第14章:癒さない選択 シーン1:小さな不調 ― 癒せると分かっている朝
灰の原に朝が来る。
夜の冷えを含んだ灰色の地面が、わずかに光を返し始める時間帯だ。
低炉の集落は静かだった。
火はすでに起こされ、煙も上がっている。人の営みは滞りなく続いているが、そこには精霊感応灯も、祈りの標識もない。ただ、手と火と時間だけがある。
エルネは炉のそばで、いつもより動きが遅かった。
腰を落とす動作に一拍の間が入り、立ち上がるとき、関節が軋む音がする。
「……少し、来てるな」
独り言のように呟き、膝に手を当てる。
痛みを隠そうともしないが、訴える気配もない。
ティエナは、その様子を見ただけで分かった。
——癒せる。
精霊の気配は、この土地ではほとんど感じ取れない。
呼びかけても、応答は返らない。
それでも、彼女の内側には確信があった。
呼べば、通る。
ほんのわずかだが、楽にはなる。
完全な回復ではない。
だが、関節の重さは和らぎ、動きは軽くなるだろう。
それが分かるからこそ、ティエナは動かなかった。
彼女は一歩、踏み出しかけて止まる。
手を伸ばせば、いつもの癒しの所作に入れる距離だ。
内側で、短い言葉が浮かぶ。
——できる。
次の言葉が、間を置いて続いた。
——だが、それが最善かは別だ。
エルネは、こちらを見ない。
痛みを理由に、誰かを呼ぶこともしない。
この朝は、癒しを必要とする「事件」ではない。
生活の中に含まれる、小さな不調だ。
ティエナは、手を下ろした。
癒さない理由は、無力だからではない。
迷っているからでもない。
選べる状態で、選ばない。
その前提は、すでに整っていた。
灰の原の朝は、何事もなかったかのように続いていく。




