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死神の君  作者: 広瀬倫康
12/17

旋回

放課後。ひなはひとり、廊下を歩いていた。

少し先の美術室から音がした。見ると、扉にはめ込まれたすりガラスに人影が映っている。

「?」

この学校に美術部は存在し無い。近いものでイラスト同好会なるものがあるが、彼らは部室内だけで活動しているはずだ。

誰もいないはずのその部屋がなぜか気になり、ひなはそっと、その扉を開けた。

「あっ…」

部屋の隅に、男子生徒が、一人、三脚イーゼルの前に座っていた。

「…っ!」

彼はひなを見つけた途端、慌てて逃げようとした。

「ま、待って!」

咄嗟に声が出た。小動物のように怯える彼に、ひなはゆっくりと語りかけた。

「あの、ごめんなさい。邪魔して…その、音が、したから…」

「…」

「絵を描いていたの?」

少年は黙ったまま立てかけていたキャンバスをひっつかむと、ひなの横をすり抜けて美術室を出ていった。

「…」

ひなは呆然と、彼の後ろ姿を見送っていた。



マラソン大会が近づいていた。この学校では毎年、学年別に、校内マラソンが行われていた。

「え、ひな、マラソン出ないの?」

中庭で四人で昼食をとっている最中、まりあが言った。

「どうして?」

「なんかね、健康診断でちょっとひっかかったみたい。休みなさいって言われちゃった」

「え、だ、大丈夫なの!?」

「全然。なんともないの。ただ念のためって」

稜も初耳だった。三条からは、なんの話もなかった。

「学校には来るの?」

「うん。他にもマラソン出られない人達と、記録係するの」

マラソンは半日以上かかる。その間、稜はひなから離れることになる。

稜は帰宅後、すぐに三条に電話をした。

「やあ、稜くん」

相変わらずの能天気な声。稜は今日聞いたことを三条に話した。

「僕もね、ちょうど電話しようと思ってたんだよ。ほら、君らの学校のマラソンって、結構な距離走らせるでしょ?10キロだっけ?だから狼森さんの健診の結果、ちょっといじって休ませるようにしたんだ。体育の授業くらいの軽いもんならまだしも、あんまり苦しい思いさせると蛇が出てくる可能性があるからさあ」

「でもその間、俺、ひなと離れてて大丈夫ですかね?俺も休んだほうがいいですか?」

「いやいやその必要はないよ。ちょっとね、君と狼森さんの距離、離してみようと思ってたから」

「…?どういうことですか?」

「君と狼森さんの距離を徐々に開けていって、彼女の限界を見定めようってことになったの。だってこれから、体育祭だの修学旅行だの、色んなイベントが出てくるわけだし。そうなると君も彼女にビッタリくっついてるわけにもいかなくなるだろう」

