額縁に生きる女
私は絵を描くのが好きだった。
もっと絵の勉強がしたくて美大に行った。
といっても、あんまり名前の知られていない所。恐らくそれが全盛期だったのだろう、それからは全く描けていない。
今ではもう別の趣味を見つけ出している始末だ。結局は絵とは全く関係のない仕事を今はしている。それなりに美術的センスを使うようだけど、そんな学校に行ってまで得るようなものでもなかった。
だが驚くことに、あの時の学生生活を全く後悔していないのだ。寧ろいい経験をしたとも言える。今日はその私の昔話を、バーカウンター越しで悪いんだけど貴方に聞いて欲しい。
新品の皮の鞄の中にきちんと道具があることを確認する。真新しいスケッチセットに綺麗なパレット。キャンバスはまだ持つのに自信がなく、スケッチブックを小脇に挟んで歩道を歩いていく。
東京は何だか居心地が悪い。田舎までとは言わないが、少し離れた土地に長らく住んでいたせいかそう思ってしまう。
人は少しでも不満があるとそれに理由をつけてしまうものだ。きっと私の言っていることもそうなのだろう。
私が今、こんな理屈っぽく何から何まで文句を言うのは仕方がなかった。今日学校で私だけ問題があったのだ。
何故か昨日までいいと言っていたスケッチのモデルが急きょ取りやめになってしまった。しかも私だけ。教授に取り合っても仕方がないの一点張りで、更には私自身でモデルを探して来いとまで言われる始末だ。
私はもう途方に暮れることしかできなかった。私にとってそれは初めてのコンクール出場になるのもだった。
その為に何日も前からモデルに依頼し、イメージを固め、徹夜で計画を練り、緊張で寝れぬ夜がいくつもあった。なのに、それなのに。そう簡単にモデルなんか捕まえられないのを知っていて教授が私にそう言ったのはもう諦めろ、と遠回しに言っているようなものだ。私は見捨てられたのだ。
私の考えていた学生生活は元に戻らぬほどバラバラに、音を立てて崩れていくのが分かった。今、一人こうしている間にも他の人達はどんどん未来を掴む絵を描いているのだろう。圧倒的な差が出来ているのだろう。
私はただ、強く絵の具の入った鞄を握り締めた。
これから梅雨になるのだろう六月初め。
私はあまりこの季節は好きではない。
何と言っても紙が湿ってしまうからだ。
油絵をするものだから余計気になる。
だけども今回はそれを考えなくてもいいようだ。何しろ私はもう絵が描けなくなったから。
………私は何とも大人気ないというか、じめっとりと根に持つ男だ。まだ怒りをぶつける所が見つからないでいる。
それでいて、納得のいくような気もしてきている。私は考えをこじらせ過ぎたようで一週回ってしまっていたようだ。自分はまだ入学して二ヶ月と少し。あまりにも挑戦が早すぎた、まだ実力がないのに何故出場しようとしたのか、モデルもそんな私を見捨てたに決まっている。
怒りと悲しみと、決意と落胆と、この気持ちの悪い心の中はまるで今の季節と同じだった。
私は梅雨が嫌いだ。
なのに何故、私は筆を取っているのだろう。
気が付けばいつもの癖で、家の近くの広場に座って鞄を開けていた。もはややけくそで無心にこの景色を描く。
噴水に鳩に木に曇り空。だが全てが灰色に邪魔をされて暗く見えた。私の心もつられて曇っていく。
………私には絵の才能がないのか。そんなことは全く関係のないのに何故かそう思ってしまう。灰色とは何と強力な力を持っているのだろう。
