第10章:翻訳の取り消し scene1 集会の招集 ― 安定を確認する場
エル=カナ中央評議広場は、いつもと同じ形をしていた。
石畳は整えられ、掲示板には新しい通達が歪みなく貼られている。
集まった市民の列も、互いの距離を保ったまま、静かに広場を満たしていた。
評議官の声が淡々と響く。
治安報告。
前期と同じく、争いは確認されていない。
物流確認。
交易量は安定し、滞留はない。
労働配分。
欠員なし。遅延なし。調整不要。
一つ報告が終わるたび、人々は小さく頷いた。
安堵ではない。ただの確認だ。
問題が起きていないことを、改めて問題なく受け取るための儀式。
この街では、集会は決断の場ではなかった。
現状が正しく続いていることを、皆でなぞるための時間だった。
その輪の中に、ティエナ・ルー・リードは立っていた。
招かれた立場。
発言を求められる側。
かつて、この街に「祝福」を与えた癒し手として。
彼女に向けられる視線には、期待があった。
救いを乞うものではない。
判断を仰ぐものでもない。
ただ――確認のための目だった。
この安定は正しいのか。
この沈黙は、合格なのか。
ティエナは、その問いが言葉になる前から、胸の奥で軋むのを感じていた。
精霊は、語らない。
だが、彼女には分かっていた。
ここで保たれている安定の下で、
何が削られ、
何が失われ、
何が、もう戻らない形で静止しているのかを。
それを知っているのは、この広場でただ一人、彼女だけだった。
だからこそ――
この場で何かを「取り消す」ことが、どれほど異常な行為かを、
誰よりも理解していた。
集会は滞りなく進み、最後の議題が近づく。
やがて、評議官の視線が、自然な流れのようにティエナへ向けられた。
祝福を与えた者に、
今の安定を、もう一度、肯定してもらうために。




