最後の帰郷
天弓京を出てから約一週間。右肩に槍を担ぎ、左肩に小さい荷物を背負ったその男は、愛する妻と息子の顔を思い浮かべながら西青川を渡っていた。
「おや、これはこれは。空光さんじゃない。帰ってきたんだねぇ!」
「お久しぶりです。お陰様で、帰って来れました」
男――空光は、西青川市場で青果店を営む女性に頭を下げた。
「あぁ、そうだ。ここに、売れ残りの林檎があるからいくつか持って行きなさい」
「良いんですか?」
「もちろんだよ。あ、どうせだから全部持って行きな!」
そう言うと、女性は手に持っていた布袋を空光に差し出す。
「――こんなにたくさん。何だか申し訳ないですね」
「良いんだよ、気にしなさんな。奥さんと子供さん、三人で仲良く食べておくれ」
「ありがとうございます」
空光は礼を言うと、また青果店に寄ることを約束して女性と別れた。
"光ノ使者"になってから、既に二十年以上経った。今まで何度も人の命を殺め、返り血を浴び、殺されそうになった。しかし、故郷に戻って来る度に、空光はそれらが全て報われるような気持ちになる。
(若々しい緑に冷たい川のせせらぎ、そして、どこまでも高く透き通るこの空……)
空光は、清々しい気分で空を見上げる。
(やっぱり、故郷の空気が一番おいしい)
そのまましばらく歩いていると、前方から、誰かの名前を呼ぶ声がした。
「空高!」
空光は、その女性の声を無視して歩き続ける。「あっ、間違えたわ」と呟く声が聞こえ、再び、同じ女性の声が飛んできた。
「空光!」
「……ただいま」
"魔槍"を握っていない方の手を挙げると、空光は駆け寄ってきた女性をしっかり抱き留めた。
「元気だったか?」
「元気だったか? じゃないわよ、もう。最近はほとんど手紙を寄越さないものだから、いよいよ何かあったんじゃないかって心配してたのよ?」
空光から体を離し、子供っぽく頬を膨らませる彼女は、空光の愛する妻だ。
「月に一度は手紙を書いてって言ったじゃない!」
「すまん。皇居で色々あって、忙しかったんだ」
申し訳無さそうに言い訳する空光。
「――ま、良いわ。無事に帰ってきてくれたことだし」
くすっ、と笑うと、空光の妻は言った。
「お帰りなさい」
「――ただいま」
二人は互いに微笑み合った。
「まぁ、こんなにたくさん!」
「西青川市場の奥さんがくれたんだ」
歩きながら、空光は妻に袋の中の林檎を見せた(さっきまでは、"魔槍"の穂先に袋を引っ掛けて持ち運んでいた)。
「嬉しいわ。今が旬だものねぇ」
何度も頷きながら、今夜の夕食の献立を考える妻を見て、空光は胸に温かいものを感じた。
他愛ない会話を交わしながら、二人は自宅近くの丘の上にやって来た。そこからは、住宅の様子はもちろん、子供達の遊び場となっている野原が見渡せる。
空光は、集団の中に一人息子を見つけた。その少年は、きゃっきゃっと笑い声を上げながら、仲間達と一緒に走り回っている。
「相変わらず天真は元気よ。『お父さん、まだ帰ってこないの?』もほとんど言わなくなったわ」
「えっ……、そりゃ寂しいなぁ」
妻の言葉に、つい本音を漏らす空光だったが、たくましくなったものだ、と息子の姿を眺める。
「ねぇ、今度は"虎鼠"(鬼ごっこ)やろうよ!」
「いいね、やろうやろう!」
天真と子供達は輪になり、追っ手の"虎"になる者を決めはじめた。
「――"虎鼠"か。懐かしいな」
空光は目を細め、優しい眼差しを見せる。
「今でも流行っているんだな」
「ふふ、そうなのよ。
でもね、あの子達の"虎鼠"、正直言って"虎鼠"になってないのよ」
「……どういうことだ?」
「見ていれば分かるわ。ほら、始まるわ。天真が"虎"よ」
首を傾げたまま、空光は妻が指差す方を凝視する。
四方に散り散りになった仲間達。辺りを見渡すと、天真は「よしっ」と頷いた。
「いっくよー!」
そう言うと、天真は勢いよく地面を蹴った。
「! 速い」
思わず呟く空光。
その足の速さと小回りが利く小柄な体を活かし、天真は次々と"鼠"を捕まえていく。
しかし、驚くのはまだ早かった。天真は、急にしゃがみ込んだかと思うと、反動を付けて宙に跳び上がったのだ。
「わっ、上からは無し!」
最後の一人となった"鼠"の少年は、"虎"の天真が頭上にいるのを見るなり悲鳴を上げた。
「反則じゃないから良いじゃん! つーかまーえた!」
にこっと笑うと、天真は"鼠"に向かって飛び降り、抱き着くようにして"鼠"を捕まえた。
「ふぅ。全員捕まえた!」
嬉しそうに笑う天真。その息は全く乱れていなかったが、その周りにいる仲間達はぜぇぜぇと荒い息をしていた。
「やっぱり、天真が"虎"だと、つまんないよぉ」
「すぐ捕まっちゃうもんねぇ……」
仲間達が口々に言う。
「……疲れちゃったし」
最後に捕まった少年も、息を長く吐きながらそのままひっくり返る。
「――あれ? 今度は、僕が"鼠"の番じゃない?」
「そうだけど……待って、休憩〜」
ついに、天真を除く全員が、思い思いに野原に寝転んだ。
若干残念そうにため息をつく天真だったが、丘の上に両親が立っているのに気付き、その場で跳びはねながら手を振った。
