衝動
「ねえ、マサキはいつから病気なの?」
放課後の美術室。ひなは絵の具のチューブを見比べながら、マサキに尋ねた。
「ずっとだよ。子供の時から。気付いたら、声が聞こえてたんだ」
「…声?」
「そう。初めは声だけ。それに内容も普通で、どうでもいいものばかりだったよ。お腹空いた、とか、明日の天気は晴れだったかな、とか」
「まるで誰かの独り言みたい」
「そう。だから僕はいちいち幻聴に返事してたんだ。誰かが僕に話しかけてるのかと思って。そしたら、病院に行かされた」
マサキはナイフに赤い絵の具をとって、空の一部に載せた。
「治療したんだけど、効果はなくて。そのうち家の中でずっと、死ね、死んでくれたら、って、聞こえてくるようになってね」
「…」
「それから幻聴は幻覚に変わって。人間にくっ付いた変な化け物が、ずっと何か喋ってるようになった。それから今まで、僕が見ている世界が、これなんだ」
マサキは筆を取り、更に色を重ねていく。澄んだ青空に、赤いグラデーションが奔る。
いつものタッチで描かれていくマサキの絵。風景に混じって暴れる荒々しく、禍々しくもある何か。マサキがいつも見ている、幻覚。
「ねえ、この手はなんなの?」
ひながキャンバスの中心を指さし尋ねた。
写実的で繊細に描かれたその手はまるで何かを守るように絵の中心に描かれていた。
「マサキの最近の絵、どれも、どこかに手が描いてある。何か意味があるの?」
「…自分でも、よくわからないけど…気付いたら描いてるんだ。何かの象徴、なのかな」
「象徴…」
「でも、僕が本当に描きたいのは…これじゃないんだ。僕が描きたいのは、体温があって、柔らかい皮膚の下にあたたかな血液が通っている、そんな手なんだ。柔らかくて、あたたかい…それが、描けないんだ…」
マサキはなにかを払うように首を振ると、筆をパレットの中に休ませ、ゆっくりとひなの方を振り返った。
「ひな」
「なあに?」
「…君は、僕と居て、楽しいかい?」
マサキは窓から、下校していく生徒たちを見下ろし、呟いた。
「毎日、君をこんな処に閉じ込めて…普通の人は、こんなとき恋人をどこに連れて行くのかな。僕じゃ、ひなと一緒に歩くこともできない」
「そんなことない。私は気にしないよ」
「僕は、ひなを縛り付けてるんだ。僕は頭がおかしい、社会に居ちゃいけない人間、だから…ひなはちゃんと、まともな人と居るべきだ。こんな不良品、早く捨てて、いってくれれば…!」
「そんなこと言わないで」
苦しそうに目を伏せるマサキを、ひなはそっと胸に抱き寄せた。
「私、マサキが絵を描いてるところを見るの、好きだよ。マサキが作る色を追いかけて、マサキの見ている世界を見れるのが、とっても嬉しいの」
「…」
ひなは子供をあやすように、マサキの頭を優しく撫でた。
「だから自分のことをそんな風に言うのはやめて」
「…」
「ゆっくりでいいから、マサキがマサキのことを、もっと好きになれたら良いね」
「…!」
マサキはひなの鼓動を聞きながら、そっと目を閉じた。
「ひな」
「なあに?」
「…まだ、描いてないけど…次に描く絵はもう、決めてあるんだ」
「うん」
「完成したら、ひなに、もらって欲しい」
「…いいの?」
「うん。上手くかけるか、まだわからないけど…それはきっと、ひなのための絵、だから」
マサキはおずおずと、腕をひなの背中にまわした。マサキの体温がひなに伝わる。ひなはそれが嬉しくてたまらなかった。
「わかった…楽しみに、待ってるね」
「それでね、美那子ったら一年の女の子から告白されたのよ」
「ええー!」
「すぐに断ったけれどね。まりあが人を殺しそうな目で睨んでいたから」
「まりあらしいー」
クリームパンを頬張りながら、女三人は会話に花を咲かせている。
稜たち四人はクラスが変わっても相変わらず、中庭で昼休みを過ごしていた。
「だって私のものだもの。取られそうになったら死守するわよ」
「そういうまりあだって相変わらず男子に人気じゃないか。この間、言い寄られているのを見たよ」
「あら、気づかなかったわ。私は美那子しか見えてないから」
「あはは」
ひなが楽しそうに笑った。
「まりあも美那子ちゃんも、幸せいっぱいって感じだね」
人目を気にせず恋人らしい振る舞いをする二人を、心なしか、眩しそうに見ていた。
美那子とまりあは次の授業が体育のため早めに切り上げ、中庭を出ていった。
残された稜とひなは散歩でもするように、ゆっくりと中庭から玄関への道を歩いていた。
2人でこうして歩くのも、なんだか久しぶりだな、と思いながら、稜は隣を歩くひなの名を呼んだ。
「なあ、ひな」
「ん?」
「彼と、うまくいってるのか」
「いや、えっ…?」
ひなの顔がかあっと赤くなった。
「稜くん、し、知ってたの?」
「ああ。沼垂とまりあも知ってる。それ以外の人は気付いてないと思うけど」
「そ、そっか…」
ひなはオロオロと視線を泳がせ、やがて観念したように、稜を見た。
