笑い声
真は剣や魔法のような力を授けてもらいたいのだと思うと同時に、この世界には前に住んでいた世界にはない力があることはわかった。
僕は成長しているのか。
真は自問自答した。
首の輪っかも皮膚になじんで、いつの間にか入れ墨のように変化していた。指で触れてわずかに凹凸がわかるくらいで、彼女が確かめるように覗いてくるので、顎を上げて見せてやると見えるときと見えないときがあるようだ。
サンダルの上から、一枚の革を足裏と甲と足首に巻いた。巻き方は彼女が教えてくれた。踵を使わずに歩けるようになるまで、少しコツが必要だが、しばらくして慣れた。
また峠越えか。
なだらかな斜面に枯れ草が続いていた。
道沿いに簡素な木組みの柵がある。
白い毛で覆われた獣がいた。
放牧かな?
青い空には悠々と鳥が舞い、牧草地では草を食む音が聞こえた。ほとんどの子はずっと食べていた。たまにこちらを見る子もいた。毛で覆われている子象のようにも思えた。地面に垂れる毛の下、ただただ枯れ草を食べていた。一頭が上げると、何頭もが同じようにした。たまに食む音が消えて静になる。仲間と思われたのかもしれない。真は髪を後ろで結んでいた。顎から頬に生えていた髭を剃ろうとしたが、ナイフなどでできることはなく、まばらに剃れた。
見かねた彼女が指招きした。
石けんとナイフで剃ってくれた。
「ありがとう」
「ドウイタマシテ」
村でしていたのかもしれない。
「にしてもでかいと呟いた」
「デカイ?」
両腕で大きく輪を描いた。
彼女は納得した。
遠くの丘陵地では、牧草地帯が薄れ、低木林から木立が増えて峠へと繋がる。あのつづら折りの小路は空まで登るのではないかと思い、溜息を吐いた。
☆☆☆☆
レイも峠を見て溜息を吐いた。
ずっと同じことの繰り返しで、街を見ることなんてできないのではないかと考えた。
真がいてくれてよかった。
草食で臆病なバグダだ。
暇潰しを閃いた。
「マコト、ちょっと来て」
真の髪の毛を抜いて、バグダを指差して抜いてきてと告げた。ぶっきらぼうに拒否したので、片手で手の平を握るマネをしてみた。
真は外套と荷物を降ろした。
「お、やるのね」
ボロボロの半袖のシャツを見て、どこかで買ってあげないといけないと考えた。真は柵の真ん中をくぐると、腰ほどもある草原を恐る恐る進んだ。レイは笑いながら柵に腰を掛けた。
草食で臆病なバグダだから、襲われることもないだろうと高をくくっていた。毛を抜いたところで気付かれないのではとも思った。
「にしてもよく近付いてるなあ」
抜いたらしい。
茂みが揺れた。
「え……?」
レイは身構えた。
「こっち来るな!」
柵から落ちるように逃げた。
☆☆☆☆
理科の知識からすると、草食動物は後ろの視界も広いが、前からは立体に見えないだけで、見えているから近づけるわけもない。ということは後ろしかない。結局近づくためにはリスクしかない。予想以上に草の背が高く、隠れて行動できそうだと思った。獣の頭の毛は風になびいた。鈍そうだ。ずっと枯れ草を食べていて、こちらのことを気にもしていない。地面に潜んだ真は手を伸ばして毛に触れてみたが、特に警戒しているような動きはない。真は息を殺した。肩越しでは彼女がニヤニヤしていた。逃げるときは、奴のところしかない。
死なばもろともだ。
覚えていろ。
道連れにしてやる。
ただここまで近づいているのに気づかない獣も獣だなと思いつつ、真は垂れ下がる一本を恐る恐る指に絡めた。風に揺れていたので柔らかいと思っていたが、意外に剛毛だ。
一息に抜いた。毛の下の額に牙に似た角が覗いた。これは毛むくじゃらのサイだ。目が合うや否や僕は来たところへ、すなわちニヤニヤした彼女のところへ一目散に逃げた。
猛追してくる。
怒ってる。
当然だ。
機嫌よくメシを食べていて、知らない奴が毛を抜いたら怒る。メチャクチャ走るのが速いのに驚いて逃げた。てっきり彼女が救ってくれるものだと思っていたが、慌てて柵から飛び降りると、外套や荷物を抱えて峠へ駆け出した。
「おまえも逃げるのか!」
真は柵を乗り越えたが、猛獣は柵など気にせず突き破ると、転がるように向きを変えた。
真は彼女を追いかけた。
「このくそったれがっ!」
彼女も何やら背中で叫び返してきた。
たぶん、
「こっち来るな!」
だろうが、他に道はない。
倒れかけながらも何とか走ると、あのときは美月に抱き止められた。また同じような奇跡が起きてくれるわけはなく、ただただ地面に野球のように滑り込んだ。
踏み潰される!
異世界で追いかけてきた獣に踏み潰されましたなんて嫌だと体を丸めた。獣たちは真をまたいだ。獣臭い土埃の地面越し、彼女が追いかけられるのが見えた。
「さすがに助けないとな」
思うかっ!
笑いが込み上げたきた。
柵越し、何頭かと目が合う。
「そういうことね」
真は急いで駆け出した。
背後で柵が弾ける衝撃がして、木片が頭上から降ってくる下、ひたすら逃げた。いつしか景色は雑木林に変わっていた。倒れ込んだときには、後ろの猛獣の気配は消えていた。
真は仰向けになると、木々の間から覗く空を見つめた。心臓は暴れるように脈打ち、激しく咳き込んだ。指には道に落ちていたであろう猛獣の毛が束で絡まっていた。わざわざ抜きに行かなくても、道で拾えば済んだのに、彼女は退屈しのぎに遊んだのだ。霞んだ視界に放り出されたリュックが見えた。どうにかこうにか起き上がると、リュックと外套を拾い上げた。
倒れた彼女が路の上で荒い呼吸をしているのを見つけた。彼女のシャツ越しの薄っぺらい胸は新鮮な空気を求めて上下していた。
殴ってやろうとして近づいた。
言うことの聞かない体は彼女に覆いかぶさるようにして突っ伏すのが精一杯だった。
「このガキが」
しばらく動けないままでいた。
やがて彼女の体が小刻みに揺れた。
堪えきれず、声を出して笑い出した。体を丸めて必死にこらえようとしたが、それでも笑いは止まらなかった。真の頭を叩いて、苦しげに笑っていた。真も怒る気が失せてきた。
眩しい笑顔だ。これまで見せていた能面のような顔、威嚇するような尖った目、いつも固いものを噛み砕こうとしているかのような顎の筋肉は消え、涙が溢れる瞳は輝いていた。伸びた黒髪が乱れ、汗でまとわりつくのも構わずに笑い転げた。咳き込んでも笑いは止まらない。