しばらくするとぽつぽつとスケッチブックに雫が落ちてきた。私の目から雨が降ってきたようだ。今日はもう家に帰ろう、土砂降りになる前に早くしなければ。
きっとすぐには晴れないだろうから。
いそいそと鞄の中に道具を仕舞い始めたその時、私の背後から誰かが呟いた。
「それ、私に売ってくれませんか?」
その人はきっと笑っていただろう。声がそうだったからだ。
声があまりにも優しく、私を包んでくれたから。何だか分からないが胸がきゅっと縮こまった気がした。
とりあえず私は、はい?とその人に目をやる。
驚いた。ただただ、驚いた。
優雅で可憐で美しくて。
その瞬間、三つの単語が私の頭を埋め尽くしたのだ。俗に言う一目惚れと言うやつなのだろうけれど、そのとこに気付くのにどの位時間が経ったのだろう。その人は私の顔を見るなり同じく驚いていた。
そうだろう、私は真っ赤な顔をしながら号泣していたのだから。
彼女は私の隣に座り、今日あったことを全て聞いてくれた。
これもなにかの縁だといって泣いている私を慰めてくれた。
そして、いつも私を見ていてくれたようだ。
「貴方、いつもここで絵を描いているわよね」
何だか分からないけど急に恥ずかしくなった。こんな綺麗な人がいつもいたなんて、どうして私は気づかなかったのだろう。すると彼女は「それだけ絵に集中してたのよ」と私に笑いかけてくれた。
何と言うことだ、この人は心も美しい。
「私でよければ……いいかしら?」
「………え」
「そのモデルよ。素人でもいいなら私がやるわ」
実はお願いしようとしていたが、そんな今日出会ったばっかりに出すぎた真似はできないと思っていた。それが、まさか彼女の方から言うなんて逆に思いもしなかった。
「あ、あの……是非お願いいたします……」
「うん。私貴方の絵、好きなの。だから寧ろ嬉しいくらいよ……これからも素敵なのを描ける様に力になりたいの」
「えっと……僕も……その、貴女の様な綺麗な人を描けるなんて……嬉しいです」
今思うととても恥ずかしい。
黒縁の眼鏡をかけ、下の方で緩く一つに縛った髪の毛。
何も混じりけのないその長い黒髪は、静かに私を魅了する。
筆をキャンバスに滑らしていくのと同時に、私の心も彼女に染められていった。
絵を描くのに、彼女に好きなポーズを取るようにと言ったところ、見返り美人の絵が好きと答えて窓際に腰掛けた。8畳程度のアパートの、錆びて今にも取れそうな手すりに手をかけて風に当たる彼女。
別にやましい気持ちなどなかった。
ただ彼女の絵を描きたいと自宅に呼んだのだ。そう、彼女になら住所など知られても構わなかった。
今思えば不思議なことだった。会ったばかりの男女が一つ屋根の下、女が男の家に上がり込んでいくなんて。
だが、それすらも超越する彼女の不思議な魅力に私は吸い込まれ、掴まれ………離されたくなかった。
「…………見て。夕日が綺麗よ」
私は、はっと我に帰った。
今何時だ。
太陽がビルだらけの凹凸に隠されていくのが辛うじて見える。
「え、あ………」
私は言葉も出なかった。
私は彼女を休憩も何もなしに6時間近くそのままにしてしまっていたのだ。
「ご、ごめんなさい……その、」
「集中していたんでしょ。大丈夫よ分かっているから」
彼女はうーんと伸びをしてくるりと私に振り返った。
「……………あのね、実は貴方を試してたの。私が後ろを向いて、貴方が襲ってくるかどうか。
でも、まさか6時間も何も無いなんて………安心しちゃったわ……変でしょ?