「…ごめんね。稜くんにはちゃんと言おうとは思ってたんだけど…」
「いいよ。気にするな。彼、そういうの嫌がりそうだし」
「…うん。ちょっと、人見知りっていうか…でも、すごく繊細な人で」
「うん」
「彼ね、絵が上手なの。彼が絵を描いてるところを見てると、本当に魔法みたいでね」
「…そうか」
照れくさそうに彼の話をするひなを見て、稜は心がぎゅーっと絞られるような思いがした。
「ずっと風景画ばっかり描いてたんだけどね、今は手を一生懸命描いてるの」
「手?」
「うん。人間の、手。彼が描いた手、すごく綺麗なの。私の指、歪だから余計にそう思うのかな」
そう言ってひなは目の前に自分の手を広げてみせた。
じっくりと見ると、確かにひなの薬指の先は、中指側にすこし曲がっていた。しかし、それは言われなければわからないほど、些細なことだった。
「そんなに綺麗なら、俺も一度見てみたいな」
「ふふ。でもね、まだ上手く描けないんだって。何かが違うって…。私じゃ彼の言ってること、きちんと理解できないから、もどかしくて」
「そうか…」
稜は絞りに絞られ雑巾のようになった自分の心を、捨て置くことにした。
「…なあ、今度さ、昼休みに彼も誘ってみなよ。嫌じゃなければ、一緒に食べようぜ」
「いいの?」
「ああ。色んな人と話すことで、何かわかることもあるかもしれないしさ。沼垂もまりあも歓迎すると思う」
まあ、まりあは微妙なラインだが…。
「それに、俺も話してみたいしさ。ついでに絵も教えて貰おうかなー」
「ふふっ。稜くんが絵なんて。おかしい」
ひながケラケラと笑った。
正面玄関までもう少しというところで、強い風が吹き、ひなのハンカチを攫っていった。
「あっ…」
幸いハンカチはそう遠くまでは行かず、横の生垣に着地した。
「やだ、もう…。稜くん先に玄関行ってて」
「おお」
ひなは小走りで生垣の方へと向かっていく。
ところが、ひなは生垣の前で一旦足を止めたものの、何かに気付いたように後者裏の方へと歩いていった。
「ひな!」
嫌な予感がした。稜は走って彼女の後を追った。
「ひな、待って!」
彼女は振り向かない。足取りは徐々に早まっていく。
うっすらと声が聞こえた。複数の男子生徒の声。ぶつかり合う音もする。
「ひな!だめだ止まれ!」
「…っ!」
手遅れだった。
「…マ、マサ、キ…」
そこには、泥にまみれた蒲原マサキがいた。鼻と口の端から血が出ている。
「おい、見つかったぞ」
「やべ…」
ばつの悪そうな顔の男子生徒たち。
ひなはその光景を呆然と見ている。
その時。
―ピシィッ……
頭上から、音がした。
高い、ひび割れるような音。次いで、パラパラと細かい欠片が振ってきた。
「…?」
「…なんだ?ゴミ…?」
男子生徒の一人が不思議そうに空を見上げた。
瞬間。ビリっとした殺気が、稜を包み込んだ。
「…っ!おい…!」
校舎の壁が、ゆっくりと崩れ落ちてくる。
「…は?え、あ…!」
気付いた彼らは、逃げようとした。しかし、間に合わなかった。
「ーーーー!」
瓦礫は、轟音とともに、彼らを飲み込んだ。
「あ…あ…」
「…うわあああああ!!」
「誰か!誰か!」
「人が下敷きになった!」
あたりは集まってきた人々でパニックに陥った。
悲鳴が木霊する。稜はひなの姿を探した。
「ひな!」
「…」
彼女は吹き荒ぶ砂塵の中、まんじりともその場から動かずに、じっと瓦礫の中を睨みつけていた。
「ひ、ひな…」
ひなは答えない。彼女の目は、燃えていた。獰猛な光を湛えて、あらんかぎりの憎しみを彼らに向けていた。
稜は足元に目をやった。つつ、と地面に赤い線が走る。彼らの、血だ。
「はっ…ハぁッ…!」
稜は慄き、後退った。
もうきっと、彼らは助からない。稜の蚊帳も効かないほどに、ひなの蛇は強大な力で彼らに噛み付いた。彼女の憎しみが強すぎたのだ。
稜は初めて、心の底からひなを恐ろしいと思った。
「…、…」
「?」
「う…あ…」
その時、壁の隅のほうから、呻き声が聞こえた。稜はマサキのことを思い出した。
「マサキ…!」
稜は蒲原マサキがいた所に駆け寄った。
「おい!マサキ!」
彼は捨て置かれたその場所にいた。
地面に蹲り、耳をふさいで悶え苦しんでいる。
「う、あ、あああ…」
「マサキ…?」
「あが…が、あぐ…」
眼の焦点が合っていない。ボタボタと涙を流している。
「マサキ!おいって!」
「う…ああ、いたい、いたい…」
奥歯をガチガチと鳴らしながら、マサキが身をよじって苦しみ出した。彼の握る力が強すぎて、塞いだ耳の端が切れ始めている。
咄嗟に、稜は彼の腕を掴み揺さぶった。
「マサキ!どうした!?どこが痛いん…」
「いあ、う、あ、うあああああ!!」
耳をつんざくような叫び。蒲原マサキは信じられないような力で稜の手を振りほどくと、フラフラと走り去ってしまった。
その後、騒ぎの中三条が現れ、気を失ったひなをこっそりと連れ帰っていった。




