第8章:沈黙を祝福と誤った日 scene1 再訪 ― 沈黙の街は変わらない
ティエナが再び〈エル=カナ〉の門をくぐったのは、昼前だった。
門番は手続きを淡々と済ませ、名を尋ねない。
滞在理由も問われない。
それが、この街の流儀だった。
街道は相変わらず整っている。
石畳に欠けはなく、荷車は詰まらず、
積み荷の受け渡しは静かに進んでいる。
声はある。
だが、高さがない。
商人たちは交渉をしているはずなのに、
語調は一定で、身振りも小さい。
合意も不満も、同じ温度で処理されている。
治安兵は配置されているが、
立っているだけだ。
呼び止めることも、仲裁に入ることもない。
問題が、起きていない。
人間関係も、同様だった。
挨拶は正確で、距離は適切。
近づきすぎず、離れすぎない。
摩擦が起きないよう、最初から設計されている。
ティエナは、足を止めた。
街の中央で、そっと意識を澄ます。
精霊は、いる。
消えてはいない。
だが、反応しない。
呼びかけても、
拒まれた感触すら返ってこない。
風は流れるが、そこに混じるはずの揺らぎがない。
沈黙は、続いている。
それでも、街は落ち着いていた。
不安は見当たらない。
恐れも、焦りもない。
むしろ――安定している。
人々はこの状態を、
「問題のない日常」として受け入れ始めていた。
ティエナ自身も、
胸の奥にわずかな違和感を残しながら、
それを「差し迫った異変」とは捉えられずにいる。
何も起きていない。
誰も困っていない。
沈黙は、まだ、
危険としては立ち上がっていなかった。




