように騙されてんのさ」
「そんなわけあるかよ! だって……、俺は、『勇者』だぞッ!?」
椅子を弾き飛ばしながら、勢いよく立ち上がった。
そう。俺は勇者だ。
勇者なのだ!
その類いまれなる能力を見込まれ、王城に呼ばれた。
軍資金を渡され、装備を整えて王国を出立したのだ。見送りの列は長く、盛大だ。前夜に開かれたパーティーでは、王女さまを俺の手を握って言うのだ。
この王国を救って、と。
酒場やギルドで仲間を集め、共に強くなりながら旅を続けた。
武闘家、魔法使い、僧侶、盗賊。みんないいやつだった。
――――そして、みんないなくなった。
死んだわけじゃない。いや、死んでいればどれほどよかったか。
俺の能力は確かに一級品だった。
倒す魔物に比例して膨れ上がるステータス。西の龍を倒し、南の魔物を屠る。いずれも激戦で、死人が出ないのが不思議なくらいだった。全てを乗り越えてきた。仲間の力だ。
だけど。
いつしかその仲間がぽつりと言った。
もう付いていけない、と。
そうして一人、この宿屋の酒場で慣れない酒を飲んでテーブルに突っ伏す羽目になっているのだ。
俺は力なく椅子に座ると、丸テーブルに突っ伏した。その拍子にとうとうグラスが倒れ、水が拡がっていく。彼女の「あ、この馬鹿」という声もどこか遠くに聞こえていた。
彼女はまだ若い。二十代の後半だろうか。亡くなった両親の跡を継いでこの酒場を一人で切り盛りしているのだと酒場の客の話を漏れ聞いた。そんな彼女にはわからないのだ。
彼女のため息。
「そもそもだよ。最初にはした金だけ渡して、あとは経過もしらんぷりなんて、そんな馬鹿な話はないだろうさ。いくらもらったんだい、支度金」
「……銀貨十五枚」
かなりの大金だ。つましく暮らせば一か月は生活できる。
「国を救うのが銀貨十五枚。やっすい王国だね」
「なッ!? あんただって王国の庇護下にあるんだろ!? そんなこと言って不敬だぞ!!」
「こんな国境沿いの村でそんなこと言われてもねぇ。だいたいアタシは今代の王様の名前も知らないよ。知ってる名前なんて、ミリシオン王くらいさ」
俺が顔をあげると、皮肉な笑みが見えた。俺がこぼした水を、彼女はさっと丁寧に拭く。
痛烈な皮肉だ。
ミリシオン王とは有名なおとぎ話に出て来る王様だ。頭がおかしい王様で、変なことをたくさんやって家臣たちの笑いものになる。
笑い話の、王様だ。
「俺がやめたら、王国が……」
「アンタがやめても何も変わりゃしないさ。また別の誰かが騙されて旅に出されるだけさね。そもそも、その魔王とかいうやつはどこにいるんだい。もう百年近く出たっていう話を聞かないよ」
俺は、一体何をしていたのだろうか。
勇者とは、何をする者だろうか。
剣が、鎧が、重く感じられる。
「みんなが喜ぶと思ったんだ」
「そうだね。でもそれは、小さな村の宿屋でもできることさ」
トン、と俺の目の前に置かれたのは、温かいお茶が入ったマグカップだった。
気が付けば彼女はエプロンを外しており、ひっつめていた髪の毛を解いていた。眠そうにあくびをして、ひとつだけろうそくの灯りを落とす。
ぼんやりとしたあたたかい灯りが残る。
ふっ、とまるで雲で出来たような笑み。
「アタシはもう寝るよ。アンタもそれを飲んだら寝ちまいな」
「ひとつ、聞かせてくれ」
「何だい?」
「やめても、いいのかな」
「さあ? 知らないよ。アンタが決めな」
彼女はすでに、俺を見ていなかった。背中ごしに手をふって、去っていく。
俺の手の中には、温かいカップだけが残っていた。
余談になるが、一人の勇者がいなくなった。
そして新しく小さな村の宿屋の店員が誕生した。
小さな村の宿屋の店員は、年上の店主にプロポーズしたらしい。
馬鹿だねって言って、貴女は恥ずかしそうに笑った。




