怨霊
中には、異様な空気が流れていた。
「ま、マサキ…?」
ゾワゾワと肌が粟立つ。
「ねえ、いるの…?」
ひなは奥へ進んだ。
大きな本棚が並ぶ。ここは書斎だろうか。
「…きゃっ」
何かに躓いた。なんとか踏みとどまり、転ばずに済んだ。
ひなは足元を確認した。布に包まれた、丸太…?
いや、人間の足だった。
「!」
目線を移すと、それは男性の足だった。彼は足を放り出して壁を背にして眠っていた。
「…あ、あー、びっくりした…」
ひなは屈んで彼に触れようとした。が、すぐにその手を引っ込めた。
「…!」
男の目は開いていた。凄まじい形相。彼は既に事切れていた。
「…あ、あ…」
ひなはその場にへたりこんだ。這いずるようにして後ずさると、肘が後ろの棚にぶつかった。
ドスン、と鈍い音がして、何かが、ひなの目の前に転がり落ちてきた。
「…!」
女と目があった。
カーペットの、長い毛足に埋もれた女性。
彼女には、首からしたがなかった。
「…っ!あ、あああ…」
悲鳴を上げようにも、力が入らない。
これは、彼の両親だろうか。
彼に一体何が起きたのだろう。
「…マサキ…マサキぃ…」
震える唇でひなはマサキの名を呼んだ。
―カタ…
「!」
小さな、音。
ひなははっと顔を上げ、音のした方へ向かった。
「マサキ…?」
部屋の、更に奥。
音はきっと、クローゼットからだ。
「マサキ…そこにいるの?いるんでしょ…?」
ひなはクローゼットの両開きの扉を勢い良く開いた。
「…………」
マサキは、いた。マサキ、だったものだ。
彼はクローゼットの隅に体育座りで、膝の間に顔を埋めていた。
体中が黒いもやで包まれている。
血なまぐさい臭いが鼻につく。
「…マサキ」
ひなが彼に手を伸ばす。
ギョロっと、彼がひなを睨みつけた。
「マサキ。私。ひなだよ」
まるで野生動物のようにマサキはじっとひなを見ている。
「私のこと、忘れちゃったの?」
「…ひ、な…」
マサキの目に、光が戻った。
「…!そう、私、ひな」
ひなはもやの中の、掠れた彼の体に触れた。ひどく、冷たい。
「ねえ、マサキ。どうしたの?」
「…」
「何が、貴方を、こんなに…」
「…全部、仕組まれて、いた…」
「何?」
「…僕の親は、僕の病気を治すために、君を、僕に近付けたんだ」
ひなは目を見開いた。
「…全部、聞いたんだよ。全部、偽者だった。僕の希望は、幸せは、全部仕組まれた、虚構、だった…」
マサキの体のもやが更に深くなる。これは彼の心の闇だと、ひなは思った。
「父も、母も、僕が殺した。多分、そうなんだ。わけがわからなくなって、きっと僕はもう、人間じゃ、いられない」
マサキの目から、涙が零れた。
「だから、僕、は、終わりに、しなきゃいけない。何度も、試した、んだけど…駄目、みたい、だ」
マサキの周囲には変形した包丁やハサミが散乱していた。
「だから、君に、お願い、したいんだ。いい、かい…?」
「…な、何を…」
「僕、の、最期の、お願い、だ」
「…!そんなの、嫌!」
ひなはぎゅっと目を閉じ、首を振った。
「…できない!そんなこと、私にはできない…!できるわけ、ない!」
「ひな…」
マサキはそんな彼女の体を、そっと抱きしめた。
「君が、僕を、悲しんでくれるうち、に…僕は、その暖かさを感じたまま、終わりに、したい…」
マサキの匂い、体温、鼓動。彼の体には何もない。ただ、冷たい、悲しさたけだ。
「マサキ…」
ひなが、彼の体を抱き返した。
「私が…私が、マサキを愛したのは。決して誰かに、仕組まれたからじゃない。私は、マサキがマサキだから愛したの」
「…うん」
「…大好き、なんだよ…」
マサキは少しだけ笑った。
「大丈夫。君は、何もしなくて、いい…。ただ目を閉じて、僕のことを、思って、ほしい」
「…」
「…そうすれば、あとは、君の…竜、が、やって、くれる」
ひながぐすぐすと泣き始めた。彼の背中を掴む手に力が籠もる。
その彼の体もどんどん現実のものとはかけ離れていく。もう、自我を保つのも限界だった。
「…僕、ひなと会えて、しあわせ、だった」
「…」
「ひなが、好き、だったんだ」
ひなが泣き崩れる。
「ひな、僕の、願いを、叶えて…」
「…っ」
ひなは、ゆっくりと目を閉じた。
「またね」
ーー…。
三条から話を聞き、急いで駆けつけた稜が見たもの。
マサキの頭を抱え、座り込んで嗚咽するひなの姿だった。
「マサキ、マサキ…」
ひなは彼の頭を撫でた。
マサキの髪からは、いつもと同じ、油絵の具の匂いがした。