でもこれで本当に私、貴方のモデルとしていられる限り、ずっといるわ」
へへ、と何とも照れくさそうに彼女は笑った。
「………あの、どうして僕なんですか……?」
「………言ったでしょ?貴方の絵が好きなの」
そう言った彼女の顔は、今までに見たことのない無邪気な物だった。
この人のこの笑顔を描きたい。
何も飾らない、素の彼女を。
キャンバスに残したい。
「描きたい時にここに電話して。私のわかる範囲なら場所を指定していいから、いつでも呼んでね」
その紙には電話番号が書かれてあった。
ごめんなさいね、私携帯電話持ってないからそれお店のなんだけど、と彼女は窓を指さした。
「ほら、あそこに見えるんだけど……私の働いてるバーよ。夜しかやってないんだけど、暇があったら来てもいいわ」
あいにく私はまだ未成年だ。
オレンジジュースならあると彼女にはやし立てられたが、それでも行ってみようと思う。
「そうだ、貴方の名前はなんていうの?」
玄関でヒールに足を入れかけている彼女は私を見上げた。
「……潤。『潤う』と書いてじゅんと読みます」
すると彼女は何故か吹くように笑い、いい名前ねと言って笑いすぎて目に涙を浮かばせていた。
何がそんなに面白かったのかは分からなかったが、そんな大笑いをする彼女も、不思議と妖艶に見えた。
そこで私は勇気を出して、貴女の名前はなんていうのですかときいてみた。
すると彼女は、本当の名前は無くなってしまったから好きなように呼んで、とただそれだけ言ってドアの向こうへと帰ってしまった。
その意味はまだその時には分からなかったが、取り敢えず私は彼女の事を私の名前から『潤子』と呼ぶことにした。
潤子さんは本当に電話をしたらいつでも何処でも来てくれた。
自宅は勿論学校まで、お店の名前を言っただけでもきちんとだ。それはもう彼女の知らない場所が無いぐらいだった。
そして、彼女と会う回数が増える度私の画力が上がり、まるで魔法にでも掛かったかのようにことがうまく進んでいった。あのコンクールにも間に合い、私の学生生活は元通りになりつつある。
全て潤子さんのおかげだ。感謝してもしきれない。
そんなしばらくたったある日、『見返り美人』と題した私が初めて潤子さんを描いた絵が学校内で話題になっていた。私は遂に自分の能力が認められたのだと思っていたのだが、それは実はモデルの潤子さんの美しさが話の的だった。
私に会う人皆がこんな綺麗な人が本当にいるのか、どこで知り合ったのだなどと言い、私は無性に腹が立った。
それは私の絵が評価されない事ではない。
寧ろそんなことはどうでもいい。
私は潤子さん独り占めしたかったのだ。
潤子さんは私のモデルだ。誰が会わせるものかと、まるで箱入り娘の父親のような気持ちになっている。それ程私はもう潤子さんにぞっこんだったのだ。
私はまた潤子さんに電話をし、近くの喫茶店で待ち合わせをした。少しお茶をしてケーキをつまんでいる時だった、私はそのことを思い出して潤子さんに話してみた。
あれから半年ほど立ち、私達はそれなりに気を許せる関係になっていた。
なのでもう私は潤子さんの素の姿をいつでも見れる。
実は彼女はとても子供らしいところがあり、何処か行くところ必ずと言っていいほどフロートを飲む。しかも珈琲はではなく炭酸だ。
だから今回も彼女は二コニコしながらメロンソーダを美味しそうに飲んでいる。
「へー、私は学校で有名人なのね。何だか嬉しいわね」
「いえ、潤子さんは僕のモデルですから。絶対誰にも会わせません」
「……そうね、貴方がそう言うならそうするわ」
何故彼女はそういう事を平気で言えるのか。
「あ、そうだわ。貴方のその学校で今度文化祭あるわよね?それは行きたいんだけど……」
因みに彼女はあまり人の話を聞かないので、多分さっきの思わせ振りな言動はてきとうに私に合わせただけだろう。
