シーン8:章の締め ― 翻訳をやめた日
その日、
ティエナは癒しを奪ったわけではなかった。
誰かの祈りを否定したわけでもない。
精霊を遠ざけたわけでも、
奇跡を禁じたわけでもない。
ただ――
終わらせる役を、降りただけだった。
それまで彼女は、
癒しの始まりと同時に、終わりを宣言する存在だった。
ここまででいい。
これ以上は、踏み込まない。
生きるのは、あなた自身だ。
その線を引くことが、
翻訳という行為の正体だった。
だが、その日、
その線は引かれなかった。
世界は即座に反応した。
癒しは溢れ、
精霊は留まり、
完了を失った奇跡が、各地で滞留を始めた。
回復は続き、
救済は終わらず、
結果として、災害が広がった。
人々は戸惑い、
魔導院は混乱し、
世界は軋みを上げた。
それでも――
ティエナは動かなかった。
沈黙は、放棄ではない。
逃避でもない。
それは、
世界に委ねるという選択だった。
彼女は知っていた。
これが破壊ではないことを。
これが裏切りではないことを。
翻訳を続ければ、
世界は安定する。
だが、その安定は、
常に誰かが答えを代行することで成り立つ停滞だった。
今、世界は混乱している。
精霊は溢れ、
災害は拡大している。
だが同時に――
世界は初めて、
自分で答えを選ばされている。
癒しに頼るか。
物語に逃げるか。
あるいは、
誰も正解を示さないまま、生き続けるか。
その選択を、
誰かに翻訳させることは、もうできない。
その日。
ティエナが癒しをやめた日は――
世界が、
自分自身の言葉で答えを探し始めた、
最初の日だった。