「あ…」

もっともだ、と思った。特に修学旅行なら班も別れるだろうし、宿泊場所ももちろん変わるはずだ。女子の中に男子の稜がズカズカ入っていくのも無理がある。

「それにさ、これが成功したら君にもある程度の自由が生まれるよ。そしたら、美人の彼女を振らなくても良くなるかもしれないね」

まりあとのことを言っているのだろう。彼は当然のように知っていた。

「勿論、こっちとしては狼森さんの精神状態が第一だから、状況によってはやはり君に無理をしてもらうしかないんだけどね」

「…」

稜の脳裏に、美那子の言葉がよぎった。

「…あの」

「ん?」

「…」

少し迷ったが、稜は思い切って、三条に尋ねた。

「妖の人が、ひどい精神ダメージを受けると、祟るって、聞きました」

以前美那子がつい口にした、あの話。稜はずっと気になっていた。

「あー…沼垂さんが言ったやつ…」

どうも、それも三条には筒抜けだったようだ。美那子が話したのか、それとも盗聴されていたのか…

「はい。あの…祟るって、なんですか?何か、起こるんですか?」

「聞きたい?」

電話口に、ピリッと緊張が走る。稜はごくりと唾を飲んだ。

「妖はね、心を壊しちゃうと」

「…」

「人間じゃ、なくなるんだ」

「!」

稜は絶句した。背中にすっと冷たいものが走る。

「え…そ、それって…」

「…」

「に、人間じゃ…って、なに…」

「ま、嘘なんだけど」

「…は?」

「あははっ、冗談だよ。君、すぐ真に受けるんだもんなあ」

三条はさもおかしそうにケタケタと笑っていた。真っ白になっていた頭の機能がかいふくするにつれ、稜にふつふつと怒りがこみあげてきた。

「ちょっと…!ふざけないでくださいよ!」

真面目に聞いているのに、と稜は人生で初めて、自分より年上の人に説教したくなった。

「ごめんごめん。ま、なんだ。普通の人間だって、著しく精神バランスを崩せば発狂するだろ?それと同じようなものさ」

「…」

「それに、祟るったって、そんなのは本当に稀なんだよ。ある程度精神のバランスが崩れたところで祟るまではいかない。それに狼森さんも、君と過ごしたおかげで随分と逞しくなったからね。多少のことじゃ、心配ないだろうさ。君は今まで通り、彼女のいい友達を演じてやって」

