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 暗い朝、レイは目を覚ました。隣でずっとうめいている奴隷の腫れた顔に驚いた。近くにある湧き水で布巾を濡らしてキズを拭いた。またたく間に汚れたので、何度か湧き水との間を往復してあら方拭いた後、額に載せた。

 レイは顔を洗い、歯を磨いた。


「奴にも教えないと」


 言葉は通じないし、歯磨きは知っているのかと考えながら口をすすいだ。


「顔は拭いてやるとして」


 急に彼が飛び込んできた。

 手に紐を持ち、今にも押し倒しそうな勢いで来たので、さすがにレイも身構えた。


 絞め殺される?


 お互い無言で見つめていた。

 歯ブラシを渡して磨くマネをした。

 奴隷は磨きはじめた。

 はじめは苦そうにしていたが、やがて血を混じる泡を吐いた。水を指差してやると、手ですくい頬を左右交互に膨らませて口をすすいだ。

 何とか話せればいいのにと思う。

 奴隷は歯ブラシを見つめたまま動きを止めたので、レイは湧き水ですすいだ。奴隷は何だか嫌そうな表情をしていたが、レイは面倒を見てやっているのにと少しムッとして離れた。

 慌てて紐を持った。

 ここで逃げられたら困る。


 ☆☆☆☆

 空には星が見えていた。早い出発には違いないが、夜に歩くリスクを思えば、こうするしかない。真はリュックを背負い、夜露を払い除けた外套をまとい、また彼女の小さい背中を見つつ歩いた。途中村や町に出くわしたが、滞在らしい滞在はしない。彼女は目的地がある様子だ。ただそこまでの道には疎いようで、出くわしたと言い方はあながち間違いではない村や町などでも、例え立ち寄ることがあるにしても、朝ならわずかな食料を買うくらいで、夕暮れならば町外れで野宿するくらいで後にした。

 たまに旅をしていそうな人にも会うかなと思っていたが、そうそう会わない。ムーミン谷のスナフキンみたいな人は、厳密には人ではないらしが、そんなにいるわけはない。ここは目的もなく、旅なんてしている奴を見ると死にたいのかと言いたくなる世界だ。今のところ魔獣や聖獣に出会うこともない。人や猫や犬や鳥くらいには会うが、おそらく猫や犬だ。人は野良仕事の連中や樵や村から村へと行く行商人だ。


 ☆☆☆☆

 五日が過ぎた頃のことだ。殴られたところは熱も痛みも次第に退いてきたが、足に豆ができ、膝が震えるようになってきた。しかし急いでいる彼女には何も言えず、何をそんなに急ぐことがあるのかわからないまま、半ば早歩きで残されないように必死で食らいついた。

 が、限界が来た。

 話すこともできない、ここがどこかもわからない、これからどうなるのかわからない。これから越えなければならない峠を前にして、これまで抑えつけていた苛立ちと解消されない不安が化学反応のように爆発して空に叫んだ。リュックは重いから小柄な子に持たせるのは言いたくないが、少しは考えてくれと叫んだ。

 革紐が立てと命じるが、真は抵抗した。高校生と小学生ほどの体格差だから、彼女は寝転んだ真を動かすことなどできないと諦めた。

 何やら叫んで革紐を地面に叩きつけた。


 勝った。


 真が喜んだ瞬間、彼女は背を向けてどんどん峠へと歩き始めた。


 待て待て。

 置いていかれるのか。


 彼女の姿は峠の入口の雑木林へと消えた。

 すぐ追いかけるのも癪なので、しばらく待つことにした。しばらくというほどの間もなく慌てて追いかけた。こんなところで野垂れ死にしたくはないと不安が込み上げてくる。雑木林に入るとすぐ、戻ってきた彼女と衝突して跳ね飛ばされた。彼女は近づいた真の首から地面に垂れ下がる革紐を拾い上げた。互いに無言で急な峠を歩いた。もしかして彼女も不安なのかもしれない。言葉がわからないので聞くに聞けないまま、二人どうにか昼に峠を越えた。牽制し合いつつで言いようのない疲れに襲われ、どちらともなく涼しさを求めて沢へ降りた。

 この匂い。


 湯気!


 真たちは互いを見た。彼女は真の外套の裾を上げて臭いを嗅いで鼻をつまんだ。

 彼女はそっと岩陰を覗いた。

 何があるかわかったものではない。


 温泉がある!

 まさかこんなところに。


 あきらかに風呂は人の手が加えられているところだ。誰かが石で囲んでくれていた。真は服を脱いで入ろうとして、革紐で止められた。

 彼女が指差した。

 離れろということだ。

 極楽だ。

 雲一つない秋の空が遠い。何としても美月の命を救おうという気持ちが、ただ生き延びようという気持ちに変化していた。こんなことでいいわけはないが、他に考えが浮かばない。


「あたっ」


 灰色の塊が投げつけてきた。この獣臭い塊は何かと考えた。木片が飛んできた。彼女が腕を擦るような仕草を見せた。石けんだな。木べらで垢を落とせということだ。甘い匂いの巾着が飛んできた。香水だ。知識が増えていく。


「投げるな。品がない」


 向こうも何やら叫んだ。

 さっぱりした後、彼女は真の前で濡れた体を布巾で拭い、新しい服に着替えた。真は着替えはないので自分で洗うことにした。次の町か村で買うにしても資金はない。真は洗濯物を岩に干して乾くのを待つ間に考えた。

 岩の上で日光浴をした。

 真は肉のようなものを噛んでいる。肉かどうか怪しい。真は外套をまとっていたが、他に客はいない様子なので、まだ楽にできた。


 これからどうなるんだろうか。


 対岸の茂みから三人の女が現れた。こちらには気づいていない様子で騒いでいた。茂みに覆われた川が華やいだ気がした。白い肌、黒い髪、そこそこの胸、歳は若く見えた。


 お、見えるのかな?


 彼女たちは、誰かの噂話でもしているのだろうか、笑いながら手慣れている様子で素早く脱いだ。真は彼女たちの姿が岩に隠れるまで見ていた。無意識に上半身を伸ばして覗こうとしていたようだった。革紐が波打ち、真の手の甲で跳ねた。鞭は軽く振っても意外に痛い。


「あたっ」


 人を奴隷扱いするくせに。

 でも悲しげな瞳を思い出した。

 真は半乾きのシャツとジーンズとトランクスを棒に吊るし、肩に担いで歩いた。革の外套の下には何も身につけていない。真もこんな格好で歩きたくないが、彼女は急いでいる。

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