発端
「おーい稜。次の時間理科室に移動だってよ」
「行こうぜ」
転校してはや一ヶ月。稜はその人柄もあり、新しい環境にすっかり溶け込んでいた。
「ああ!今行くー」
「急げー」
はじめは不安だったものの、クラスメートは皆親切で、いじめなんてものもない、この至って平和な学校に愛着も持ち始めていた。
「なあ稜。お前、課題やってきた?」
席に着くなり、隣にいた友人、豊栄が稜に尋ねた。
「いーや、やってない。俺、化学苦手だし。村上に見せてもらおうと思ってさ」
稜はあまり頭が良くない。勉強も好きではなく、課題はいつも同じグループの友人に見せてもらっていた。
「村上ー」
稜はかの人の名前を呼んだ。しかし、返事はない。
「あれ、村上?どこ行った?」
早くしないと先生が来てしまう。稜はあたりを見回した。が、理科室内に村上の姿は見当たらなかった。
「村上は今日休み!だからお前に聞いたんだよお」
豊栄が不貞腐れたように言った。
「え!マジで!」
「マジ。朝いなかっただろー。」
そういえば、朝、担任が出欠をとった時居なかったような…?稜はおぼろげな自分の記憶を探った。
「あーあ!お前も課題やってないんじゃどうしよーもねー!俺先週のも出してないのに…絶対居残りさせられる…」
「やっべー…」
はあ、と項垂れる稜と豊栄の前に、すっと、一冊のノートが差し出された。
「?」
「課題。やってねーんだろ?」
「…!!」
哀れな二人に救いの手を差し伸べたのは、これまた友人の一人、湯沢だった。
「…あ、ありがとう!ありがとう!」
「ここのページとここのページな」
「はい!ありがとうございます!」
稜と豊栄はペコペコと頭をさげながらそれを受け取り、夢中で書き写した。
「そうだよ湯沢がいたんだった!初めから稜なんか頼りにする必要なかったぜ」
「そりゃこっちもだよ!俺は最初っからお前になんか期待してなかったけどな!」
ミッションコンプリートした稜と豊栄は軽口を叩きながら、湯沢にお礼を言い、ノートを返した。
「…そういえばさ」
稜はふと、気になったことを二人に尋ねた。
「村上どうしたんだ?具合悪いのか?昨日は元気そうだったけど…風邪とか?」
「あ、あー…」
帰ってきたのはなんとも歯切れの悪い返事だった。
「うん…まあ、そんなのじゃない、かな」
「…」
なぜか言い淀む友人たちに、稜は違和感を覚えた。
「な、なんだよ。村上、そんなに重症なのか?」
何か悪い病気にかかったのか。この時期に入院とか?であれば、いつも課題を映させてもらっている恩返しに授業のノートの差し入れでもしてやろうか、と提案したが、どうも、友人たちの空気がおかしい。
「なあ。見舞いとかいってやったほうが…」
「いや、その必要はないよ」
「…?」
「…村上、多分しばらく学校これないと思うから」
「…なんで?」
「あいつ、昨日さ…」
「お、おいっ」
湯沢が稜に何か言おうとした時、豊栄が焦ったようにそれを止めた。そして、二人は気まずそうに顔を見合わせる。
「な、なんだよ。俺に言えないことか?」
隠し事をされているようで、稜は再び不安に襲われた。
いくらこちらが仲良くなったつもりでも、やはり二人にとって、自分は余所者の域を出ないのか、と。
「…湯沢、どうする」
「…あと数ヶ月だけとはいえ、やっぱ稜も、知っといたほうがいいんじゃないか?」
「…そう、だな」
二人は目配せして、稜に、もっと近くに寄れ、とばかりに手招きした。
三人は理科室のテーブルを挟んで顔を寄せ合う。
「…いいか、これはお前の胸の中にしまっておけ。絶対、人に言うな。ヘタすると命に関わる」
いつにない真剣な眼差しで、豊栄はそう前置きをした。
稜は、二人のいつにない気迫に気圧されながらも、目を見てこくりと頷いた。
「昨日な、村上、委員会の仕事でいろんなとこにポスター貼って回ってたんだよ」
「ああ、交通安全かなにかのやつ」
廊下各所の掲示板には行事ごとのポスターが定期的に張り替えられる。村上は掲示物を管理する委員会に所属していた。
「でな、その時うっかりして、画鋲を一個、床に落としちまったんだ」
「…?」
「運悪く、狼森がそこを通りがかってな…」
「え、な、何?お、おいのもり?」
突然出現した聞き慣れない単語を聞き返す稜にはお構いなしに、二人は話を進める。
「狼森が画鋲を踏んじまったわけ。更に運の悪いことに、その日狼森、上履きの靴紐が切れたか何かで来客用のスリッパ履いてたんだよ」
「…うわ」
スリッパの柔らかく薄い靴底では画鋲はいとも簡単に貫通したことであろう。
