31話・投げかけられた悪意
「ネルケ夫人と、クランチオ侯爵か」
「そのようですね」
いよいよ来たと、思った。このままクランチオ侯爵が大人しく去ってくれれば良いけれど、こちらを見る眼光は鋭く、何か起こりそうな予感をさせた。彼の側にいるネルケ夫人は可笑しそうに声を上げた。
「あの歌劇を見て下さったの? 素晴らしかったでしょう? クランチオ侯爵さまの抱える劇団の者達は、実力者揃いなのですよ」
「はい。なかなか素晴らしかったです。あの歌声もその内容も惹きつけられました」
サクラなのか、ネルケ夫人と会話している者達は感極まった様子で感想を述べていた。
「リックという若者が現れた事で、領主夫妻が翻弄されて慌てているのが面白かったです」
「最後のあのセリフで『お前は過去の遺物になりさがった。もう時代はおまえを必要としていない』とありましたが、あれには何か意味があるのでしょうか?」
一人の女性が疑問を口にすると、その隣にいた男性が何かに今、気が付いたような素振りで言った。
「リックと言えば、公子さまのお名前に何だか似ていますね。公子さまは10年前に失踪されて、最近お戻りになられたと聞きますが、実際の所どうなのでしょう?」
ご本人なのでしょうか? と、疑問を呈する男性の言葉に、周囲がざわめき始めた。
「大公さまがお姿を見せない今、後継者問題も揺れているそうだ」
「今まで消息が知れなかった公子だ。似た誰かが入れ替わっていたとしても分からないかも知れない」
「よく似た人間なんて、世の中に三人はいると聞くぞ」
「まさか公子さまは偽者?」
クランチオ侯爵の側で一人の男性が投げかけた疑問が、皆の憶測を広げて伝播していく。これは良くない傾向だ。何か言って、皆の気を逸らした方が良いかも知れないと一歩前に出ようとしたのを、ウォルフリックに止められた。
「バレリー。大丈夫だ」
「……?」
皆に不安を投げかけた男は、後ろにネルケ夫人を従えて人の波を割ってゆっくりとこちらに向かって来た。
「お久しぶりにございます。前大公夫人」
「ようこそ、クランチオ侯爵。ネルケ夫人」
「こちらがウォルフリック公子さまですか。ウルガー大公殿下によく似ておられる」
クランチオ侯爵は、ウォルフリックの頭から靴の先までじっくりと眺めた。それは慎重に観察しているように思えた。ネルケ夫人は黙って見ていた。
「この子は父親似ですから」
「さようですか? 大公さまが倒れられた今、10年前に失踪されていたウォルフリックさまが帰って来られた。それはあなた方にとって都合が良すぎませんか?」
「侯爵。ウォルフリックさまを前にして失礼だぞ」
「リヒモンド」
そこへリヒモンドが割って入ってきた。ネルケ夫人は声をかけたが、彼はそれを無視した。侯爵は鼻で笑った。
「何をおっしゃいます。リヒモンドさま。本物かどうか疑わしい後継者よりも、大公の弟君として優秀なあなたさまこそ、次期大公として相応しい御方」
「無礼だぞ。クランチオ侯爵。下がれ」
「いえ。下がりませぬ。皆が疑問に思っておられることでしょう。10年ぶりに姿を現したウォルフリックさまが本物かどうか」
老侯爵はリヒモンドの制止も聞かず、ギロリとウォルフリックを睨み付けた。ウォルフリックは相手にしていないが、私は側で見ていて冷や冷やした。この状態に側にいた近衛兵は動かない。何故? と、思っていると、会場の明かりが一気に落とされた。辺りが真っ暗になる。