私はこうしていつも期待して損をしているが、きっとこんな思いをしていることすら彼女は気付いていないだろう。
「………まぁ、潤子さんがそういうなら」
「本当!やったわ!!私初めて文化祭に行くの!!そうだわ、出し物とかするのよね?私のバーテンテクをマスターしたんだから、きっとの潤の持ち場は大好評よ!!」
「別にバーをするなんて一言も言ってないですし、あれは無理矢理潤子さんが僕にやらせたんでしょう」
潤子さんはバーテンダーをしていて、前にお店に行ったときに酔った勢いで教えられたのだ。しかもなかなか板に付いていて、これを仕事にできるぐらいに上手くなってしまった。
「……というか、初めてなんですか?文化祭」
私がそういうと潤子さんの持つアイスをのせたスプーンがぴたりと止まった。
「………私、高卒なの。別に隠していたわけじゃないんだけど……本当はね、私も美大に行きたかった……」
潤子さんは自分の思いを語り出した。
大学に行きたかったがお金がなくて諦めたとこ。
今でも絵を描きたいこと。
そして、いつも広場で絵を描いている私を気にかけてくれて、自分では出来なかった、夢を追う私の力になりたいと思ってくれたこと。
初めて聞く潤子さんの思いに私の胸は熱く、そしてぶるぶると震えていた。
儚い、何て脆い人なんだ。
潤子さんの目にはいつの間にか涙が溜まっていた。
昔を思い出したのか、それとも夢を掴みたかった思いが溢れだしたのか。
どちらなのか分からなかったが、何にしろ私の衝動は抑えきれなかった。
私は、ふるりと震えている彼女に近づき、口付けを落としてしまった。
甘い。
メロンソーダだ。
だが、それにしては後味が少し塩辛かった。
「………潤」
まだ涙をポロポロと零す彼女は、まるで初めてあった時の私のようだ。
あの時の彼女は私を見てどう思ったかのか分からないが、今の私には彼女はとてつもなく弱く見えた。
いつも色っぽく、かといって強気で、心を許した相手にしか見せない子供っぽいことろがある彼女。
そんな不思議な彼女が、こんなにも雫を落とし、このまま消えてしまうのではないかと心配になった。
それを止めるべくと、唇を離し、私は彼女の手を上からそっと握り締める。すると彼女も私の手を受け入れて握り返してくれた。
「………私、」
「大丈夫です。僕が何とかします」
何とは何か。彼女の夢か。世間体か。
それとも涙を止めることか。
それは私にも、恐らく彼女にも分からなかっただろう。
でも私達はその何かを信じていた。
そして、本当に何とかなると、私達は思った。
「……………何かあっても知らないから」
彼女はそう呟くと、そっと私に唇を返してくれた。
文化祭の日、事前に予定を立てて結局潤子さんと学校に行くことにした。ただ、1つお願いをして。
「いいですか、僕から絶対離れないでくださいね」
「貴方はトイレまで付いて来るつもりなの?」
そこまで言ってない、と言おうとしたがあながち嘘じゃなくなるかもしれないと思ってしまった。
「…………何で黙りなのよ」
「いや、だって……」
そう言われると恥ずかしく、でもそれくらいの勢いじゃないと離れ離れになってしまう気がした。
「……そうだわ!貴方も変装すればいいんじゃない?」
「………………どういうことですか?」
潤子さんが言うには、私が女装をすれば学校の人達にバレないし、そうすれば潤子さんがそのモデルだってことも分からないのではないのかということだ。
「そうすれば貴方も女子トイレに入れるわよ。貴方割と女顔だしいけると思うんだけど………」
明らかに潤子さんは楽しんでいるのだけれど、今回は素直に聞いてあげようと思う。こんな楽しそうな潤子さんを見るのは初めてだ。
文化祭に行く前に潤子さんのお店に行き、まだ開店をしていない暗く静かなカウンターの前で、2人向かい合った。
「潤子さん、外が煩いですね………こんな所にまで音が聴こえるんですか」
