再犯編
田代はまた麻薬をやった。
田代はまた捕まった。
田代はまた過ちを犯した。
何度、何度、何度繰り返すのだろう。
田代だけではない。
俺もだ。
なになにはもうしない。
なになにはもうしない。
なになにはもうしない。
しない、やらない、もうしない。
そんな誓いの意思ってどれだけ堅いものなのだろう。
自分の汚れた生き方の中で、そうした誓いは、その瞬間は強いはずなのに。
いやいや、もっともっともっと。
もっと、自分が変われれば。
もっと、自分がうまく出来れば。
そう考えた途端、結局、元の行動の自分に流され、再び同じ過ちを犯す。
結局人間は、変われないのだろうか。
結局人間は、変わらないのだろうか。
答えはYESである。
変われたら、とっくに正しく美しい生き方しているはずだ。
こんな汚い、脂ぎった、どろどろな、人を貶める事に加担するような人間になっていないはずだ。
とどのつまり、俺は。
俺には。
俺には、何もないんだ。
自分が。
自分の意思が。
こうなりたいという願望はあっても。
こうなるために、周囲に流されることのない強い意志をもって行動なんて出来ないんだ。
それを毎日、毎日、自覚し、なぞり、確かめ続ける人生で。
それを痛感したのが、高専時代、イカサマ麻雀がバレた、数年後の話である。
いつものように、ヒラ(イカサマなし)で麻雀を打っていた。
上級生たちは、終了退学や、卒業し、自分らが、上級生になったくらいの頃。
俺は、言った。
「あれ!? 佐藤? 焼き鳥じゃね?」
佐藤とは、同学年の留年生。
オタッキ-な風貌に、留年生のため、年齢は年上の先輩。
しかし、周りには、馬鹿にされ、A氏とも地元中学が一緒。
俺も周りに流されるかのように、佐藤先輩の事を、揶揄し、からかい、もてあそんでいた。
「まじで!? さとう? 焼き鳥なの?」
焼き鳥とは、麻雀用語で、一度も上がらないで、麻雀の半チャンが終了すること。
焼き鳥になった者は、焼き鳥罰符の点数、当時は4000点オールを支払うのである。
金額にして、1200円。
学生時代の自分らにとっては、1200円は、大きな出費である。
そんな事もお構いなく、佐藤先輩に、A氏や俺は、言葉で圧力をかけ、からかい続け、結局何度も佐藤先輩を焼き鳥に導いていた。
今にして思えば、その佐藤先輩を酷く馬鹿にしていた自分がとても情けなく、A氏に流されそういう言動をしていた自分が本当に恥ずかしいと思ってしまう。
何度ごめんと言っても、おそらく、佐藤先輩は許してくれないだろう。
しかし、当時の自分は。
そんな謝罪の気持ちもどこへやら。
流され、調子に乗り続ける自分がずっとそこに存在した。
勿論A氏の影響が強いのだが。
もう上級生もいなくなったある日。
そうだ。
あいつら、カモるか!?