「想像しただけで痛い…」
「それでね、ほんのちょっとだけど、狼森、足に怪我しちゃったんだよ」
「まあ、そのちょっとが命取りなんだけどな」
神妙な顔で頷く二人に、稜は訳がわからなくなった。
「…え、あのちょっと待って。それと村上の欠席なんの関係が?」
「だからその狼森に怪我させたっていうのが問題なんだよ」
「狼森にあんなことやらかしたんだ。もう一貫の終わり。どうしようもねーんだ」
「…そんなに、怖い人なのか?その、狼森って人…」
稜の問いに、二人の目が一層鋭くなる。
「怖いなんてもんじゃないよ!」
「…ああ。校内ではな、ヤツのことを陰で死神って呼んでる。そのくらい、危ないやつなんだ」
「し、死神…」
なんて物騒なあだ名か。稜はその、まだ見ぬ狼森、といういかつい名前の人物を想像した。バス停やツルハシで殴りかかってくるような執念深い怪物みたいな男が浮かんだ。
「でもね、普通に接してたら害はないんだ。だからみんな表面上は普通に接してるし、何があっても知らないふりをしてる」
「でも、一応お前にも教えておいたほうがいいと思ってさ。ほら、何かあってからじゃ遅いし」
「…」
俺は担がれているのか?と稜は思ったが、二人の表情は真剣そのもので、とてもじゃないがふざけているそれではなかった。
「この話はこれでおしまい。本人に聞かれたら大変だ。稜も知らないふりしててくれ。あと数ヶ月で卒業だ。それまでの、我慢だから」
「いいか、稜。これは内緒だぞ。絶対、ぜーったいにな!」
それきり、二人はまたもとのバカ話に花を咲かせる剽軽な中学生の顔に戻った。
稜はその話を完全に信じたわけではないが、心にとめておいた。
要は、校内の怖そうな人間に近寄らなければいい話なのだ。
そう気持に区切りをつけて、稜は、自分に危険を教えてくれた二人の友人の親切心を素直に喜ぶことにした。
昼休み、稜はパックジュースを片手に教室へ急いでいた。
母親が今日の昼食に、と持たせてくれたパンがお手製のバゲットを使ったサンドイッチだったため、さすがに飲み物無しで挑むには強敵過ぎると急遽一階の自販機まで走ったのだ。
廊下は行き交う生徒たちでごった返している。
人混みを掻き分け、ぶつからないように、と前に進もうとした、その時。
誰かに肩を、がしっと掴まれた。
「ううわっ…!」
突然のことに稜は体をこわばらせた。
―ぐしゅっ!
それが行けなかった。無駄に力の入った稜の右手の中にはパックジュースが握られていたのだ。しかも、既にストローが刺されている。勢い良く握りつぶされたそれは、ストローの口から中身を噴水のように勢い良く吹き出し…
「あ…」
不幸にも、ちょうど目の前にいた女の子に直撃した。
「あっはっは!驚いてやんのー!おっせーから迎えに…来てやっ…」
犯人は豊栄だった。お調子者の彼は大成功、とばかりに得意げに稜の顔をのぞき込んだ。しかし、その背中越しに見えた惨状に気づき、やっとその軽薄な口を閉じた。
「…あっ!ごっ、ごめん!大丈夫…」
噴射された麦芽コーヒーは女の子の制服に容赦なく茶色いシミを作っていく。
「い、今、何か拭くもの持ってくるよ!おい、豊栄…」
現状を引き起こした責任の半分は豊栄にある。稜は豊栄に協力を求めたが、なんと、彼はもう既にそこにはいなかった。
「あ、あいつ…」
逃げやがった!
二人の周囲は遠巻きに見るだけで何もしてくれない。というか、どんどん離れていく。稜は仕方なく、持っていた自分の薄いハンカチで女の子の髪や肩のあたりを吹いては絞り、吹いては絞りするしかなかった。
「…もう、いいよ」
それまで無言だった女の子が口を開いた。
「…で、でも」
「大丈夫。気にしないで。私も気にしてないから」
「あっ…」
それだけ言って、女の子は走っていってしまった。
モップを探して廊下を拭き教室に戻ると、クラス内の穏やかに流れていた空気にピリッと緊張が走るのを感じた。
「…え、えーと」
「稜、お前…」
湯沢が稜に近づきこそっと声をかけた。
「あ、湯沢。豊栄知らないか?さっき…」
「…豊栄、早退したよ」
「…えっ」
固まっていると教室に担任が入ってきた
「豊栄が、帰り道の途中で交通事故にあったそうだ。先生は病院に行くから、とりあえず次の時間は自習しててくれ」
神妙な顔でそれだけ言って、担任はまた焦ったようにドタバタと教室を出ていった。
「…え、豊栄が…なんで…」
「…」
隣に立つ、湯沢が俯く。
その瞬間、クラスメートの視線が一斉に自分に向いたことに、稜は気づいていなかった。