「潤、いいから目をつぶって」
潤子さんが私の頬を撫でる。ひんやりとして、柔らかい。
はい、と私は言って目を瞑った。
私は化粧の手順やどうやってするのかなんて分からないから、その身を潤子さんに任せることにした。目を瞑らせたから、ファンデーションとか、そういうのを顔に塗るのかと思った。
だけどそんな事を思っていたのは私だけだったようだ。
私の唇に彼女の息がかかった。
随分と近くにいるんだなと思えば、柔らかい何かがそっと触れる。そしてそれは、初めて私の中へと入ってきた。
突然の事で私は目を開けようとした。
しかしそれも彼女の手によって遮られてしまった。
前は見えないが、彼女が体をすり寄せてくるのは分かった。
私は自分の身体を支えきれなくなり、ズルズルと後ろへ下がっていく。
それでも、お互いに唇と舌は、絶対に離さなかった。
幸いな事に元から座っている席がカウンターの一番端だったので、壁に背中を着けられ、やっと自分の身体を立ち直らせることができた。
それでも彼女は私へ迫って来て、とうとう身体がピタリと合った。
「………っ、じゅん…こさ」
息が続かない。
私は不覚にも、一瞬の間を見計らって言葉を発してしまった。
彼女の名前を言った瞬間、やってしまったと素直に思った。
「…………潤」
それでも彼女は目を覆う手を離してはくれない。
彼女の顔は見えないが、声は弱々しかった。
「…………ごめんなさい」
「………謝らないで、私が」
「僕が悪かったです………僕が、しっかりしないから、だから、」
ぱっと視界が明るくなる。潤子さんの顔が見えた。
「………貴方がしっかりしたら…何?」
「……………今夜、仕事をお休みしてください………僕の家で言います」
私はやっと潤子さんに自分の気持ちを言う事を決意した。
それからはとても早かった。
潤子さんはスイスイと私を女性にしていき、暇なのかついでにメイクのやり方まで私に教えてきた。いらない知識だけど、潤子さんは本当にモノを教えるのが上手だ。また私に余計な技術がついてしまった。
さっきのは無かった事になっているけど、今夜、私は潤子さんに告白するつもりでいる。
どうなるかは私には予想はできない。
だけど、このままではいけない気がした。
このまま、絵描きとモデルという関係では私も、そして多分潤子さんも、いつか我慢が出来なくなる日が来るだろう。
だから今日みたいになるんだ。
そして、それは全て私が悪いのだ。
それは私が、臆病だから。
私が何もしないから、潤子さんから来てくれたのだ。
今目の前で私に口紅を塗ってくれているこの人は、私に夢をもたせてくれている人だ。私の夢を繋げて、広げてくれた恩人だ。そんな人に手をかけるのは如何なものか、迷いはもちろんあった。だけど、だからといって何もしないのは一番してはいけないとだと、私は今やっと分かったのだ。
「ちょっと、あんまり眉に皺寄せないで。せっかく綺麗にしてあげたのに」
「…あ、ごめんなさい」
「まぁいいわ、とりあえず顔は終わったから、後は髪と服ね」
貴方男の割に髪の毛長いからこのままでも十分ね、と潤子さんは言いながらお店の奥のスタッフルームへと消えていった。
一人で静かなカウンターにいるのも何だか不思議な感じがして楽しかったが、このまま一人でいるのはあまりにも悲しすぎる。数分経っても潤子さんは帰ってこないせいで変に不安になってきた。
「あの……潤子さん…?」
「あ、ハイハイ今行くわ」
こつこつとハイヒールの音がしてドアが開いた。潤子さんは私の服を選ぶついでに自分の化粧と服も選んでいたようだ。そう言われると短い時間だったのだが、その短時間で人はここまで美しくなるのかと私は自分の目を疑った。
いつもの彼女もそれはそれは綺麗なのだが、今日はその美しくしさに更に磨きがかかっている。
だが、よく女は化粧で化けると言うが、彼女はそうではなかった。彼女はあくまでも原型を止めたままだった。
