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都会との時差というもの

作者: 竹宮 潤

 インターネットの悪口と取らないでほしいんだけど、最近考えたことについて書いてみる。

  青木玉氏の「小石川の家」を初めて読んだのは学生時代のことだったと思う。確か大学入試の国語の問題として一部が使われていたのだ。一読して自分の子供時代がありありと思い浮かんできた。雨の中、到来物のおすそ分けをしに近所の家を訪ねた時のことなど、自分でも忘れていたような思い出が一気に浮かんできた。

 「小石川の家」は作者の子ども時代の思い出を書いたエッセイである。両親の離婚によって、母の実家すなわち祖父である明治の文豪幸田露伴こうだろはんの住む家に同居することになった所から物語は始まる。作者の母親は露伴ろはん先生自慢のしっかり者の娘、幸田文こうだあや。気難し屋の祖父との丁々発止のやりとりは、小気味よい。そして要領のいい返事もふるまいもできずにおろおろする孫の玉子さんは、私の分身のようだった。

 私自身も露伴先生とは比べるべくもないが、食道楽の祖父と同居する子供時代をおくっており、口伝えでお口上を暗記させられてお使いに出された経験が何度もある。今のようにメールどころか家電さえないお宅もある時代、お使いは買い物代行や物の受け渡しだけでなく、お口上を伝えるのも大切な仕事だった。もちろんできないのは恥ずかしいことなのである。「ガキの使い」と思われないよう、必死に覚えて、復唱して出かけたものだった。

 さて、近年になってこの「小石川の家」で、はたと思い当たったことがある。この本の時代は大正から昭和の初めであって、わたしの子ども時代とは半世紀の時差がある。けれど、「ピアノのある家はお金持ち」とか「お使いのお駄賃といってお菓子やお小遣いをもらったら必ず報告すること」など、全く時差を感じさせない内容が多かったのだ。これが首都東京と地方の時差なのだとしたらどうだろう。

 インターネットもSNSもあり、世界中どこにいても情報はリアルタイムで手に入るように見える。けれど実感としての時差は今でもあるんじゃないだろうか。

 たとえば「保育園落ちた」という発言が話題になったとき、わたしの近辺では「都会は大変なんだねえ」程度の反応だった。なんせ、保育園の定員が有り余っていて統合させようという方向にすすんでいたのだから。「さす九」なんてのも、田舎のおっさん連中あるあるで、九州の方々だけがディスられる対象じゃない気がする。私自身仕事していて「女なんかの言うことが聞けるか。」と言われて、直属の上司も女性だったからさらに上の方をお願いしてクレーム対応したことがある。(ちなみにわたしは九州に住んでないし、クレームつけてきたのは当時40代くらいのおっさんだった。)

 情報はリアルタイムでも受け取る側がどこに住んでいるかで「時差」ができてしまう。発信する側はわかっているのかね? 字面を理解するのと、実感としてわかるのとはちがうんだよ。想像力がないから「ヒグマを処分するのはかわいそうだ」って意見も生まれる。観光地に生まれてそこに住んでる人にとっては、オーバーツーリズムは日常生活の邪魔者でしかない。それが実感になるまでには、埋めようのない「時差」があると。

 みなさまはどう思われます。時差は笑ってすましますか?なんでわかってもらえないかと怒りますか?


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― 新着の感想 ―
面白いですね。言葉も中心から伝播した結果、東北と九州で違うのに通じるみたいな話があったような。 熊の話ですが、呆れを通り越して不気味です熊を尊ぶ宗教とか?熊が擬態してるか熊に恩を受けた一族とか、それと…
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