奴隷
[マコト]
真は指から漏れるくらい深い泥をつかんだまま目を覚ました。雨はやんで、紅葉した巨大な樹からの木漏れ日が眩しい。
何とか樹にもたれた。
「美月さん……」
淡い日差しのような髪が、なめらかに肩まで伸びていた。ハンドルをきるたびに、美月のピアスが揺れていたのを覚えている。
『勉強しすぎじゃない?』
『これくらい何とも』
『そう?わたしは勉強苦手だから真がうらやましいわ』
『姉さん、何でもできるからいいじゃないか。そっちがいいよ』
『体は丈夫っ!』
二の腕のコブを見せた。エプロン姿だったので、たぶん夕食を作っていたのだろうと思うが、どうしても断片しか思い出せない。
「ここは……」
雫が落ちて、樹に背を預けて立ち上がろうとしたとき、頬に拳を浴びて、倒れたとき膝で腹を蹴られて泥に顔を埋めて吐いた。
サンダル履きの足が見えた。
何やら人々が話しているようだ。起き上がろうと腹を抱えながら聞いたが、何を話しているのか、何語なのかすらわからない。何人かの会話だということは理解できた。
見上げると、痩せた男がいた。くすんだ麦わら帽に、日に焼けすぎた顔、首から黄ばんだ手拭いを掛けて、手には鎌を持っていた。
「ここは?」
真は不安気に自分に尋ねた。
これでは誰にも聞こえないだろうな。
会話が済むと、また真は泥に押さえつけられて後ろ手に縛られた。訳がわからないまま引きずられたものの、戦意喪失で騒ぐ気になれないまま藁の散らばる荷車へ放り込まれた。
真は荷車の上で咳き込んでいたが、ようやく顔を上げることができたとき、牛のような獣の手綱を取る男の背が見えた。起き上がろうとすると、固い柄が押さえつけてきたので、静かにしておかなければならないと思った。
聞き耳を立てるしかできないような状態で何も聞こえず、真は目玉だけを動かした。驚いたことに彼らの額にはそれぞれ縦に眼がある。おそらく入れ墨のようなものだとは思うが、考えてどうなるものでもない。
捕まっている。
わかる。
冷静になれ!
ここは魂の世界か。
段差を越えるたびに全身が固い床に叩きつけられた。ようやく意識が戻ってきた。不安が押し寄せてくる。学校へ行かなければと焦る前の夜と同じだ。吐き気が収まらない。額に眼の入れ墨を入れた言葉の通じない村など。
荷車が濁った小さな川に架けられた薄い木の橋を渡ると、丸太を組んだ門をくぐった。今にも潰れそうな板葺きの家が密集し、上流か下流かわからない方に粗末な家が点在していた。
真は川沿いに見えた小さな畑と荷車の藁から何となく収穫後だと考えた。高床庫の前には穂のようなものが見える。
ここは村なのか?
魂の村?
人々の聞いたことのない言葉が近づいては離れ、たまに気配が近づいてきて節くれた指が真の顔を見ようとして顎を捩じ上げた。皆が皆の額に眼がある。ただ一様に額に彫られたような眼にも少しずつ違いがあるように思えた。
三人が真を担いだ。
真は声にならない声でわめきながら、生きているんだぞと必死に体を動かした。地面に落とされて蹴られてて、棒で叩きつけられた。
真に人々が集まった。よくて藁で編んだサンダル履きで、悪くて裸足のままだ。どうひいき目に見ても友好的ではないものの、すぐ殺してしまおうという気もなさそうだ。
(すぐには……)
底知れない不安の波が腹の底から込み上げてきて、吐き気と同時に泥を吐いた。そんなことはお構いなしに長い柄で打たれたので、気力も奪われて、すぐ動けなくなってしまった。
また何か相談している。どこからか威勢のある声がして静まった後、皆が退散した。
真は引きずられ、翌朝まで獣臭い小屋で荷車を曳いていた獣と寝た。獣は子牛にもロバにも似ていて、耳のところに皮で覆われたコブがある。尿意を我慢できずに叫んだが、監視に殴られて漏らした。涙が出てきた。
獣が頭上でメェと鳴いた。
小さな人影が見えた気がした。
[レイ]
レイは粗末な小屋に戻ると、育てのお婆以外に数人の大人がいた。
「おまえのために奴隷を捕まえた」
「奴隷?」
「旅の共にな」
薄汚れた髭をたくわえた老人が杖に両手の体重をかけて話した。
「朝、おまえは旅に出る。一人では心もとないだろうて、若いもんが連れてきた」
お婆が服を持ってきた。
旅支度だった。
「これは村の方々からいただいたものだ」
「感謝せい。おまえは奴隷の扱い方を明日の朝教えてやる。今日は食うて寝るがいい」
切り株のテーブルに久々に見たパンといつも食べている煮込み豆が置かれていた。
「奴隷は?」
「バラン小屋におる」
バランとは荷車を引くし、畑を耕すし、死ねば肉をくれる働きもののおとなしい家畜だ。
「見てきていい?」
「見るだけだぞ。触れるな」
奴隷ではなく、一緒にいてくれるお供がいるだけで心強い。絶対に放したくないと思いながら家畜小屋を覗くと、バランの下、後ろ手で縛られた大人が転がされていた。散々殴られたらしい。寝ていても呼吸が荒い。何やら理解できない言葉を何度も何度も繰り返していた。
「ゴメン……ナサイ……」
「美月サン……ゴメン……」
自分が散々な暮らしをさせられてきたのに奴隷などいらないが、この人と離れれば一人になると思うと奴隷として扱うしかない。
レイは言い聞かせた。
「うまく扱える」
翌朝、暗いうちに広場にいた。旅の支度を整え、奴隷の扱い方を教えられた。革紐は絶対に放すなということと、言うことを聞かせたいときは殴るようにとレイも実践させられた。しかし自分は絶対に彼を殴らないと決めた。