それだけ言うと、電話は一方的に切られてしまった。

「…」

心にモヤモヤしたものを残しながら、稜はケータイの電源ボタンを押した。


「じゃあ、ひな。俺達行ってくるよ」

マラソン大会当日。体操着に着替えた3人は、ひなに別れを告げた。

「うん。ゴールで待ってるね」

「今日は暑いから、ちゃんと日陰に居るのよ」

「うん。まりあも、美那子ちゃんも、無理しないでね」

「さて、では行こうか」

3人はスタート地点である、校庭へと向かった。



残されたひなは、予め聞いていた、ゴール地点の野球用のグラウンドへ歩いた。

既にテントが貼られており、中には折りたたみ式の長テーブルと、教室のと同じ、生徒用の古い椅子が置かれていた。

「狼森さんね。はい、ここに座って」

待っていた養護教諭が椅子を指差した。

「欠席の子はあと一人いるのよ。もう少ししたら記録の仕方教えるわね」

「はい。あの、その人も、具合が悪いんですか?」

「…うーん。なんていうか…ちょっと難しい子でね。あ、ほら、ちょうど来たわ」

入場口から歩いてくる、1人の少年。下を向き、背中を丸めてこちらへ向かってくる。

「あっ…!」

その姿に、ひなは見覚えがあった。



教師から、あとの時間はテント内であれば好きにしていいと言われ、ひなは本を読むことにした。

持ってきた文庫本を開きながら、なんとなく、奥に座る少年を横目で見た。彼はわざわざひなの隣にあった椅子を持って移動し、テントの隅の方に、ひとり座っていた。

「…」

「狼森さん、あんまり気にしないでね」

近くにいた女教師がひなに耳打ちした。

「彼ね、ちょっと変な子なのよ。内向的っていうか、暗いっていうか…親しい友達も、いないみたいだし」

彼は一言も喋らず、俯いて誰とも目を合わせようとしない。

「あっ…」

その、彼の中に、ひなは一年前の自分の姿を見た気がした。

「…よおし」

ひなは本を閉じ立ち上がると、彼の元へと向かった。幸い、彼の背後はグラウンドのフェンスであり、これ以上逃げ場はないだろう。

「…ね」

「…!」

ひなが声をかけると、彼は急いで膝の上に置いていた小さなスケッチブックを隠した。

「あ…ご、ごめんなさい。また邪魔しちゃったね」

「…」

「覚えてるかな?私、美術室で君に会ってるの。ほら、先週の木曜日に…」

彼はハッとしてひなを見、またすぐにひなから目をそらして再び俯いた。

「…僕と、話さないほうがいいよ」

とうとう、彼が口を開いた。

「どうして?」

「…僕、病気だから」

「病気?」

「…」

彼は再びスケッチブックを開き、何か描き始めた。

「なあに?」

ひなが上から覗き込むと、さっきひなに耳打ちした女教師と、それに纏わりつく不気味な化け物が荒いタッチで描かれていた。

「…気持ち、悪いだろ。僕、頭がおかしいんだよ。だから早く、どこか行ってくれ」

スケッチブックをひなに見せながら、彼はぶっきらぼうに言った。

ひなはその絵をじっと見て尋ねた。

「…君にはこう、見えてるの?」

「…」

「私も、こう見える?」

「!」

彼は顔を上げ、もう一度ひなを見てからゆっくりと、首を横に振った。

「そっか。じゃあ、私もここに居る」

「えっ…」

「隣に座ってもいい?」

「!」

彼は目を丸くしてひなを見た。

「なんで…」

「私も、君と同じ景色を見てみたいの」

今度は、彼は何も言わなかった。ひなはそれを肯定と捉え、彼の横に椅子を置いて、座った。そして時間いっぱい、本を読む振りをしながら、彼の描く絵をずっと見ていた。



結果的に、三条の計画は成功だった。

マラソン大会が終わるまでの約半日、誰のサポートもなく、ひなの蛇の力は作用しなかった。

思春期特有の不安定さが解消されつつあるのだろうという見解だった。

「おいひな。どこに行くんだ?」

ひとりで帰り支度を済ませたひなに、稜が声をかける。

「え?えっと、ちょっと、用事。稜くんは先に帰ってて」

ひなは鞄を引っ掴むと、そそくさと階段を登っていってしまった。

「…」

稜は、少しずつひなから距離を取ることになった。

まだ心配だったが、ひなも、彼女自身で道を切り開いていくことを覚えていく時期が必要だよ、という三条の言葉で、稜も一応ながら納得したのだった。


ひなは美術室の前に立つと、扉をそーっと開けた。

「こんにちは」

中にいた少年はひなが声をかけると、ビクッと体を強張らせたが、相手がひなであることを確認するとまた、すぐに視線をキャンバスに戻した。

「絵、描いてるの?」

「…うん」

「見てもいい?」

「…」

彼は筆を走らせながら、コクンと小さく、頷いた。

ひなは彼の背後に周り、キャンバスを覗き込んだ。

「わあ…」

彼の描く油絵。そこには、現実の風景の中に絶妙に混じり合う、奇妙な世界が広がっていた。

「…すごい」

彼が見ている景色は人と違う。それが何を意味するのかはわからないが、ひなは彼の中に光る、鋭い光線のようなその感性に、魅せられていた。

「綺麗な絵だね」

「…どこが」

「何も隠さずに描いてるところ、とか」

「隠す?」

「だって、君には世界がそう、見えてるんでしょ?」

「…」

「私は好きだよ。この絵」

彼は一旦手を休め振り返り、まじまじとひなの顔を見た。

「…僕は頭がおかしいけど、君も変わってるね」

「そうかもね。ふふふ」

ひなが笑うと、それにつられて彼も笑い出した。

西日に照らされた彼の笑顔は、なんてことない、ただの、素直な少年の顔だった。

「私、名前言ったっけ?」

「…いいや」

「そっか。私ね、狼森ひなっていうの」

「…ひな」

彼は確かめるようにひなの名前を口にした。ひなはなんだかくすぐったそうに笑った。

「えへへ。ねえ、君の名前は?」

「…マサキ」

「マサキ?」

「そう。蒲原、マサキ」



数ヶ月後、稜はひなと蒲原マサキが付き合い始めたことを、三条から知らされた。



二年生になり、同時にクラス替えが行われた。稜は一組で、ひなも同じ。まりあと美那子は四組になった。

「マサキと、離れちゃったなあ」

蒲原マサキは変わらず6組のままだった。

「おお、端とはじになったなあ」

「うん。それに、まりあと美那子ちゃんも離れちゃったし…残念」

「…」

稜はツキンと胸が傷んだ。

ひなの中にいる稜の存在が小さくなればなるほど、彼女の世界は広がるはずなのに、稜は一抹の寂しさを覚えていた。


「稜くん。じゃあ、私用事があるから」

ひなは最近、放課後は美術室に通っている。毎日毎日、帰りのHRが終わるとすぐに教室を出ていくのだ。

それが蒲原マサキと会うためだと、稜は知っている。

「おお。じゃあな。また明日…」

ウキウキと帰り支度を済ませたひなの背中を、稜は複雑な気分で見送った。

蒲原マサキは構内では悪い意味で有名だった。

彼は子供の頃から心の病を患っているらしい。症状としては、幻覚と幻聴。そのため急に独り言を言い出したり、叫び声を上げ、その場から逃げ出したり、数々の奇行が見られた。