「潤はこれを着てね。そしたらもう行くわよ」
私はあまりにも彼女が綺麗になってしまったので、もうこのまま学校に行かなくてもいいと提案したのだが勿論それは彼女によって阻止された。
学校の門が綺麗に飾られ、校内が人でごった返している。
私はそこでやっと今日が文化祭なんだと実感が持てた。実はいうと私は今年の文化祭は行く気がなかったのだ。てきとうに今売れている芸能人を呼んだり、恋人や仲のいい友人と一緒に楽しんだりなんてする気がさらさらなかった。
私はそんなことよりただ潤子さんと過ごしていたかったのだ。それに学校にいる時間よりも潤子さんと一緒にいる時間の方がかなり長かったせいもあり、半年たった今でもあまり学校に馴染めていなかった。
仮面友達というか、表面上の知り合いしかいなかった私にとって学校の行事ほどどうでもいいものはない。
だが今日は違う。外に売っている焼きそばやらカレーやら、校内でやっているお化け屋敷や何かの作品展示、それにその誰だか分からない芸能人のパフォーマンスも、全て楽しかった。
潤子さんといるだけで文化祭がこんなにも楽しくなるなんて思いもしなかった。女装をしているという点を差し引いてもだ。
初めはもしかしたらバレるんじゃないかと思ったが、門をくぐるときに私は潤子さんの腕を信じた。案の定誰一人私が男と言う事、そしてここの学生だという事もバレずに学園祭の終わりまで過ごすことが出来たのだ。潤子さんは本当に上手いこと私を女性にしてくれた。何度もナンパというものにあった程なのだから。
だがそれはきっと潤子さんの魅力だろう。私のような男かぶれをしている奴よりも、皆明らかに目は潤子さんを見ていた。今日の潤子さんは格段に綺麗だったから無理もないと私は振られている男達を見ながら心の中で共感をしていた。こんな美しい人といて、私はなんと幸せなのか。
校内に楽しそうな音楽から学園祭終了の放送が流れ、学生以外は外に出る時間になった。私達は文字通り一日中楽しんだ。
学生だが私もついでに逃げてしまおうと潤子さんの手を引き昇降口へと向かう。その時だった。
「…………お前、潤…か?」
私達の後ろで声がした。
私は思わず足を止め固まってしまった。
これでは自分でそうです、と言っているのと変わらない。
後悔をしながら声をする方へ振り向くとそこには教授がいた。
「…………潤…なのか?」
私は自分が女の格好をしている事を言い訳するのか、学校に残らず帰ろうとしたことに言い訳をしようか頭をフル回転させて考えた。
教授は黙る私と手をつなぐ潤子さんを見て驚いているように見える。
すると繋いでいる手に痛みが走った。
「すみません、すぐに帰りますね」
潤子さんが口を開いたのだ。
そして強く腕をひかれ、逃げるように私達は門を出ていった。
無我夢中で人混みを抜け、気づけば私達はアパートの階段下にいた。
二人の間を繋いでいた手は互いの汗でぐちゃぐちゃになっている。
「ねぇ、あの人潤の先生なの?」
少し息を切らした潤子さんは髪をかき上げながらそう問う。
私はただただうなづく事しか出来なかった。
息が切れていたのもあるが、それよりも潤子さんへの申し訳なさで、一杯一杯だった。
カンカンと階段を上り、部屋に入る。
初めてヒールを履いたので靴擦れと、良く分からない足の部位が痛い。
つけまつ毛をつけているから瞼が疲れている。私は部屋に入るなりすぐに布団へと突っ伏した。女物の服やメイクを落とすのも、もう嫌だ。
そんな私を見てか、潤子さんはそっと私の横に腰掛ける。
「………潤子さん」
「何?」
「………潤子さんは、僕の事好きですか?」
何も考えてない。
ただ、そう口から出た。
すると彼女は暫く黙った。
時間にして恐らく10秒ほどだ。
だが私にとってそれは生きるか死ぬか、ギロチン台に立たされた気分だった。
「………あのね、潤。私貴方に言わなきゃいけないことがあるの」