「お父さん! お帰りー!」
「ただいま」
空光も、天真に向かって大きく手を振った。
天真は、仲間達と明日も遊ぶ約束をすると、全力で丘を駆け登ってきた。
「お父さん!」
天真は父親の足にぎゅっとしがみつき、顔を衣になすりつけた。
「大きくなったな、天真」
「そりゃそうだよ。お父さん、一年も戻って来なかったもん」
「そうか、一年も会ってないのか……」
空光は天真の頭をがしがしと撫でる。
「――私、今から夕食の準備をするわ。今日はごちそうよ」
「やったぁ! お肉? お魚? あ、林檎があるからお菓子かな?」
「はいはい、出来てからのお楽しみね。時間になったら、また呼ぶわ」
「分かった」
妻が丘を下っていく。その後ろ姿を眺めながら、空光はその場に座った。"魔槍"を傍らに置くと、空光は静かに息を吐いた。
「お父さん。またお話聞かせて?」
天真が、あぐらをかいた空光の足によじ登る。息子を足の上に座らせると、空光はいつものように話し始めた。
まだ十歳で好奇心旺盛な天真は、父親が帰ってくるといつも、天弓京の話や"光ノ使者"の話を聞きたがる。
この時空光は、使者達と交わした会話や天弓京で起きた出来事を中心に話し、任務に関わる話は出来るだけ避けるようにしていた。任務の内容は幼い子供に話せるようなものでは無く、また、口外することは禁じられていたためである。
元々、空光は口数が少ないのだが、息子と会話する時だけは、不思議と饒舌になった。
「――それで? その泥棒は捕まったの?」
「すぐに捕まったよ。あれは、間抜けな泥棒だった。屋根から屋根へ飛び移りながら逃げていたんだが、屋根に着地する度に、盗んだ果物が落ちて、屋根の下へ転がっていったんだ」
「へぇ。じゃぁ、下にいても、どこにいるかすぐに分かっちゃうね」
「そうなんだ。だから、紅光が先回りして捕まえようとしたんだ。急に現れた紅光にびっくりして、泥棒は足を滑らせて屋根から落ちちゃったんだ」
「何それ! ほんと間抜けだねー!」
お腹を抱えて笑い出す天真。空光もそれにつられ、声に出して笑った。
天真の笑いが収まり、二人の間につかの間の沈黙が流れる。
「――天真」
それを破ったのは空光だった。
「なぁに?」
首をくいっと傾げて父親を見上げる天真に、空光は真顔で尋ねる。
「天真は、今でも、"光ノ使者"になりたいと思っているか?」
空光の問いに、天真は「うんっ」と頷く。
「昔からずっと思ってるよ。お父さんみたいな、強ーい"光ノ使者"になりたいって!」
「……そうか」
空光は天真の頭を撫でる。
「じゃぁ、外でたくさん遊んで体力を付けなきゃな」
「うん、分かってるよ。お父さん、帰ってくるたびに言ってるもん」
「そうだったな」
「二人ともー! 夕食が出来たわよー!」
家の窓から顔を出し、声を張り上げる妻。空光は"魔槍"を右手に持つと、天真を肩車して立ち上がった。十歳にもなると、小柄な天真でもさすがに少し重い。
「高ーい! また高くなったよ、お父さん!」
「大きくなった証拠だな」
天真の無邪気な声を聞きながら、空光は静かに笑った。
* * *
晴天の夜空に浮かぶ三日月を眺めながら、空光は例の丘の上に寝そべっていた。妻と息子は、とっくに寝静まっている。
『昔からずっと思ってるよ。お父さんみたいな、強ーい"光ノ使者"になりたいって!』
天真の明るい声が脳裏に木霊する。
("光ノ使者"と"影ノ使者"……。確かに見た目は華やかな役職だが、正直言って、勧めたいとは思わない)
空光は体を起こし、傍らに置いてあった"魔槍"を手に取った。その柄にはいくつもの染み。目を凝らさなければ分からないくらい薄いものだが、何の染みであるか、空光にはよく分かっていた。
(優れた身体能力を一番活かせるのは"光ノ使者"かもしれない。でも、あの明るい素直な性格を殺してまで、"光ノ使者"になって欲しくない)
三日月に雲が掛かり、辺りがほんの少しだけ暗くなる。遠方からは、ふ柔らかく、どこか寂しいふくろうの鳴き声がする。
(向こうから声が掛かろうが掛からまいが、いずれ、天真はこの職に就くのだろうな……。親子で手を血に染めるのは悲しい気もするが、仕方がないことのか……)
物思いにふけっていると、次第に眠気が襲ってきた。"魔槍"に額か触れると、耳の奥で透き通った音色が生まれた。"魔槍"を額に当てると、決まって聴こえる旋律だ。
(また、笛の音だ。――そろそろ戻って寝よう)
空光はすっと立ち上がると、ゆっくりと丘を下っていった。
* * *
二日後の朝。空光は青川平野を出発した。
その時は、天真も妻も、再び空光と会えることを全く疑っていなかった。
「お父さん、また帰ってくるよね?」
「あぁ。天真がいい子にしていたら、また帰ってくるよ」
まさか、二度と会えなくなるとは……誰も考えていなかった。
[最後の帰郷 完]
早速、『華弁、ひとひら』第一話を読んでいただき、ありがとうございます!
今後、本編と平行する形で、こちらの番外編の方も書いていきたいと思います。
本編と同じく亀更新になりますが、よろしくお願いいたします。