A氏の良からぬ提案で、再びコンビ打ちをしないかと提案された。
俺にそれを提案するのは。
これは、A氏にとって、俺との信頼関係があるからではない。
今にして思えば。
俺が、最も都合良く利用できる駒の一つでしかないからだ。
いよいよとなれば、そんなコンビ打ちをしていた俺も裏切るだろう。
そこに罪悪感なんてないだろう。
そんな非情冷徹な人間。
でも俺には。
自分がなかった。
誰かに、ああしろ、こうしろと言われ、動くのが楽だった。
そっちの方が、よっぽど人生の選択に苦労しないで済むと。
そう思っていた。
でも、本当にそれが正しい生き方なのか。
本当に、それが美しい生き方なのか。
自分が正しく、美しくあろうという生き方の姿勢は、自分の意思で、考え、苦悩し、導き出していくものじゃないのか。
それが、生きるってことじゃないのか。
俺は、そんな自分への問いかけも空しく、気づけば、再び通し(サイン)の練習と、積み込みの練習を必死に行っていた。
ギャンブラー伝説哲也。
房州さんの積み込み。
哲也の積み込み。
それらに近いくらい、必死に練習し、必死に作戦を練った。
そこでもどこか、漫画の主人公になった気でもいたのか。
かっこいいなとか、気をよくしている調子にのった自分いたのかもしれない。
今になって思っても恥ずかしいが。
とても懺悔したい気持ちになる。
A氏は言う。
「あいつら、以前、俺らがイカサマで罰符を支払ったことで、もう、イカサマをしてこないと思っているはずだ。今度は完璧な通しと、完璧な積み込みで奴らカモろう」
そんな企てを提案し、実行することになった。
サイコロの練習をしたが、これは、漫画の世界では上手くいくが、現実世界では、ほぼ不可能。
しかし、攻略方法が一つあった。
積み込みは実際、都合良く牌を積み込んで、親の時、サイコロで5の目を出せば、自分の山の右から5番目から、4牌持っていき、その後、4牌、4牌、4牌、と他家が自分の手配にもっていく。
5なら、8牌。
9なら、対面に4牌。
サイコロの目次第もっていく事が出来る。
麻雀は14牌の構成を作り、1牌切って、13牌の構成で、14牌目の上がりを目指す競技。
最初の親の牌ぱいの14牌の内、8牌も自分の積み込みで、決めれるとしたら……
そのイカサマの優位性は計り知れない。
結局イカサマにすぎないのだが。
そのイカサマで作った手役に意味なんてない。
8牌となれば、例えば、ハク3枚、發3枚、中2枚、というふうに、積み込んでしまえば、その8牌がそっくりそのまま、最初からあったら。
中を一鳴きいれた時点で、もう既に大三元が内部で確定してしまう。
とてつもなく、露骨に汚いイカサマである。
良い子は真似しないように。
といいたいところだが。
俺は、そんな積み込みをやってしまった。
もう一つポイントが。
自分が親番のとき9が出た時、対面、いわゆる、位置的に、自分の正面に座る人間に4牌いってしまうことがある。
しかし、俺とA氏は、この特性を利用し、お互いが対面に位置した時は、積み込み爆弾を。
隣合わせになった時は、通しを中心とした、鳴き麻雀を。
それらを駆使して、戦いを行った。
特に力を発揮したのが、上家が親-左隣りの人間が親の場合。
対面にA氏がいる。
2つサイコロの目の合計でもっとも出やすいのは、7である。
それには、理由があり、7が出る通りは、1と6、6と1、2と5、5と2、3と4、4と3の6つの組み合わせ。
これら2つのサイコロの全ての組み合わせ数は、36通り。
つまり、36回サイコロを振り、6回(6回に1回)は7が出る。
これは、16%もあり。
さらに、3が出る確率は、1と2、2と1の二つ。これは、36回に2回で18回に1回で5.5%。
6が出る確率は、1と5、5と1、2と4、4と2、3と3の5通りで13.8%。
そして、11が出る確率は、5と6、6と5の2通りで5.5%。
それら全てをひっくるめると、3か6か7か11のどれかが出る確率は、36分の15回。
41%。
3が出た場合、対面に8牌。
6が出た場合、自分に4牌。
7が出た場合、自分に8牌。
11が出た場合、対面に8牌。
41%の確率で、4牌以上の牌を牌ぱい時にどちらかが獲得でき、27%の確率で、その8牌が俺かA氏の手元に入るといった計算となる。
