未読のまま──触れたら崩れてしまう現実
朝、まだ薄暗い時間に家を出るのが、葵の習慣になった。
俊介が起きる前に。
顔を合わせないように。
玄関のドアを静かに閉めるたび、
胸の奥が少しだけ痛む。
それでも、朝食だけは作っていく。
テーブルの上に置かれた皿と味噌汁。
それが、夫婦として残っている最後の“形”だった。
仕事の休憩中、スマホが震えた。
俊介からのLINE。
画面に光る通知を見た瞬間、心がざわつく。
(……見ない)
開いたら、自分は既婚者だという現実に引き戻される。
どれだけ心が揺れていても、
どれだけ19歳の頃の自分に戻ってしまっていても、
自分には夫がいる。
結婚生活を維持しなきゃいけない。
それが“正しい”ことだと分かっている。
なのに──
心だけは、別の場所に向いてしまう。
36歳になった今でも、
胸の奥のどこかが、
あの夜の歩幅に戻ってしまう。
あの声の温度に、時間を巻き戻されてしまう。
忘れたはずの気持ちが、
静かに息を吹き返してしまった。
俊介が灯で撮った写真。
大和と俊介と知らない男性が並んで笑っていたあの一枚が、
葵の胸を深く刺した。
俊介はきっと分かっている。
あの写真が葵に何を思い出させたのかも、
誰をずっと想い続けていたのかも。
最初は問い詰めようと思っていた。
「なんで灯に行ったの?」
「どうしてあの人と一緒に?」
でも今はもう、どうでもいい。
怒りも疑問も、どこかに消えてしまった。
夜、家に帰ると、俊介はいない。
最近はいつも遅い。
朝も夜も、完全にすれ違っている。
未読のままの通知が、
小さく明滅していた。
(……見ない)
そう決めて、
葵は指先をゆっくり滑らせた。
現実を避けるように、
大和のリールへ心が向かう。




