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危険な兆し
ICU前の椅子に、
葵は力なく座り込んでいた。
「及川さん……
お母さま、今夜が山です」
医師の言葉が
遠くで響くように聞こえる。
(やだ……
まだ行かないでよ……)
母の手は細く、冷たく、
呼吸は浅い。
大好きだった柔らかい笑顔、
石鹸の香り。
今はもう感じることができない。
葵は無意識に
左手の婚約指輪を触った。
俊介と結婚することを決めたのは、
“正しさ”を選んだ結果だった。
でも今、
胸の奥にあるのは
説明できない空洞。
(どうして……
こんな時にまで……
店長のこと……)
涙が滲んだ。