まぁ簡単にいえば、対面にコンビの人間が座っていた場合、積み込みがかなり都合良く進行していき、どんなサイコロが出ても、その時に応じた積み込み方で、自分か、対面のA氏にしか、その牌しかいかないという仕組みである。
とても汚いイカサマ。
人間がやる所業とは思えない行為。
しかし、自分はやってしまった。
そして完成させてしまった。
ある日の麻雀で。
対面に座るA氏がリーチをかける。
しかも、一巡目のリーチのダブリー。
親は左隣りの上家。
サイの目は、11だった。
つまり、俺が積んだ8牌がそっくりそのまま、A氏の手元に全ていき……
A氏はすぐさま、上がる。
ダブリーチンイツピンフイッツードラドラの13ハンの数え役満を。
俺の積み込みプラス、運も味方した。
俺の積み込みは、当時俺が得意としていた一色積み。
得意気に今になっていうのもカッコ悪く、恥ずかしいが、ピンズだけだとか、ソーズだけだとか、マンズだけだとか、積み込みの際目についた、集めやすそうな種類の牌を一種類選択し、積み込む、それが一色積みであった。
これらの一色積みは、チンイツやホンイツの形が作りやすく、13牌の構成のうち8牌も同じ種類牌があれば、簡単に染めての手役をつくることができるのだ。
一晩で、小四喜や大三元、字一色と言った、露骨な不自然な役満が何本も上がってしまった日もあった。
勿論それらを使う相手も選んではいたが。
そんな、行為も、所詮イカサマ。
俺は、そのイカサマを使っていた当時を一体なんと思っていたのだろうか。
自分に疑問をもっていたのだろうか。
頭をかく、1,4,7待ち。
耳を触る、2,5,8待ち。
肩を触る、3,6、9待ち。
そんなサインを送り、友達からお金を巻き上げる汚い自分に、これでいいんだ、これでよし。
と納得していたのだろうか。
長いものには、巻かれろという言葉があるが。
A氏は俺にとって、長いものだったのだろうか。
同級生の、同じ年齢の、同じ部屋の、友達の一人でしかない。
でも、本当に友達言えるのだろうか。
圧倒的権力者なのか?
いや違う。
今まで。
意見や、考え。
思考や思想。
勿論俺は、自分がなかった訳ではない。
しかし、自分の考えが一番正しくて間違いないんだと、さも良い張るA氏に、どこか羨ましさや、自分にはない思いきりの良さがあったのかもしれない。
そんな強く自らの自論を展開する者に、そうだね、そうだねって、肯定していくことが、楽だから、自分は意見を受け入れ、流されてしまっていたのではないのだろうか。
本当は、人ってもっと謙虚で、大切で、誠実で。
本当は、人ってもっと自分らしく生きる権利があって。
どこかで、自分は、無難に生きるために、それらの権利や、生き方を放棄して、彼は長いと勝手に決め付け、巻かれることが、生きていくことの上で、とても楽で心地よいと思ったから、だから、そうした生き方をしてしまったのではないのだろうか。
そういう自分にとても後悔している。
そういう自分をとても軽蔑している。
そういう自分を決して許してはいけない。
それら懺悔の気持ちが溢れだしたのが、社会人になって、一年目の泣いたあの日の事だった。
でも、今思う。
自分は確かに罪を犯した。
だが、人間は罪をなんらかの形で犯すものだ。
何かを殺し、何かを食べ、生命を繋ぎ、明日を迎えて行く。
それらの罪の償いは、自分の心が壊れることにあるとずっと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。
自分が傷つくことは、他人にとってしったこっちゃない事だ。
罪の償いは、こういう思いや行為をする人間を、喰いとめることにあるんじゃないかって。
だから、自分は発信しよう。
今の自分が、過去の自分を許してあげよう。
周りは許してくれないかもしれないけど、俺は、それでも、その気持ちはちゃんと受け入れ、もうそんな事をしてはいけないよと過去の自分に誓いを立てよう。
そして、今の自分。
未来の自分にちゃんと誓い、みんなに発信していこう。
イカサマすんなよ!
絶対。
男なら、いや、人間なら、正攻法に真っ当に勝ってこそ、美しくカッコいいんだってね。