ここで聞かなくては、今ここで、決着をつけねば。
私はゴロンと体を転がし大の字になり彼女を見る。
「…………好きなんですか」
「…………お願い、待って」
お願いだから、と彼女は自分の顔を手で覆う。
私はすかさず起き上がり、彼女の丸まった背中をさすり 、身体を抱いた。
「………泣かないでください。そんなに言いたくないのですか」
「……違うの、違うのよ………涙が、止まらないの」
彼女は手の中の、くぐもった声で小さく好きよと言った。
それでも彼女は泣くのをやめなかった。
私はそっと彼女の手を顔から離し、頬に優しく唇を落とした。
塩辛い。
喫茶店の時と同じ味がすると私は言った。
「……止めて、キスなんてしないで」
涙で顔がぐちゃぐちゃになろうとも、彼女は美しかった。
涙が止まらない程何がそんなに悲しいのかと、私は思わず彼女に問う。
すると彼女は顔を背け、私と目を合わせないようにする。
「………私、潤と今日でお別れをしなきゃならないの」
「それは……僕のせいですか」
「違うわ……2年前から決まってたの……でも、貴方に言えなかった……だからこんな事になったの」
貴方の告白を待って、聞いてしまったと彼女は言った。
私には何が何だかさっぱり分からなかった。
だが、この人と生涯ずっと一緒にいなければ、私はそう思った。
「僕と、結婚してください」
私がそう言うと、彼女は私を突き飛ばした。
それはそれは優しいものだった。
震える手でそっと胸を押され、私は後ろに尻餅をつく。
「…………ごめんなさい……私、」
目から涙を零しながら、男なの、と彼女はそう言い残し部屋を出ていった。
私はしんとした部屋に一人、気づけば残されたヒールを見つめていた。
次の日、私はすぐにお店に行ったがもう潤子はいないとママに言われてしまった。
2年前からそう契約していたそうで、友達がお店を経営するからそこに働くのだという。
そこでバーテンダーをする為バーで働いていたのだ。
私は呆然としながら学校へ向かった。
学園祭も終わり、昨日の事が嘘のように思える。本当は学校なんか行きたくなかったが、昨日の教授の様子が気になり行くことにしたのだ。
荷物も置かずに教授を探し、やっと見つけたと思うと逆に私が質問攻めを喰らった。
話を聞くと、潤子さんは教授の教え子だったのだ。
そして、『潤』と言う名前の男だった。
実力は物凄く、賞を総ナメにしたこともあったという。
だが突然絵を描くのを止め、姿を眩ませたのだと。恐らくその時から女装に目覚めたのだろう。
教授はあの時私を呼んだのではなく、潤子さんを呼んだのだ。
そして、後から私のことにも気づきいたがその時にはもう走って行ってしまったと言った。
潤子さんは初めから全て分かっていたのだろうか。
いつから、私のことを好きになってくれたのだろう。
彼女が男だとしても、私は潤子さんの事が好きだ。
あの人は、彼女は本当に女だった。
きっと一人で思いつめていたのだろう。
だから、辞めるギリギリまで一緒にいてくれたのだ。
何故私は気づけなかったのか、私は私を攻め立てる事しか出来なかった。
そしてあの『見返り美人』はその年のコンクールに出品され、見事に金賞を受賞した。
あの人はこの絵の中で、今でも私を魅了する。
そうして私はそれ以降絵を描くのを辞めることにした。
私は今、恐らく君に言っても分からない会社に勤務しているが、今でも潤子さんよりいい人に会っていない。
それほど彼女は私の中で影響力のある人だったのだ。
ママによると『昔の男』という名前のオネエバーに潤子さんがいると聞いたとこがある……でも私は自分からそのお店に行けそうにない。
行っても潤子さんに迷惑がかかるだけだ。
だがもし次、偶然潤子さんに会えたなら、私は間違いなく結婚を申し込むだろう。
性別なんて私は気にしないと、変らず美しい彼女に。
愛をこめて。