母親
翌朝、ひなからメールが届いた。風邪をひいて、熱が下がらないらしい。今日は学校を休むという内容だった。
念のため三条に電話したが、彼女の蛇の力とは関係なく、本当にただ体調を崩しただけのようだった。
放課後、今日の授業の分の、ノートのコピーを抱え稜はひなの家に向った。
見舞いがてら、と思ったが、寝込んでいる相手をわずらわせるのもどうかと躊躇われたので、黙ってドアの郵便受けに入れておくことにした。
コピーの束をそっと差し込み、その場を離れた。門まで歩いていると背後から、ガチャリとドアの開く音がした。
「ま、待って」
振り向くと、ひなの母親がいた。
「これ、あなたが届けてくれたんでしょうか」
母親は右手に持った、先ほど稜が入れたコピーの束を見せた。
「あ…はい。今日の授業の分の、ノートのコピーなんですけど」
なぜ母親が急いで出てきたのか稜にはわからなかった。
「…あの、少し時間、いいでしょうか」
母親は、まるで上司にでもお伺いを立てるように、稜にたずねた。
「俺ですか?」
「はい。お話がしたいんです」
「話?」
母親は玄関の扉をそっと開けた。
「…ひなが眠っている、今のうちに…お願いします」
ただならぬ空気を感じた稜は、母親に従うことにした。
「こちらへ。どうぞ」
通された部屋に足を踏み入れる。玄関を入ってすぐ左の部屋。テレビを囲うようにソファがコの字型に並べられている。
ひなの小さい頃の写真だろうか。可愛らしい写真立てに入れられ、並んでいる。母親と父親と三人で写っているものもあった。ひなは、無邪気に笑っている
「急に、ごめんなさい。ひなのこと、話したくて…」
母親はグラスに入った冷たいミルクコーヒーをテーブルの上に置いた。そして稜に座るよう促し、自身もソファに腰掛けた。
「いつも、ひなのためにありがとうございます」
母親の丁寧な礼に稜は恐縮してしまう。
「いやいや。ノートのコピーくらいでそんな…」
「いいえ。そのことではなくて」
母親はゆっくりと首を振った。
「ひなの、蛇の力のことです」
「!?」
「あなたが、蚊帳なんでしょう?」
稜は顔をこわばらせた。ひなの母親は、全て、知っていたのか。
「あ…あの…」
「大丈夫。ひなは眠っているし、部屋を出たときにはわかるようになっています」
それがどういう仕組みなのかは稜は聞かなかった。
「…知ってたんですか…ひなの、こと…」
「ええ」
「いつから…」
「確か…ひなが小学校に入る前、くらいです。ひなの健診の結果で気になることがあるって、私だけ病院に呼ばれたんです」
「…」
「大きな病院で…何か病気でも見つかったんじゃないかと気がきじゃありませんでしたが…その時に、妖というものの存在を知らされました。何だか…検査でわかるそうで…」
「…」
「そして、調べてみたところ、ひなが蛇という妖であると、言われました」
母親はぐっと、膝の上においた手を握った。
「じゃあ、ひなはその時から、もう…?」
「いいえ。その時点ではまだ、保因者だったんです。その素因があるだけで、その状態のままならば、普通の人と変わらないと。ただ、もし発症したらどういうことが起こるのかは聞きましたが」
「…」
「ひなが5年生になったくらいでしょうか。おかしなことが起き始めました。ひなのクラスの子たちが突然、次々に怪我や病気で学校に来なくなったんです」
「!」
「…みんな、ひなとトラブルがあった子達でした。それで、あの人から連絡があったんです」
母親が目を伏せた。あの人、というのが三条のことであるのは容易に予想できた。
「ひなが発症したと…その間にもひなの力は留まることがなく、ひなは学校中から避けられるようになりました。私たちはあの人に言われるまま、ひなの卒業に合わせて、この土地へ逃げるように引越してきました」
「…」
「それから、ひなは外で笑わなくなりました。泣いたり、怒ったりすることもなく、いつも俯いて…あの子なりに、自分の置かれている状況を考えていたんだと思いました」
