ヒトが人間とは限らない。
人間であること、人間でありつづけることは、たいへん、難しいことである。
高校時代に知り合って、その後、少しだけ、お付き合いをした女性がいる。その子は、僕より学業優秀だったが、親の意向で地元の短大に進んだ。
つまり、関西学院大学に進学した僕より、2年早く社会人になったわけだ。彼女は、地元の土建屋に就職した。
僕が大学3回生・4回生の時、つまり彼女が社会人1年生・2年生の時、僕等はだんだん、噛み合わなくなっていった。
彼女は、会社でいじめがあることに、愕然としていた。(この歳になれば、組織にいじめがあるのは、日本じゃ当たり前だ、と思えるようになったが…)
そして金銭感覚が彼女は研ぎ澄まされていった。
僕も、2年遅れて社会人になり、やはり組織の不条理を嘆き、お金にシビアになっていった。
そして、彼女も僕も、「大人」になっていったわけだが、大人への成長と引き替えに、「人間」的でなくなったように、強く感じる。自分も周りも、資本主義に翻弄され、「人間」の形をした「鬼」になってしまった気が、40代も板についた今、思われる。
それぞれの分野で、それぞれの常識がある。男性と女性との常識の違いもある。土建屋には土建屋の常識があり、教育産業には教育産業の、マスコミにはマスコミの、公務員には公務員の、、、それぞれのそれなりの常識があるのだろう。
でも、それぞれの常識に安住した瞬間、ヒトは「人間」でなくなる。「人間」でありつづけるには、不断の努力、「人生を巡礼と捉える姿勢」、謙虚さや、向上心、思いやり、優しさ、礼節が必要条件なのだ。
人間の形、姿をし、言葉を話すからといって、その者が「人間」とは限らないのだ。「鬼」や「怪物」や「妖怪」かもしれないのだ。
自ら、「人間」でありつづける為に、今日も自分は迷い、悩み、努力する。