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境界線が破られる
夜。
風呂から上がると、リビングの空気が妙に静かだった。
俊介が、葵のスマホを手にしていた。
その瞬間、
背中に冷たいものが走る。
——触られた。
そう思った。
スマホは今、葵の身体の一部みたいになっている。
唯一の逃げ場で、唯一の呼吸で、唯一の灯り。
それを俊介の手が包んでいる。
気持ち悪い。
吐き気がするほど。
「最近さ……スマホ、ずっと持ってない?」
俊介は画面を見たまま言う。
声は静かで、優しさすら混じっているのに、
その優しさが逆に怖い。
(触らないで。返して。返してよ)
気づいたら、
葵の手が俊介の手からスマホを奪い返していた。
反射的に。
身体を守るみたいに。
俊介が少し驚いた顔をする。
「……そんなに大事?」
その言葉が、胸に刺さる。
大事なんじゃない。
これがないと、呼吸ができない。
これがないと、自分が自分でいられない。
でも言えない。
「……疲れたから寝るね」
逃げるように布団に潜り込むと、
胸の奥で何かがきしんだ。
俊介の手が触れたのは、
スマホじゃなくて、
葵の“境界そのもの”だった。
その境界線が、静かに破られていく音がした。