「…」
「それが…突然、ひなが学校での話をしてくれるようになったんです。それはもう、楽しそうに…」
「…」
「今思えば、制服を汚して帰ってきた頃からでしたね。あの時は、また誰かを傷つけてしまうのではと主人と心配していたのですが」
「…す、すいません」
ひなにジュースをかけてしまったことを思い出し、稜は咄嗟に謝罪した。が、母親はめっそうもない!と稜に頭を上げるよう言った。
「あなたが来てくださってから、ひなはあんなに笑うようになったんです。今は、高校であったことを一つ一つ、嬉しそうに話しています。クラスで何人か、友達ができたって…。本当に、全部、あなたのおかげです」
「いえ、そんな…」
「あなたには迷惑なお話だったと思います。あなたの大切な時間を、あの子のために使わせてしまっているわけですから…」
母親が頭を下げた。稜は急いで訂正した。
「いや!俺は蚊帳だからとか、頼まれたから仲良くしてるんじゃないです。ひなが良い人だったから…俺は、そういう、妖とか、何も知らない時から、ひなと友達になったんです」
「!そう、だったんですか…」
母親はひどく驚いた様子だった。きっと、稜は三条に依頼され、嫌々ひなに近づいたのだと思っていたのだろう。
「…でも、怖かったのではありませんか?色々、その、噂について、私も聞いていましたから」
噂とは、ひなが死神と呼ばれていたことや、その所以だろう。
「…」
稜は一度口を閉じ、ゆっくりと息を吸ってから、言葉を選んで発言した。
「…俺は、ひなのことを怖いと思ったことはありません。だって俺にとってはひなは、ただの普通の、女の子だから…」
「…」
「自分のこの、蚊帳、っていう体質に感謝してるくらいです。だってなんの苦労もなく、ひなと、何でも話せるから…」
「…」
「ただ…あなたたちは…そうじゃない、ですよね」
稜には見えていた。長袖で隠れているものの、チラリと見えた、母親の体に残る傷跡。焼けただれたものや、あざのようなもの。
「あなたたちこそ、蛇の力を、ひなを怖いと思ったことは、ありませんか?」
失礼とは承知で、でも、聞いてしまった。子供ゆえの残酷さだろうか。
「…それは、無いです」
しかし母親は臆することなく、真っ直ぐに稜を見て答えた。
「だって、私たちは信じていましたから。私も主人も、ひなのことを愛しているし、ひなも、それを理解しているはずだと」
「!」
親が子を叱るのは愛情故だ。それもひなはわかっているはず。
しかし蛇の力は容赦なく襲い掛かる。ひなの感知しないダメージまでもが、呪いに変わって相手に向かっていってしまう。
ひなの母親はその度傷つき、苦しんだことだろう。もしかしたら死をも覚悟したかもしれない。それでも娘を愛し、普通の、家族として、厳しく彼女を育ててきたのだろう。
「…」
「あら、ごめんなさい。長々と話してしまって…どうぞ。冷たいうちにお飲みください」
一旦話を切り、ひなの母親は、稜に飲み物を薦めたが、申し訳ないことにカフェインを受け付けない稜は断ろうとした。
「すみません、俺、コーヒーは…」
「これ、カフェインは入ってないから大丈夫ですよ」
稜は目を見開いて母親を見た。
「…ひなから聞いたんです。あの子、あなたのことを、話してくれて」
「…」
「これもね、いつからか、ひなが買ってきて冷蔵庫にストックするようになって。あなたに貰って飲んだら美味しかったからって…それで…」
母親が声をつまらせた。
「…っ、すみません…すみません…あ、あの子があんなに、楽しそうに誰かの話をするのが、嬉しくて」
母親は涙を拭きながら何度も稜に頭を下げた。
「あなたのおかげで、私はまた、娘の笑顔を取り戻せたんです」
稜はひなの母親から、本当の愛というものをひしひしと感じた。
親の愛とは、かくも強きものだったのだ。