適切な治療を受けるべきなのだろうが、彼の家は代々続く名家らしく、その一人息子が心を病んでいるというのは世間体的に許されないことらしい。

彼は既に、クラスでも孤立してしまっている。

人目を避けてひなと会うのはそのためなのだろう。自分と一緒に居ることで彼女まで奇異な目で見られることを厭うたのかもしれない。

もともと社交的なタイプでもなかったし、彼を庇ってくれる友人のようなものも居なかったようだ。

ひなに、出会うまでは。

「…」

稜はできればひなを彼から離したかった。彼の不安定な心がひなにまで影響が及ぶのではないかと恐れたからだ。

ところが、彼女の精神は崩れるどころか安定し始めている。

これは、彼のおかげと考えるべきだろうか。

元に今、いそいそと嬉しそうに彼の元へと向かうひなを見ると、やはり彼の存在の大きさによるものなのだろうと思わずにはいられなかった。


「あらあら。稜ったら、すっかり置いてけぼりね」

トボトボと一人廊下を歩いているとわ美那子と手を繋いだまりあに会った。

美那子とまりあは、いつの間にか恋人という関係に発展していた。

女同士の恋愛とはそれだけで否応なしに注目を浴びてしまうものなのだが、二人は不思議なほど、周囲に受け入れられていた。

男ファンの多い女王様まりあと、女子からの人望の厚い王子様の美那子。2人が並ぶと周りの空気すらキラキラ輝いているようだった。その2人が恋仲になるのに、文句を言うことはその他大勢の一般人たちには出来るはずもなかった。

「ひなったらもう、彼にべったりなのね」

「まあ…彼氏、だしなあ」

「ふうん…稜はそれでいいの?」

「別に…ひながいいんなら、良いだろ」

「はあ…」

まりあがため息をついた。

「心配じゃないの?」

「いや…別に悪いことしてるわけじゃないだろうし」

「ああいうタイプは危険なのよ。自分から苦しみへ向かって行くから。フランダースの犬のネルロみたいにね」

ネルロ、とはあの、不幸な生い立ちで最期にルーベンスの絵を見て天に召された、泣けると有名な悲劇の主人公のことだろうか。

「…健気でいい子じゃないか」

「はっ」

まりあは心底馬鹿にしたような目で稜を見た。

「あれは芸術家肌の人間が緩やかな破滅の道を歩む物語よ。ああいう人間は自分から苦しみへ向かって行くの。おじいさんが倒れた時、絵なんか描かずに街の人の信頼を取り戻すかさっさと別の仕事を探せば良かったのよ。絵で賞をとれたらお金も入るし自分の心も満たせるし一挙両得、っていうわざわざハイリスクな道を選んで失敗。付き合わされたパトラッシェが可哀想だわ」

「うわあ…」

まりあの毒は健在だった。名作にひどい言い草だと稜は呆れ、同意を得ようと美那子を見ると、なんと彼女は実に楽しそうにまりあを見つめていた。まりあの毒舌を、まるで歌でも聞いているかのように。

「話がズレたわ。とにかく、芸術家肌の人間は、社会を生き抜くには弱すぎるのよ。巻き込まれて、ひながパトラッシェにならないといいけど」

「おい…」

「まあまあ。私は、二人はお似合いだと思うけどな」

美那子がまりあを宥めるように言った。

「心の弱い部分が同じ相手を見つけるということは幸福だよ。それだけで、自然とお互いを補い合うことができるからね」

美那子はひなと蒲原マサキの関係に賛成のようだ。ひなの蛇の力を知っているはずの美那子が認めるとは、稜は驚いていた。

「欠けていたものを埋めてくれる存在。ひなにとって、彼がそうなんじゃないかな」

「…私にはわからないわ」

「少なくとも、私は見つけられたけどね」

「…!」

美那子がまりあに目線をからませる。それは愛おしい、という顔だった。

稜はそれを知っていた。一度だけ、ひなの後を付けてこっそり美術室を覗いた時。

今まで見たことのないひながそこにはいた。

彼の描いた絵を見て、一緒に絵の具をいじって、彼に触れ、彼に笑いかけるひな。

それだけで、稜の不満げな口を閉じさせるには、充分だった。


「まあ、とにかく。稜、ひなのことちゃんと見てあげてね。あなたがひなの一番近くにいるんだから…ひなを泣かせたりしたら、あの男もあんたも許さないからね」

言いたいことを言うだけ言ってスッキリしたのか、まりあはまた人を圧倒させるような美しい笑顔に戻って言った。




コンビニの地下。三条のいる事務所に、一人の女性の姿があった。

「ええ。狼森ひなの蛇が安定しています…竜になる日も、近いかもしれません」

「…!じゃあ、うちの子は…!」

「まだ確定ではありませんが…このままいけば、竜は彼に向かうはずです」

「…っ!」

女性は両手で顔を覆い、咽び泣いた。

「よかった…よかった。やっと、これでやっと、解放される…!」


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