最終章:精霊は、語らない
ティエナは、名を残さなかった。
碑文もない。
年代記にも載らない。
彼女を称える称号も、禁じる法も作られなかった。
ただ、各地に残ったのは――
小さな空白だった。
宿と呼ぶには簡素で、
聖域と呼ぶには静かすぎる場所。
祈りも、治癒も、預言も要求されない空間。
そこでは、誰も急かされなかった。
何かを選ぶことも、決めることも、
ましてや、正しさを証明することも求められない。
世界は、完全には救われなかった。
争いは消えない。
災害は起きる。
精霊災害も、完全には終息しなかった。
英雄は、今も生まれ得る。
魔王の概念も、消えてはいない。
だが、かつてのように、
それが唯一の解決として世界を覆うことはなくなった。
人々は知ってしまったのだ。
「すぐに終わらせなくてもいい」という選択肢を。
疲れたなら、休んでいい。
分からないなら、決めなくていい。
答えが出ないなら、沈黙してもいい。
それは救済ではない。
だが、破滅でもなかった。
精霊は、語らない。
命じない。
保証しない。
未来を指し示さない。
ただ、間が生まれた場所に、
気まぐれに留まり、
やがて、何事もなかったように去っていく。
言葉を持たないからこそ、
人は耳を澄ます必要があった。
自分の呼吸に。
隣にいる誰かの沈黙に。
今、何も起きていない時間に。
ティエナは、そのための場所を残しただけだ。
世界を導いたわけでも、
修正したわけでもない。
ただ、
「休む」という行為が、
選択肢として消えないようにした。
物語は、ここで終わる。
だが、読書は終わらない。
語られない精霊のそばで、
人は今日も、
少しだけ立ち止まり、
次に進むかどうかを、
自分で決めている。




